ブログ記事(vol.8)「毒母」からの解放 - その3 -

「毒母」からの解放 - その3 - (vol.8)
2015年08月02日


今日もさーちゃんの「双極性障害になっちゃった」ブログを
ご覧いただきありがとうございます。

これまで4回にわたり「毒親」についてお話ししてきました。
今回はいよいよ(…と願いますw)最終回にして、
私が病気になった原因である「毒父」そして「毒母」について
お話ししていきます。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

前回は現実のシビアさに耐えかねた私が「音楽への逃避」を
はじめた10代の頃を振り返りつつ、渡欧して現地に移住するまで
を書いてきました。

今回は成人して、大学を卒業し、同大学の修士課程に入り、
就職先も見つかり、一見何もかもが「順風満帆」に見えていた
20代前半の頃から、どのように「毒母」の悪影響により私が
「双極性障害」を煩うようになったかをお話しします。

(話が長引かなければ)後半ではその「毒母」の毒牙から
どのように逃れ、回復できたのかをお話しできたらなと思います。

現実逃避から音楽家の道が開け、しかしその「汚い現実」に嫌悪感
を覚えた私は、19歳で人生の方向転換をし、ある意味でひとつの
「ターニングポイント」を経験しました。 
そして、入試を受け、勉強し始めた国立総合大学を優秀な成績で卒業し、
同大学で講師の仕事を始めました。
同じ時期に、MAの資格を取得するべく同大学の修士課程に入り、
またもや同時期に「結婚」という、まさにその時期は「人生の大イベント」
尽くしで、幸せの渦中にいるようだったと思います。

しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。

数年後には「毒母」からの圧力をきっかけに、幸せだったはずの
家庭は崩壊し、私は「双極性障害」という病気に悩まされる日々が
始まります。精神的にボロボロになり、離婚を経験、仕事にも手が
つかなくなり、好きだった講師の仕事も諦めるしかなくなりました。


母は離婚をしてヨーロッパに住み始めてからというもの、
口癖のように「男が全て悪い」とか「結婚なんてしないほうがいい」
とか、怒りが頂点に達すると「あんたは父親にそっくりだ」
と、子供たちに暴言を吐いていました。

昔のように子供たちに手をあげることはなくなりましたが、
そんな過激ともいえる「偏った極端な考え」の母親は、
私たち子供3人の心をズタズタに傷つけていました。
でも、何を言って反発しても、訴えても、もちろん
聞き入れてもらえるはずはなく、結局今の今まで母が
子供たちに自分のしたことの何かひとつでも「謝罪」
したことはありません。

精神的にも前よりは大人になった今、考えれば
母は離婚したことを心のどこかで「不安」に思い、
けれども自分の決断に絶対に「後悔」したくなくて、
異常なほどに「父」に該当するもの(例: 男、結婚など)
を忌み嫌い、それに触れるようなことがあれば発作の
ように怒鳴り散らしていたんだと思います。

でも、理由はどうあれ、していいことと悪いことが
あると私は思います。「自分が傷ついていて、痛いから、
他人を傷つけて、その傷を紛らわそう」という考えは、
残酷であり、何より「過去と向き合えない自分」からの
ただの「逃避」です。

その「逃避」のせいで、どれだけ子供たちがストレスを
被ってきたか。母には何を言ってもわかってくれない
でしょうが、些細なことでキレて「父の記憶すらほぼない」
妹に向かって、「あんたは父親そっくりだわ!」 と暴言
を吐く母から、私も弟も一丸となって、必死で妹を守って
かばっていました 。

毎日毎日「毒母」から暴言を受け、しかし離婚してくれた
おかげで「毒親」が片方だけになったので、そんな状況でも
私も弟も「昔よりは楽だ」と正直思っていたと思います。

妹は当時4歳だった上、家の中では「できるだけ父に会わせまい」
として私が目を離さずに必死に守っていたため、妹はほとんど
父親の記憶がありません。あっても、いい記憶だけかもしれません
が、それで何よりです。小さい妹にとっては「毒母」だけで、
苦しみは十分だったと思います。

そんな「過去と真正面から向かっていけない」母親は、
自分の苦い経験から、私に毎日のように「結婚なんて最悪」
「結婚なんて、男の奴隷になるための契約だ」と言っては、
悪いイメージを植え付けていました。

しかし、母の言うことが極端であることは十も承知だった
私も弟も、そんなことには耳を貸しませんでした。
そして、私はそんな母を尻目に、自分の選んだ好きな人と
結婚しました。

母は結婚の連絡に、全く喜ばず、かといって批判することも
なく、結婚式当日を迎えました。
しかし、あの「毒母」が黙って何の問題も起こさず、私たちの結婚を
祝福するはずはありません。

ドレスを購入して、式場を予約するまでは、時はとても平和に
流れていきました。式の準備をあまり手伝ってくれない夫でしたが、
その分、自分の好きなようにプランができて、楽しかったのを
思い出します。

しかし、式の準備が落ち着いてきたころから「毒母」の牙が
知らず知らずのうち少しずつ、私に向いてきたのです
母から頻繁に電話がかかってくるようになり、
結婚式の準備を積極的に手伝わない私の夫への悪口が
始まりました。さすがの私も不機嫌に文句を言い返すと、
(恐らく)「結婚式に呼ばれなくなるんじゃないか」と
思い始めたのか、いつもとは違って、あっという間に
収まりました。ほっとするのも束の間。
「悪魔のサプライズ 」は式当日に待っていました (泣)。


父親のいない私は、昔からよくしてくれていた
母の弟である大好きな叔父に、一緒にバージンロードを
歩いて入場してもらうことになっていました。 
叔父さんには娘がいなかったので、
初めての経験で緊張していたと思いますが、
快く引き受けて、ばっちり正装で祖母と来てくれました。

しかし、前日になんと母と叔父が大げんか
になっていて、入場までの道を「誰と歩くか」で
なんと当日、式の始まる直前になって揉め始めた。
のです。「揉め始めた」といっても、母がひとりで
私に「あんなひどい人間の叔父さんとは、歩かなくていい」
と言いだしてヘソを曲げていただけでした。

叔父さんは相当 腹わたが煮えくりかえっていたはずなのに、
結婚する私に気を使い、「花嫁が自分で決めればいい」
と言って、一歩引いてくれました。
そんな私たちを尻目に母は、何の罪悪感もないようで、
なんと「弟といっしょに出なさい」と勝手に言いだし、
さらにその場を混乱に陥れました…。

私は泣き出しそうな自分の心をグッと抑えて、
(ちなみにこれ、子供の時からの得意技です…涙)
「叔父さんに頼んで、日本からここまで来てもらったん
だから、叔父さんにいっしょに歩いてもらう」
と発言しました。

それに対し、母は「ふんっ」という感じで、
かなり不服そうな顔で「あなたがよければ、それでいい
けど、あとあとになって後悔しないようにね!!」
といい放ち、予定より遅れて、小走りで
会場まで花嫁の家族全員で移動しました。

はっきりいって、全然気分はのってなかったです。
結婚する気が失せるようでした。でも、一旦
入場行進として私が選曲していたバッハの音楽が
美しいバイオリンの音色で始まると、我に帰り、
「私は今日、結婚するんだ」
と、幸せな気持ちを思い出して入場しました。

今考えても、結婚式まで混乱に陥れられてしまい、
どこまでもかわいそうな私です…
いつもいつまでも、「毒母の牙」 に悩まされてしまって
いました。


それでも尊敬できる好きな人と結婚できた私は、
彼と些細な幸せを毎日感じて、平和な日々を過ごしていました。

しかし結婚後も、「毒母」の攻撃は止むことはありませんでした。

私が結婚する少し前に、妹が家を出て、自分でアパートを借りて
母との別居生活をはじめてしまいます。
忙しさに明け暮れていた私は、詳しいことはわかりませんでしたが、
一度理由を言わずに泣きながら「お母さんにはここにいるって
言わないで、今晩だけ泊めて欲しい」と来た妹を家に泊めたことが
ありました。それから間もなくして、家を出て、友人と借りたアパート
から、学校に通っていました。

妹は、結婚する私と就職先が決まり自立して家を出た弟
の後に、母と2人だけの生活が始まって、初めて守ってくれる
お兄ちゃんとお姉ちゃんがいなくなってしまっていました。
「毒母」とたった二人になって、耐えられなかったのでしょう。
気持ちは痛いほど分かります。私だって出て行くと思います。

そうして自業自得にもかかわらず「子供達に見捨てられて、ひとりぼっちの
かわいそうな私」と思った母は、今度はその全ストレスの「はけ口」探し
をはじめました。もちろん、私以外に適役はいません。 
一時の休息もつかの間、またも「毒母」の牙に悩ませられる日々が始まりました。


しかし、ベルリンに住んでいる間に「毒母」からの距離の確保が
できていた私は、以前よりずっと冷静に物事が見られるようになって
いました。

そして何より、私の夫が異常なほどに「冷静」であり尚且つ
ドイツの大学で養われた学問の世界では欠かせない「理論的」で
「事実に忠実」に考えるという、その向き合い方に、今まで母の
「感情論」に流されに流され続けていた私は、救われる思いでした。

彼と離婚した今でも、このことは本当に心から感謝しています。

これが、長年苦しんできた「毒母による洗脳」からの解放につながる
記念すべき「精神的自立」への第一歩でした。

しかし、「自分の思いどおりに考えを変えない」
私を見て、母はどんどん逆上していきました 。
母の重荷に耐えかねた私は、やがて精神病を患うようになります。

本当の意味で、「毒母」から解放されるのは、
大切にしていた夫を失い、離婚を経験し、自分を責めに責め、
身体が動かなくなるほどに壊れてしまい、仕事も辞め、
信頼関係も失って、全てが壊れてしまってからです。

大変な犠牲を払って、ひとりではどうにもできなくなり、
決心して受診してもらった全ての心療内科および精神科の先生に
「母親が諸悪の根源ですね」
と言われるまで、母の毒牙による攻撃から、自分の身を守る
ことを怠っていた私は、死の直前で母との連絡を絶ち、
治療に専念したのでした。

それが、本当の「毒母からの解放」の始まりでした。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

なんとか、「毒母」の回もひと段落つきました。

次の日記 (vol.9)からは、「『解放』という名の回復」と題して、
私がどのように病気から立ち直っていったかを詳しくお話ししよう
と思っています。

引き続きご愛読いただければ、幸いです。

今日もご一読いただき、ありがとうございました 。

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