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短編小説:金と美


ーー愛とは、金と美の交換なのだ。

目が点になった。中村くんはブログで悟りを開いていた。
どうしてそうなった。
いや、そういうことだよなーー

新婚ホヤホヤの私は、アパートのパソコンの前でしばらく考えた。
新品の大型プラズマテレビには、地元出身の国民的お笑いタレントのお昼の番組が、BGM代わりに流れている。楽しそうなスタジオの笑い声が、私の固まった腕にからみ付く。


「大抵の人間って底が見えるけど、君のは見えない」
高校の同級生の中村くんと、初めて2人きりで会った日。待ち合わせの喫茶店に現れ、私の正面にどっかと座るなり中村くんは、水をぐびりと飲むと突然そう言い放った。
私は一瞬面食らって、目をぱちぱちさせたけど、すぐに視線を伏せ、
ーーさもありなん。
と思い、哀しい微笑みを浮かべただけだった。

あれは、褒め言葉だったのだろうか。あまりに不意を突かれて、ーーというのは言い訳で、ぼんやり屋さんの私は、言われたことの真意をすぐに汲み取る機転を、普段から持ち合わせていない。中村くんは、映画館でアルバイトをしながら小説を書き、最近では文芸雑誌に掲載されたりもしている。文学青年の、含意あるよく練られた言葉だったに違いないのだけど、それは虚しく私の前を通り過ぎていった。



「心の美しさというのは、何よりも価値があることだよ」

パソコンの前で、彼のそんな言葉も思い出していた。外見に対して不安定な自己イメージを持つ私に、彼は気づいていて、勇気づけてくれたのだと思う。「自分の心が美しい」だなんて、それまで思ったことはなかったのだけど、mixiの一問一答みたいな記事に「表面は悪人に見えることもあるかもしれないけど、善人です!」とアピールして書いた覚えはある。私たちはお互いのブログをようく読んでいたのだと思う。少なくとも私は、彼の文章の緻密な美しさに感心して、どんなに長くてもしっかり読んだ。就職試験の小論文の冒頭で、彼のフレーズを盗用したほどだ。

「You are what you eat」

中村くんは、おそらく文学の袋小路にいて、豚の角煮をじっくり作ったことを繊細に美的にレポートしていた。
子どもの頃、「もし薬学が進化したら、ドイツ人なら1粒で全ての栄養が摂れる薬を望み、フランス人ならいくら美味しいものを食べても身体を壊さない薬を望むだろう」という流言を聞いたことがある。私はドイツ人に同意するけど、中村くんはどっちだろう。フランス人に同意するだろうか。

私達はブログを通じてお互いの人生を監視し合っていた。私にとってブログに日記を書くことは、日常の、ごく当たり前の行為だ。ネットがダイアルアップ回線だった時代の、高校生の頃からずっと続けてきた。どうせ読まれるなら楽しんでもらいたくて、いつも面白おかしく書いていた。小学生の頃から読書感想文はいつもクラス代表に選出され、国語教師の母親の添削がみっちり入っていた。私は苦も無くそれを受け入れた。文章が上手だという自覚はあまりなかったけど、時々絶賛されて「ほほう」と思っていた。

「You are what you eat」

小論文の評定は高かった。でも面接で負けたらしい。その就職試験には、成績2位で落ちた。

私は他人から、「すごく可愛い」と言われることもあれば、「全然可愛くない」と言われることもある。外見に対する他人からの評価が、極端に二分されるのだ。そのせいでなんとなく、この人からはどっちに見えているのだろうと、いつもオドオドしてしまうのだった。
余白の広いのっぺりとした高低差のない顔。黒目がちの丸い目は低身長のために自然と上目遣いになる。幼少期には可愛い可愛いと周囲から持て囃されてきたのに、思春期を過ぎると周りの男の子は、他のすらりとした美人系の女の子達を持て囃すようになった。この子ども時代の転落体験が、私の外見コンプレックスを形成した。

2年前、中村くんと、美人顔の親友の由美を含む高校の同級生4人で、レンタカーを借りて、日帰りで県外に温泉旅行をした。私がほんの少しの間ハンドルを握り予想通りへたっぴな運転をすると、中村くんは愉快そうに怖がって囃した。由美の運転はもっと怖くて固まっていた。中村くんは、運転しなかった。
旅館の浴衣を着て川沿いを歩いていると、私の後ろで由美が、中村くんを肘でつついてひそひそと急かしていた。だから中村くんは、おそらく私のことを憎からず思ってくれているはずで、可愛いと思ってる派の人なんだろう。

彼のブログに唐突に記された格言を、私は、自意識過剰とは思うけど、私の結婚に対する見解なのだと捉え、しばらく動けずにいた。
ここに書いてある「美」とは、外見の美のことだけを指しているのではないように思えたからだ。

テーブルに置いてある、親友の由美が取りまとめてくれた、高校時代の友人達の寄せ書きアルバムを手に取り、神妙な手つきで中村くんのページを開く。

ーー僕には結婚というものがわからない。
だから君の結婚の知らせを由美ちゃんから聞いたとき、どう捉えたらいいのかよくわからなかった。
それで、僕はこの手紙を書くために、由美ちゃんにしちめんどくさい質問をいっぱい浴びせてしまった。
それでも僕にはやっぱりまだ結婚というものはよくわからないでいるので、
とりあえず僕の敬愛するサンテグジュペリの結婚に対する考えを引用することにした。
結婚とはつまりその人と生活をともにする決意なのだろう。
だから君の決意に敬意を表したいと思う。決意を応援したいと思う。ーー

ほかの誰よりも小さい字で書かれた、哲学的で遠回りな文を、ページいっぱいに並べてあった。おそらく祝福の意を示して金色のグリッターペンで書かれた彼の文字を見て、私は胸の奥が少し、締め付けられた。と、同時に
ひどい濡れ衣だーー
と思った。

夫とは、ネット婚活で知り合った。出会って3ヶ月で結婚を決めた。私が会って欲しいと頼んだら、厳格な父親から「まだ早過ぎる」と突き返され、6ヶ月目にやっと会ってもらった。そのときは、結婚式場のパンフレットを持って行った。
恋愛ではなかったと思う。父母の諍いで小学生のときに母親が家を出て行き、複雑な家庭環境で育った私は、精神的なよるべがない人間で、結婚願望が強かった。
夫と出会うまで、私は不倫をしていた。はじめは孤独を埋めてもらうだけの関係だった。27歳の、彼氏がいない私の身体は、寂しさで婦人科系の不調をきたした。孤独は身体に悪いのだ。健康のためにセックスを求めた。健康のためだからこそ、好きな人としたかったから、自ずと既婚者という選択になった。はじめは彼にセックス以外の何かを期待したわけではなかったのだけど、心根の優しい彼とはやっぱり、徐々に抜き差しならない関係になっていった。
彼に子どもがいることは、しようがないと思えたけれど、奥さんがいることには次第に我慢ならなくなった。私は子どもが欲しい、妙齢の女子だった。身体がそう叫ぶのだ。だけど、妻の座は1つしかない。きちんとした彼は、きちんと避妊をした。
ある日、スーパーの駐車場で通りすがりの妊婦さんを見て、激しい憎悪を感じ、危うく突き飛ばしそうになった私は、結婚する決心をした。 

婚活ではいろんな人と会った。専門職の私の時給は3500円程度で、収入はそれなりに見込めたし、ここは地方都市だから、生活費はそう掛からない。年収は200万円からでソートした。気の合う人と平穏な結婚をしたかった。

福岡からわざわざ来てくれた人と、ミスチルのライブに行った。桜井さんに失礼だけれど、その日のライブは虚しいだけだった。旅立ちを歌ったメロディーは、重いこめかみからふわあっと空に昇って行った。国家公務員の人と、ホテルのフルコースディナーにも行った。会話はそれなりに成り立ち、数回会ったけど、押しが過度に弱く、一緒にいても苦しかった。私に決め手が足りなかったのかもしれないけど。

夫からの初回のメッセージは、
「こんにちは。夢ってなんですか」
の一言だった。プロフィールに私が「今は夢に向かって、勉強を頑張っています」と書いてあったからだろうけど、あんまり不躾なのでムッとした。写真もちょっとオタクっぽかった。無視しようかと思ったけど、SEという職種と今まで縁がなかったから、
(理系くんはこんなものなのかしら)
と溜飲を下げることにした。周りから一つ飛び抜けた年収も、私の溜飲をさらに下げさせたのは否めない。
注※世間一般の理系くんはこんなに失礼じゃないので、悪しからず。

メッセージのやりとりはその後もぽつりぽつりと定期的に続いた。彼は、週末に海で会社の人とマテ貝採りをしたことを報告し、私は彼に社会性があることを確認した。東京から長期出張で熊本工場に来ていた彼は、いきなり団子や辛子蓮根を初めて食べたことを報告し、私のかすかな地元愛をくすぐった。簡潔すぎる文章はむしろ爽やかで、計算の香りがしなかった。
初めて会う日の前日、私はこの単純な人に対して気の毒になったのか、今までとったことのない行動をとった。パソコンのチャットで、自分の申し訳ないほど複雑な家庭事情を、洗いざらい打ち明けたのだった。両親が離婚していること、母が新興宗教を信じていること、父が母に暴力をふるったこと。結婚を前提として会うには、断ってもおかしくない内容に、この素直な男性は
「うん」
「うん」
とだけコメントを返した。早すぎもせず、遅すぎもしない、「うん」だった。
他の文章は異様なほど入力が速かったので、そのコメントのスピードとシンプルさが、私の胸を打った。


翌日私たちは初めて会った。ショッピングセンターでの待ち合わせに遅刻した私に、彼はややムッとしていた。その後、広い公園に移動して散歩をした。小学生のときに、毎年お見知り遠足に使われていた地元の公園だった。秋の枯葉が、足元でかさかさ鳴った。
その次は、スポッチャに行った。運痴の私は、何をしても勝てなかったけど、中学の時卓球部(の幽霊部員)だった私に気を遣ったのか、卓球だけは勝たせてくれた。カラオケもした。私はドリカムの「大阪LOVER」を歌って、彼は福山雅治の「HELLO」を歌った。趣味がカラオケの私は、カラオケデートに慣れていた。


中村くんと2人で行ったカラオケは、史上最高に楽しかった。へべれけになるまで飲んで入ったカラオケボックスで、始めは2人で代わりばんこに歌った。そのうち中村くんは、女性歌手の曲ばかりを絶え間なく独断で入れ始めた。私はそれらの歌が全部好きだったし完璧に歌えた。
彼は、へべれけな私をタクシーに乗せたとき、一瞬乗るそぶりを見せたけど、乗らなかった。


中村くんは28才にもなって定職に就かず、小説家を目指してアルバイトで生計を立てていた。インドを放浪したりして、ぷらぷらしていた。中村くんの実家は、熊本市街の一等地にお店を営んでいて、その土地にマンションでも建てれば長男である中村くんの生活はどうにでもなるという。

私の実家も同様に地主だった。イエ意識に取り憑かれ、財産の分散を嫌った父は、「土地はすべて兄に継がせる」と、幼い頃から私たちに公言してきた。繰り言として聞かされていたから、私はそれを当たり前のこととして真っ直ぐに受けとった。可愛い可愛いと持て囃されていた当時の私は、「お金持ちと結婚すればいいや」と安易に考えた。お嬢様には職業意識はなかった。思春期に母親が家を出て行くと、兄は私が寝ているとき決まって私の恥部を触った。
私は、財産が手に入る前提で生きているおぼっちゃんが、生理的に嫌いなのだ。


理系くんは、キスが下手くそだった。セックスはとんちんかんだった。そういう場面になると、ロマンチックのロの字も見当たらなかった。
だけど、2人でいるとき私は、完全にリラックスできた。週末には、黒川温泉で日帰り温泉を開拓し、冬には2人でスキーに行った。会社の人との付き合いにも交ぜてくれた。私の職場で飲み会があると、市街まで車で迎えに来てくれた。お金に対しては、2人とも過度にケチで慎ましく、レジャーや自己投資には積極的にお金を出した。あらゆる趣味や価値観が一致していた。

年度末が近づくと、文科省の研究費用で、中学校の臨時心理支援員をしていた私は、蓮舫議員の事業仕分けにより職を失うことになった。上司にそれを告げられた夜、毎晩のように電話していた彼に、普通にぼやいた。
「蓮舫に仕分けされちゃったの!来年から仕事どうしよう…」
「じゃあ、結婚する?」
軽口で言われた。

ブラウン管のテレビには、国会で事業仕分けする白いスーツ姿の彼女がいた。

組織での仕事が続かない私は、大企業で歯車になれる人の、強靭な従順さを尊敬している。不倫していた彼も、大企業に勤めていた。
初恋の人は、サッカーでプロリーグのユースをしていた。理系くんも中高時代はサッカー部だったという。不倫する前に激しい恋に落ちた大学院生もサッカーをしていた。フットサルの集まりにもよくついていった。寝巻きにしていた彼の使い古しのユニフォームは、なかなか捨てられなかった。
高校時代に片思いしていた彼は、理系コースで、学年一物理が得意だった。応用物理学のSEの彼にはーー今まで好きになった男が、たくさん詰まっていた。


中村くん、あたし、お金と結婚したんじゃないよ。

今でもいつでも、他人の幸せばかりを祈っているよ。



novel & song by 古瀬詩織

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