循環と向上
人と話すことで気づきを得ることは多い…というか、人と話さないと気づきを得ることができないのではというほど大事なことだと思う今日この頃。
昨日は友人たちと話しながら「ストレスになる組織とそうじゃない組織の差」について「あっ、そうか!」と思ったので、忘れないうちに書き残しておこうと思います。
インプットとアウトプットの黄金律?
以下の記事によれば学習効果を高めるにはインプットとアウトプットが「3:7」の割合であることが良いのだそうです。
個人的にも自分を高められる瞬間ってどういう場面だったかなーと思い返すと、常日頃やっているインプットとそれをベースにしたアイデアをカタチにして見せた時の相手の反応がネガポジどっちだったかというのが一番大きかったなと感じるところなので、組織の中でアウトプットの機会が適切に保たれているかどうかは「インプットを奨励する」ということにも直結して、「人材を成長させる組織かどうか」というのに非常に関連があるんじゃないかという気がしています。
抽象と具体を行き来する
上のリンクの記事にも「インプットの定着にはアウトプットが重要」という記述がありますが、とはいえ単にどこかで聞きかじったことを右から左に別の相手に言っているだけでは全く意味がなく、インプットに自分の知見を付加してはじめて自分のモノになったと言えると思います。
また、アウトプットにもレベル感があって、それは「抽象度の高低」と考えればわかりやすいかと思います。
システム構築で例えれば①要件定義、②設計、③実装の3段階で抽象度が低くなっていく(要するに具体化される)わけですが、家を建てる場合でいうと
①何人で住むのか、どんな部屋がどれくらい必要なのかを考えるレベル
②何㎡の広さか、部屋をどう配置するか、玄関の位置はどうするか、窓の場所はどこかなどを決めていくレベル
③予算を準備する、部材と人工を手配して組み上げる、内装を作りこむなど、実際にモノを作っていくレベル
…といった感じで、①⇒②⇒③では具体化レベルも手法も必要になる知識やタスクも全く違うわけです。
正直「こんなおうちに住みたいわぁ~」と妄想を言うくらいのことは子どもでもできるわけで、それをターゲットに価値提供できるようにするには具体化して実装できないと意味がないわけですが、個人的には妄想を言うくらいならタダなんだからいくらやってもいんじゃね?と思いつつ、アレな組織の場合はその妄想ですら積極的に踏みつぶしにいくという傾向があるような気がしていて、それこそが「ストレス」の正体なんじゃないかと思うところです。
アウトしないとインもできない
結果として何が起こるかというとこんな感じです。
アウトプットすることではじめて新たに必要になるインプットがわかる場合も多いのに、ストレスフルな組織は妄想の段階でのアウトプットすらさせてもらえない傾向があるので、そこにいる人はいずれインプット自体を止めていくか、関係なくインプットを続けていく人は溜まり続けていくインプットを吐き出せないことに「大いなるストレス」を感じ、新たなアウトプット先を求めて、別の組織へ移っていく…。
それこそが今あちこちで発生している公務員の退職の大きな要因かなぁという気がします。
地方自治体であってもマネジメント層への研修をする時は当然ながら「部下のやる気を高めるために~」みたいなお題目は言っているはずですが、社会環境が多様化・複雑化する中でどんどん余裕が失われて「木こりのジレンマ」状態に陥っているのが実態かなと思います。
結局のところは「ワクワク感」
ONE JAPANの濱崎さんが、インタビュー記事でこんなことを言っていて、首がもげるほど頷いたことがあります。
私も公務員を辞めて新たなアウトプット先を求めたクチではありますし、他にも多くの仲間が同じ選択をしているわけですが、これはあくまでも「個々人がどんなキャリアと成長曲線を描きたいかの選択をした」ということであり、流行に乗るかどうかみたいな感覚で「公務員を辞めた方がいいのか!?」みたいに思うのは大いなる間違いかと思います。
アウトプットを推奨してくれる上司に恵まれている、自主勉強会や地域活動などのサードプレイスでアウトプットの機会を持てている、などの環境に身を置けている人はそれを思い切り享受すればいいですし、そうじゃない人はその環境を積極的に求めていけばいい。(プライベートの活動にまでクチ出されるいわれはないですからね)
一番よくないのは、狭い世界に閉じこもって自分はここ以外に居場所はないんだと心を閉ざしてしまうことや隣の芝生を必要以上に青いものとして見ることかなと思います。
自分は今「ワクワク」できているかどうかを常に問い続けられるようにしてきたいですね。
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