身近な呪いをさがしてみた【しょぼいレポート】
ぷろおごサロンのレポート、書いていきます。
「贈与」「儀礼」「大衆」と続き、第4回のテーマは「呪い(サブタイは「呪いと私」「呪いの構造」)」です。今回はさぼっち自身の経験をベースに、身近にあった呪いをご紹介します。つたない文章ですが、どうぞお付き合いください。
本noteのざっくりまとめ
おさらい
①同級生に定規をズタズタにされた話【環境束縛】
まずは筆者が小学4年生の頃、同級生だった男の子に、定規をカッターナイフで傷まみれにされた事件について話します。事件の起こった原因は今でもわかりませんが、思い返すと家庭の事情が呪いとして作用した結果なのではないか?と考えています。
これと同じやつがズタズタに
当時通っていた公立の小学校はベッドタウンに位置しており、地域間の貧富の格差が大きい特徴を抱えていました。3階建て一戸建ての家に暮らす子供もいれば、築数十年超えの公営団地で暮らす子供まで様々。自然と着ている服や扱う道具などに違いが現れていました。定規を切り刻んだ彼は、祖母と団地で二人暮らしで(本人いわく)、両親の姿は授業参観でも見たことがなく、3日間同じシャツだったこと、持っている文房具がやたら短い鉛筆だらけだったのが印象に残っています。
そんな彼からうけたメッセージは、ズタズタにされた定規の他に、通学路脇に建っているアパートの壁に書いた【●●(筆者の苗字)タヒね】の文字。筆者個人としては同級生として彼に接したつもりが、彼にとっては憎しみをもたらす結果になった。邪推を含んだ話ではありますが、彼は貧乏という呪いによるコンプレックスに苦しんでいたのかもしれないと感じています。
身近な存在が自分よりも豊かな環境で生きているのを目にするたびに理不尽な境遇に対する恨み、そんな自分の気持ちを察しようともしない同い年の人間に対する憎しみ。自力で抜け出すことはままならず、絶え間なくふりかかってくる屈辱と劣等感。貧乏による負の念で貧困に陥る過程は、まさしく呪いではないでしょうか?
②11月にサンダルはいて出かけた話【偏見】
続いては、今月に入って間もない土日にサンダルを履いて外出したときのこと。足が蒸れないようにしたかったからという理由でサンダルを履いて出かけたのですが、出発の前に母が筆者に告げた一言は、「こんな季節にサンダルを履いて出ていくのは恥ずかしい」でした。
サンダルを履くのに最適な季節と、11月という時期との乖離に違和感を感じるのは分からなくもないのですが、「恥ずかしい」とは何でしょうか?
もしかしたら「思い込み」という形で呪いが発生しているかもしれないと思ったため、この「恥ずかしい」について考えてみることにしました。
季節に合った装いから外れた格好をしている人間に対し、「それは第三者から見れば品性や人格を疑う行為であり、不愉快である。それを想像するのが恐ろしい」という感想を、母は「恥ずかしい」という表現で口にしたのではと考えました。
ただ実際問題、冬場でもサンダルを履いている人間の人間性を疑うことがあるかというと、個人的には疑問を覚えます。精々「物好きな人だねぇ」くらい。母の持つ「季節外れの時期にサンダルを履く人間を見た架空の第三者の印象」と「実情」にはギャップが生じており、その根本には母の自己暗示的な思い込みがあると考えています。
思い込みによって不快感を伴う偏見を自ら持ちながら、その存在に気づかないがゆえに自力で解除できずにいる。これもまた、「呪い」の一つといえるのではないでしょうか?
また、この思い込みを持つようになった背景としては、母がこれまで歩んできた生い立ちが少なからず影響しているだろうとも考えています。母本人は自身の過去を語らないものの、崩壊した家庭環境で育ち、集団の中で生き残るために周囲の反応をうかがいながら生存してきたという背景を抱えています。その生き方の中で他人から見て異物感を持たれる行為は排斥される火種になりうるものであり、「自身の生存に致命的な打撃を与えるもの、恐ろしいもの」という固定観念を築いてしまったのかもしれません。家庭環境、もっとかみ砕けば過程を取り巻いていた人間の価値観に適合した結果、備わった価値観といえると考えます。
③自分をほめる話【価値観の変化】
最後はポジティブな話をしようと思います。自分をほめる話。人によっては自己認知療法として認識している方もおられるかもしれません。
「そもそも自分は生きている時点で頑張っているからえらい」など、自分の存在をポジティブに解釈するこの行動は、「呪い」を肯定的に活用した例ではないでしょうか?
否定的に捉えていた行動に対する認知を肯定的に変化させることで、ネガティブな評価が減り、ポジティブな評価が増えます。褒める動作で自己評価が2段階変化する形です。この変化の繰り返しによって精神的な余裕が生まれていくことで、ポジティブに見つめる範囲が増え、自己肯定感も回復していくと、筆者は捉えています。
この「自分をほめる行為」は個人で完結する行為に見えますが、周囲の人間が持つ価値観によって維持できる期間と効果が変わります。実体験としては、自分の行為を好意的に認める存在がいなければ独りよがりだと思えてしまい、言葉はポジティブな一方で認識はネガティブなままという乖離に苦しむことになりました。反対に自分の行為を素直に認めてくれる存在がいた場合の方が、自分自身を肯定的に認めやすくなるのも想像に難くないでしょう。
Wikipediaによると、「のろい」はもっぱら悪い意味で用いられるとあります。この定義に準じますと、今回の話は「まじない(癒し、予防の意味を込めた魔術的な行動)」と呼ぶほうがしっくりくるかと思われます。
結局のところ、偏見に固執することも自分の行動を「えらい」と認めていくことも、【思い込む】という行動では一緒です。ただ、当事者にもたらされるメリット、印象の程度(利害)によって、それが「のろい」もしくは「まじない」に分類できるのではないかと思いました。
人間は多かれ少なかれ思い込みを抱えるのだから、ポジティブな効果をもたらすことを思い込みたいものですね。
まとめ
①では既存の生活環境によって行動を縛られ、呪いを生むパターンを、
②と③では思い込みによる認識変化によって当事者に及ぼされる心理面での影響について述べました。どのパターンも呪いを受ける本人とその周りにいる人間との関係、やり取りされる価値観が要素として関わっていることを振り返ることができました。
裏を返せば、関係を結ぶ人間を変化させることで自分の価値観や心理的な負荷を調節できる(劇的な改善は運や時間が必要)ということでもあるのではないでしょうか?
自分自身にとって避けたい、解放されたい苦しみがあるのならば、これまでの人生で居心地のよかった時間や、人間関係で印象に残っている価値観を掘り出して再現する試みが、呪いを解くカギとなるかもしれません。
それではレポートをお終いにします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m
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