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【ハリー・ポッターと呪いの子 感想】ハリーと大人になった私

一つのものを長いこと好きでい続けると、たまに“伏線回収”とでも言うべき瞬間がある。今日はまさにそんな日だった。『ハリー・ポッターと呪いの子』を観るまでの葛藤と、観劇したらそれが吹っ飛んだ話。

『ハリー・ポッター』に夢中になったのは、たぶん9歳か10歳のとき。一度何かにハマると気持ち悪いくらいにのめり込む性格をしているわたしは、その世界にどっぷりのめり込んだ。小学生のわたしがそのハテでたどり着いた持論は「これは物語なんかじゃない」。

魔法界はどこかに存在していて、だからハリーの戦いも“史実”。つまり、ローリング女史は“作者”じゃなくて“筆者”というわけである。たぶん、わたしの厨二病はこのあたりがピークだった。我ながら、なかなかキている。

11歳の夏休みには「ふくろうが入学許可証を届けにくるはず」と信じていたし、12歳のときは「編入制度がきっとある」と思っていた。17歳になったときは、本気で寂しさをおぼえたものだ。手に汗握り、ときにはハリーたちの会話にクスッと笑い、ときには鼻をすすりながら号泣して、わたしの10代はずっと『ハリー・ポッター』と共にあった。何度本を読み返したかわからないし、映画も数え切れない回数観た。

そんなシリーズが完結してしばらく経ったころ、ハリーの息子たちの物語『呪いの子』の舞台化が発表された。『ハリー・ポッター』シリーズの、唯一の正式な“続編”だ。

6年前、スクリプトを読んだごく個人的な感想は「めちゃくちゃ面白いけど、好きじゃないな」。『ハリー・ポッター』シリーズは全7巻で究極に完成されている。だからこそ、すべて片付いたなかで過去に戻る話をやるのは蛇足に感じたというか。「ヴォルデモートに実は…………」という設定はさすがに後付けがすぎると思ったし、ついでに19年後のハリーの描き方についても言いたいことがあった。

ただこの作品、シリーズ本編同様にめちゃくちゃ面白くて。アルバスやスコーピウスといったキャラクターたちにも惹かれたし、なにより、ローリングの織りなす物語がどうしたって大好きで。だから楽しみ半分、困惑半分で、いつか観劇できるその日を待ち続けていた。

ここからネタバレ

観劇オタク的にもそこそこ長い、3時間40分という上演時間。でも、開演直前の影ナレが流れたその瞬間から、一瞬たりとも息をつく暇はなかった。

舞台上でかけられた、さまざまな魔法に夢中になった。マグルの世界の演劇だから種も仕掛けもあるんだろうけど、わりと全然わからなかった……。開演前、舞台上に帽子が置いてあったんだけど、あまりに自然に置かれていたもので、魔法で浮いているって始まるまで気づかなかった。そのあとスコーピウスが耳から蒸気を吹き出して、そこから先はひたすら驚くべき魔法の連続。飛行訓練で「UP!」の声にあわせてちゃんと上がる箒もすごかったし、ポリジュース薬で手から徐々に変身していく様子や、魔法省の入り口に吸い込まれるハリーたちにも驚いた。特に魔法省の電話ボックスのあれ、どうなってたんだろう……。ハリーとドラコの決闘シーンも飛んだり跳ねたり回ったり、ものすごかった~。

それになんと言っても、一部の後半に現れた湖! フィルター越しのアルバスやスコーピウスの髪が(まるで水中にいるように)ちゃんと揺れていたのも不思議だったけど、舞台手前からびしょ濡れの2人が上がってきたのには心底びっくりした。そりゃあ専用劇場を作るしかないし、ロングランにするしかない。

くわえて強く惹かれたのは、光の使い方。杖先に灯った「ルーモス」の光、逆転時計を使った瞬間の世界が揺れるような照らし方、それに肖像画やケンタウルスといった魔法世界ならではの登場人物を彩る照明。光ひとつで、照らされている場所がどこなのか、その人が何者なのかが見事に伝わってきた。

実は観劇前、プロジェクションマッピングを多用するのかなと勝手に想像していて。それじゃ綺麗だけど魔法には見えないかもな……なんて一人で心配していたんだけど、完全にただの杞憂だった(笑)。どれもちゃんと魔法だった。それだけで、十二分に拍手喝采。

あと好きだな~と思ったのは、ホグワーツの動く階段。舞台ではよく見かける演出のひとつだけど、こんなに文字通りのぴったりな使い方は初めて観たかも。アルバスやスコーピウスの昇降中にも結構な速度で動いていたので、2人のバランス感覚に敬服した。

もちろん、魅力的なのは魔法だけではなく、登場人物たちも同様だ。スクリプトを文字で追うのと、実際に役者たちが息を吹き込んだ状態とでは親しみやすさがまるで違う(念のため追記しておくと、はじめから文字のみで完成している「小説」と、演じられることを前提にする「スクリプト」とでは意味合いがまったく異なる)。アルバスとスコーピウスのドタバタはめちゃくちゃかわいいし、魔法大臣として活躍するハーマイオニーや母となったジニーは超かっこいい。ずっとふざけているロンは愛おしいけど、もうちょっと格好良く描いてあげてもいいのにな、なんて。

藤原竜也さんはハリーのイメージじゃないかも、なんて印象だったけれど、実際に目にしてみたら「ハリーが目の前にいる!」と思うしかなくて。アルバスに毛布を渡して喧嘩になる場面とか、スクリプトで読んだときにはしっくり来なかったやり取りが、藤原さんのおかげで本物になった。ああそんなふうに激昂して、そうやって思ってもないことを口にしてしまったんだ……って。ちゃんと、わたしが大好きな少年時代のハリーと地続きだと気づけて、とてもうれしかった。

キャストの話題でいえば、マクゴナガル先生役の榊原郁恵さんにも良い意味で衝撃を受けた。榊原さん、実は去年の戦隊でのイメージが強すぎて、マクゴナガル先生はちょっと違うんじゃないかと思っていた。事前番組などでもその印象は変わらなかったんだけど、今日ステージ上の姿を見たら、もうマクゴナガル先生そのもの! 話し方、表情、佇まい、何もかもがマクゴナガル先生。さらには、ピンクの衣装に身を包めば、今度は正反対のアンブリッジに大変身。役者さんってすごい、すごすぎる。

ホグワーツに入学した生徒たちは、それぞれの持つ性質によって4つの寮に組分けされる。ポッタリアンの多くが、自分はどの寮の所属になるか想像したことがあるはずだ(ちなみに、わたしは絶対レイブンクロー。なぜなら勉強がほぼ苦にならず、知識を得ることに幸せを感じる性格だから)。

全7作のなかでは、ほぼ一貫して「グリフィンドール生は勇敢」「スリザリン生は狡猾」と描かれている。けれど『呪いの子』を見ると、それは結局、周囲の環境や人の影響を受けて大きく変わっていくものでしかないと思い知らされる。これも今回、いきいきと動くアルバスたちを観て感じたこと。

スリザリン生のアルバスとスコーピウスは(もとを正せば自らが蒔いた種とはいえ)魔法界を救うため、勇敢に奔走する。そこには、7作で何度もスリザリン生の特性として描かれたずるさやしたたかさは見受けられない。ハリーやドラコも同様で、「グリフィンドール出身の勇敢なハリー」「スリザリン出身の狡猾なドラコ」はもはや存在しない。2人とも、自分の息子を愛し、理解しようと努めるただの父親だ。もともとの性質はその人のごくわずかな一部でしかなく、その後の生き方は自分で選ぶものなのだ、とその姿から教えられる。

アルバスやスコーピウスは、互いが育った“家”を凌駕して親友となった。対して「自分が誰の子なのか」にずっと縛られていたのがデルフィーニ。病気ゆえホグワーツに通えなかったというデルフィーだけど、ホグワーツで誰か友人と出会っていたら、もしかしたら違った道もあったのかもしれない。デルフィーが正体を表す場面の岩田華怜さんの迫力がものすごくて、ちょっと鳥肌が立った。

「ヴォルデモート」じゃなくて「ヴォルデモー」なのが最後までしっくり来なかったり、ロンはそこまでずっとふざけてる人じゃないよ~と不憫に思ったりはしたけれど、カーテンコールが終わった瞬間に口をついて出た言葉は「すごかった!」。これに尽きる。20年もの間ずっと憧れ続けた世界が、文字でも映像でもなく、目の前に確かに存在していた。その事実にとにかく圧倒されて、そうなるともう「蛇足だと思ってた」とかそんな葛藤はもはやどうでもよくて(笑)。原作が完結して15年近く、映画の終了からも10年以上経った2022年に、新たな形でハリーや魔法の世界と再会できた幸せだけを噛みしめていた。

わたしにとって『ハリー・ポッター』は、聖典といっても過言でないくらいの存在。同じ世界を描いた『ファンタスティックビースト』シリーズもめちゃくちゃ面白いけど、やっぱりハリーが大好きだなとうなずきながら帰宅。6年前に「あまり好きじゃないかも」と思った物語とようやく正しい形で出会うことができて、今度は好きになれた気がして。そんな些細なことが、たまらなく幸せだなと思う。

余談:オタクなので赤坂駅からACTシアターに向かう途中にあった肖像画の同定に勤しみたいんだけれど、ほとんどの肖像画には名前が書かれていなかったので映画を見直す必要がありそう。ひとまず、ハリーが1年のときの教科書『闇の力――護身術入門』の著者は同定。あとは老若2人のニュート・スキャマンダーしか分からなかった……。まだまだ修行が足りない!

クエンティン・トリンブル氏。わたしは『賢者の石』に出てくる名前に詳しいんだ……。


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