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「破壊と創造」の物語を

父と母、祖父と祖母が働いていた小さな仕事場が取り壊されている。僕の目の前で。
これは、破壊から始まる創造の物語。まだ始まったばかりの話だ。

思い出の場所がなくなる、というのは人を感傷的にさせるものらしい。ぼくは、取り壊されていく屋根や柱を見ていると、学校の帰りに寄り道して勝手にお菓子を食べたり、家族同然に接してくれた従業員さんたちとおしゃべりした記憶が蘇る。悩み相談や新しい知識も教えてもらった。たくさん仕事の愚痴も聞いたけれど。
僕にとって、家とも学校とも違う刺激を与えてくれる大切な場所だった。

自らを頼む

ほんの70年ほど前、この土地は空き地だった。
食べ物も満足になく、医療、学校、役所、あらゆる制度が崩壊し、絶望と希望が昼夜交代のように次々と訪れる時代だったらしい。
そんな中、食べるためでもあり、大切な人を守るためでもあっただろうが、このなにもない土地に夢馳せ、会社を起こした人たちがいた。ぼくの祖父やその友人たちだ。先立つものはなにもなく、あったのは子どもの頃から過酷な労働によって得た強い精神力とその中でできた信頼できる仲間、そして、自らへの自信だけだったに違いない。
国が破壊され、そこから新たな国や町を創造する。それはまるで、積み木でお城を作るように丁寧に積み上げ、時には壊し、また飽きずに積み上げていく子どものように純粋な気持ちだっただろうと思う。

それぞれの想い

祖父、祖母、父、母。言ってみれば僕の家族全員の想いが詰まっている建物が目の前で壊されていく。
祖父にとっては、自分で大切に積み上げた城だったし、祖母にとってはそれを支え続けた自負があり、父は修行を終えて継いだ家業を祖父を超えるまでに成長させた場所。母は大変な裏方作業を一身に引き受け、また家事もこなしてぼくを育ててくれた。
想いは不滅。とは言うけれど、想い出の場所さえなくなってしまえば、大切な記憶を思い起こすことさえ一苦労になるだろう。記念碑が立つわけでもない。このまま建物がなくなれば記憶も風化していくのだろうか?

破壊からの創造

ぼくの家族の想い出の場所は空き地になる。もう、半月もかからないうちに祖父が友人と一緒に夢を見た当時の姿に戻るのである。歴史という長い時間軸から見れば、あっという間の出来事だろう。
かつて、世界を蹂躙し席巻した騎馬民族モンゴル帝国で首都として栄華を誇ったカラコルムがその滅亡とともに忘れ去られ、草原に帰したようになるのだろうか。

だけど、ぼくはそうはさせない。
ぼくはこの土地を買うつもりだ。正直に言って経済的な価値は無である。都会のように地価の変動が激しく投機の対象になるわけではないし、近くに大会社や駅もない。コンビニさえもはるか彼方であり、車がなければ行けない。そんな土地だ。買い手もぼくだけだろう。
ぼくはこの空き地にいつか、家を建てようと思っている。どんな家を建てるのかはまだわからない。夢だ。
かつての家族の仕事場は、新たな家族の憩いの場として受け継がれていくだろう。古い想い出を破壊しなければ造れない想い出だ。

生物学者の福岡伸一によれば、細胞は新たな細胞を作ることよりも壊すことを優先して力を入れてやるのだという。破壊し創造し続けなければやがてエントロピー増大を法則に掴まり終わりを迎える。
ぼくの破壊と創造も所詮いつかは終わりを迎えるだろう。ぼくの故郷は人口が減り、獣害は増え、無医村になった。学校を卒業しても帰ってこない友人は多いしそのことは責めることも出来ないし、むしろ当然でもある。
問題は何か。すぐにはわからない。何かを解決すれば終わる問題なのかさえ分からない。

だけど、ぼくにとっては大切な土地だ。この土地で破壊と創造を繰り返し、誰かの記憶に残れば、想いを繋げられれば、と思う。
大切なことは、破壊と創造を繰り返し、その都度、誰かが笑い、喜び、想い出を紡ぐ。
そんなささやかな営みを続けていくことではないだろうか?

最後に

もし、この拙いnoteを読んで下さった方。コメントでも何でも構いませんので、あなたの地域や職場での「破壊と創造の物語」を聞かせてくださいませんか?
どんな些細なことでも構いません。大切なものをあえて壊し、捨てて前に進む。そうした想い出の共有が、一つの物語になり、不滅のものとなることを信じています。

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