チーム別「エア上司」制度のススメ
こどものころから、集団行動が苦手だけど、人間観察はすきだった。
そして、どうして学校にはこんなにたくさんの人がいるのに、仲良くなれる人がいないんだろう、と思っていた。自分に問題があるのかもしれないと思っていた。
だけど、今ならわかる。そりゃいないわ、と。
こどものころから、ひとを見るときに、ざっくりと10種類くらいの、色別のチームに分かれて見えていた。
わたしは黄色チームで、なかなか同じチームの人に会えなかった。
人数(地域)や年齢で絞り込んだすくない人数の中では、会えないのはまあ仕方がない。
(この色別のチーム編成は、単純に性格が似ているということではなくて、考え方や感じ方の要素のようなものを見ている感覚なのだけど、うまく言葉では言い表せないのが残念だ。)
年齢とともに、少しずつ人に会う範囲や人数がひろがっていった。
製菓の専門学校に行ったときには、広がったものがさらに「趣味やすきなもの(ここではお菓子)」でもう一度絞り込まれて、判断が複雑になったのをおぼえている。(チーム編成に加えて、好きなものが同じ、というかけ算になった)
会社を辞めて独立してからは、いろいろな仕事をしている人と知り合うようになった。
様々な環境、年齢、好み、仕事、などが複雑に重なるたくさんのひとの中からも、わたしは黄色チームのひとをうまく見つけられるようになっていた。
たぶん、まずはわたしが、隠すことなく自分の色を出すようになったからなのだと思う。
そして、そのチームは縦に長く螺旋状になっていて、いろんな層に続いていることがわかった。
同じ黄色チームだと思っても、遠くて手の届かない人もいる。それでも同じ螺旋の中にいるということはわかる。
このことは、わたしにとって希望だった。
こどものころからずっと黄色チームのひとに会えなかったけれど、こんなにたくさんいるんだ!と、その景色がはっきりと見えたからだ。
それからわたしは、黄色チームの上のほうからいつも見られているような感覚で、年齢も職種もまったくちがう人を、何人か勝手に「エア上司」としている。
エア上司はわたしのことを部下だと思っていないけれど、わたしはいつも「あの人だったらどう言うかな」と思い出しては、姿勢をただしている。
そして、おもしろいのは、黄色チームのなかの螺旋を、気がつくと自分でのぼっていて、ふとある時に、エア上司だと思っていた人に会えたり、話すことができたり、ほめてもらえたりする。
飛び技は使えないし、螺旋状につづくその道をじぶんの足で一歩ずつ進むしか方法はない。下から上を見て憧れているだけでもいいし、進むこともできる。それは自由だ。いや、それこそが自由なのだと思う。
それから、このチーム編成について思うことは、恋人や夫婦の組み合わせを見ていて思うそれと同じだった。
わたしは数年前まで、自分のことを好きだと言ってくれる人のことを、あまりちゃんと受け入れることができなくて、今でもそのことについて考えるのだけれど、
わたしから見るとちがうチームなのにな、と相手のことを思っていたのだ。同じチームのひとがいい、と思っていたのだと思う。
もちろん、ちがうチームの人とも仲良くできるし、ちがうということはとても面白く興味深い。認めることもできる。
だけど、ちがうチームの人と恋人や家族になって近くにいすぎると、行き着くところは「わたしたちはちがうよね」というところなのだ。
「わかりあえない」ということだけが、どんどんはっきりとわかってしまう。
これは完全に好みで、真逆の組み合わせを楽しめる人もいれば、できない人もいる。
わたしは「わかりたい」の塊なので、別に似ていなくてもいいけれど、「わかる」がほしい。
こどものころ、本当に仲良くなれる人に出会えなかったことも、若いころ、なかなか人を好きになれなかったことも、こうやって種明かしみたいに「そうだったのか」と思えることができて、とてもうれしい。
今、小中学生でいじめにあったり、人間関係に悩んでいる子たちにも教えてあげたい。
学校は世界ではないし、世界には同じチームのひとが必ずいて、螺旋を歩いていけば必ず会えるよ、と。