ブログ記事(vol.7)「毒母」からの解放 - その2 -

「毒母」からの解放 - その2 - (vol.7)
2015年08月01日


「私がなぜに双極性障害になったのか」という原因について、
これまで3回の日記(vol.3〜vol.6)で、私の幼少時代から
ヨーロッパに渡るまでの14年間を振り返りつつお話しを
進めてきました。

今回は、渡欧をした10 代から、成人して 独り立ちするまでの
お話しをして、この回を終わらせようと思います。
何しろ、20 年間の説明を掻い摘んでしなければならないので、
もしかするとまた長引くかもしれませんが、その時はどうぞ
温かい心をもって、お許しください。

最後までご愛読いただければ幸いです。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

ひどい家庭環境に育った私は、思春期に入る少し前くらいから、
だんだんと調子が悪くなっていました。

最悪だったのは、その時期、今までとは違った若い30代の先生
がクラスの担任になり、私はなぜか先生のイジメの対象になって
しまったのです。

今でも覚えていますが、9歳だった小学校3年生の時でした。
今まではどんなに家庭環境が悪くて、心が悲しんでいても、
小学校に行けば先生が私に優しくしてくれていました。 
クラスのみんなも、先生が大好きで、休憩のベルが鳴るたびに
先生のところへ誰が一番最初に行くかで教室はいつも湧いていました。

「先生」は「みんなのお母さん」だと当たり前のように
感じていました。
いつも下から大きな先生を見上げて、「先生 」と声をかければ、
どんなに忙しくても、笑顔で返事が返ってくるような毎日に、
家で辛い仕打ちを受けていた私にはまさに「心の休養所」でした。

皆んな「先生」と名のつく人は男性であれ、女性であれ、
「生徒を愛して、やさしく接する」ものだと思い込んでいました。
なので、小3のとき、一番初めに先生に話しかけて邪険にされたとき、
私は声を殺して泣いたのを今でも忘れません。
学校に行くのが、とても億劫になっていったのも、時間の問題でした。
でも、クラスメイトの友達は大好き だったので、心の中では毎日
「早くこの年、終れ!次の新しい先生、早く来て!」と叫んでいました。
やがて先生は寿退社で、いなくなり、心からほっとしたのを覚えています。


家庭でも学校でも、両方から責められる毎日になってから、
心が傷つきに傷ついていく私は、現実逃避が必要になりました。
そこで、時間があれば黙々と絵を描く日々が始まりました。
今でもたまに絵を描くと、時を忘れてひとりで没頭できて、
絵を描く時間はとても大好きです。

しばらくして、仲良くしていた近所の友人がバイオリン を
始めたことを聞き、楽器を見せてもらうと、私も小さいころから
管楽器が習いたかったことを思い出し、親に頼み込んである楽器を
習い始めました。

父は機嫌が悪いと私に「お前は生きてるだけで金がかかる」
と睨まれていたので、反対されるのを恐れていましたが、
なんと幸運なことに偶然にも父の愛弟子の一人がその楽器で
東京芸術大学に入っていて、楽器も貸してもらえるということでした。

大喜びの私は、ずっと憧れていたきらびやかな楽器を前に、
どうやって演奏するかもわからないどころか、その組み立て方すら
わからないのに、大はしゃぎ。初めてのレッスンが待ちどうしくて
しょうがなかったのを思い出します。 
それからは毎日欠かさず、学校からウチに戻ったら練習する
日々が始まり、その間は厳しい現実から離れられる大好きな時間
を満喫していました。


その数年後に、父と母は離婚。
私がずっと憧れていた渡欧の夢が叶います。 
「私が我慢している間に、子供達が犠牲になっている」
母はそう言い、離婚状を叩きつけて家を出ました。
困窮に陥るのを覚悟で、3人の子供を連れてヨーロッパへ。

言葉もまともに話せない中、それでもあの苦しかった日本の
生活には比較にならなかったので、問題は山済みでも、決して
日本へ帰国しようとは思いませんでした。
滞在許可書が下りなければ、別の国に渡るか、
帰国しなければならないという状況の中で、
ダメ元で受けた音大の入試に、私は異例の15歳で受かります。

ありがたいことに母はアルバイト先が決まり、
少しずつ収入が入ってくるようになりました。
私は音大と編入した現地校(日本でいう中学校3年目)で、
現地の言葉を学び始めました。弟も編入して同じ学校の
小学部に、妹はアパートの目の前にある幼稚園に通い始め
ました。新しい土地で、新しい人生の始まりです。


私が成人になるまでには、紆余曲折ありましたが、
なんとか生活の基盤をつくり、やがて弟は学校を卒業
して、大手企業に就職。妹も自分の道を見つけて、通う学校
を自己選択して勉学に励んでいました。

私は大学4年目に音楽家として活動の基盤をつくるべく、
世界最高峰の音楽家が集うベルリンに渡ります。
そこで、ベルリンフィルで演奏している音楽家と知り合って、
毎日のように世界一流の音楽を耳にして生活するようになり、
知らず知らずのうちに、私の耳は肥えていきました。
この経験は今でも、「音楽の質を判断できる」私の特技の
ひとつになり、別の観点から音楽を楽しむことができています。

ベルリンで音楽家の友人を作り、一緒に演奏活動を始めました。
そうしている間に、だんだんと音楽の世界がどのように動いている
のか、肌で感じるようになり、私はやがてその現状に失望していきました。

音楽の世界は需要と供給のバランスが全く釣り合っておらず、
「掃いて捨てるほど」いる音楽家たちの扱われ方というのは、
時には動物以下かと思うほど酷く、1日に何時間も練習に明け暮れ、
努力に努力を積み重ねて、こんなものか、と先輩方の後ろ姿をみて、
その「報われなさ」に愕然としました。

例えば、医学生や法学を専攻する大学生が、それだけ熱心に
勉強をしていれば、必ずと言っていいほど報われるでしょう。
少なくて、報酬が見合わないで貧困になるということはないと思います。
でも、音楽家の世界は違いました。
ごく一部を除いては、天と地のようにお給料も違いました。
また、「芸能界」の部類に入るだけあって、癒着などもひどく、
「人としての大切なものを失くしてまで、音楽家にはなりたくない !!」
と強く思うようになり、この世界から身を引く決意をしました。


ベルリンに滞在中は、家族とは別に住んでいましたので、
苦しかった「毒母」からの圧力もなく、毎日のように電話で話しは
していましたが、精神的にはたいへん平和な日々を過ごしていました。

そして、そんな母親と距離ができた中で、友人を通して
知り合った大学生とお付き合いを始めました。
それが数年後に結婚することになる男性です。
歴史を専攻していて、言語が7つも話せる「今まで見たことのない」
才能あふれる人でした。無口で暗い印象でしたが、話していくうちに
溶け込んでいき、何より彼の「冷静で学術的な」考え方が好きでした。
私にないものを全て持っているような人だと思っていました。

そんな彼とお付き合いする中で、私はだんだんと「毒母」の「洗脳」
から解き放たれていきます。母の言っていることが、多くの場合
事実に反していること、自分に有利なように話しを変えていっていること
に気がつき始めたのです。音楽家をやめて、総合大学に入学するため、
家族の住む地に戻り、入試を受け、日本の社会学を学び始めました。
遠い地から戻ってきた私を母は大喜びで迎え入れ、母との距離は
一時期近づきましたが、すぐに大学のある首都へ引っ越しました。
しかし、それもつかの間。母は妹と弟を連れて、私のフィールド
に割り込むように、私を追って同じ町に住み始めたのです。

金欠でしたので、毎日のようにアルバイトをしながら、
大学を無事卒業することができ、学士号を取得しました。
やがてベルリンから戻ってきた彼と結婚し、2人だけの新婚生活が
始まりました。同時に大学での非常勤講師の仕事も決まり、
一見何の問題もなく、順調そうに毎日楽しく暮らしていました。

しかし結婚を機に、母は私たち夫婦2人を猛烈に攻撃するようになります。
幸せなはずの私たちの新しい家庭に、「毒母」は無理に介入しようとし、
だんだんと私たち夫婦にとって母が重荷になっていきました。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

またもや長文でごめんなさい!!!
しかも、まだ最後まで書ききれていないので、次回も
「毒母からの解放」は続きます…。お許しください。

引き続きご愛読いただければ幸いです
今日もご一読いただき、ありがとうございました

メールやコメントは大歓迎ですので、お気軽にどうぞ。

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