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「文章に携わる」から、片足だけを踏み出したい。

新たな方向に足を踏み出すって、勇気がいる。けれど、踏み出さないと満たされないことに気付いてしまったら、その足は動かさないといけない。

まずは、生煮えの想いを記しておこう。そう考え、筆をとった今回のnote。なにか共鳴してくださった方がいらっしゃれば、ご連絡いただけたら嬉しいなと思う。

安久都智史(あくつさとし)
1995年、京都生まれ滋賀育ちの関西人。2018年に東京大学相関社会科学コースを卒業し、不動産デベロッパーに就職。その後、ITベンチャーに転職し、2021年に独立。現在は、「聴いて書く」「読んで編む」「語り合う」を軸にして、活動を展開中。
自然体な生き方を考えるメディア『ソラミド』の編集長も務めています。国家資格キャリアコンサルタントの勉強中。
“青春”と“できずとも繋がれる働く”が探究テーマ。妻がだいすきです。

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僕の一番わかりやすい肩書きは、メディアの編集長、だと思う。自分でも記事を書くし、仲間が書いた原稿を編集するし。世にいう「ライター・編集者」なのだろう。

実際、最近はじめましてでお話した人には、そのように思われていることが多い。あぁ、文章に携わる人ですよね、と。

だからこそ、驚かれる。「文章に携わる」の枠から、片足を踏み出したいという話をすると。

強調したいのは、踏み出したいのが、あくまでも“片足”だということ。両足を踏み出して、身体ごと外に行きたいわけではない。

文章に携わって満たされること、叶っていること。それは多分にある。

例えば、“考える”ということ。編集長を務めている『ソラミド』というメディアでは、自分で企画を立てて、インタビューをし、執筆まで担当している。それはまるで、探究活動だ。自分で問いを立てて、それを調べて、お話を聞いて深めていく。こんなにスリリングな活動も、なかなかないと思う。

仲間の文章を編集しているときも、同じ。文章には正解がないからこそ、「良い文章ってなんだろう?」を共に考えている感覚。そうやって試行錯誤を重ねる時間は、とても豊かなものだ。

悩みや迷いなどが、企画や文章に活かされていく。そして、より深い悩みや迷いが生まれる。そんなサイクルは、ずっと味わい続けたい。心からそう思う。

…ここまで書いていて、改めて実感した。僕が文章に携わるとき、「外向きの矢印」がとても薄いのだ。伝えたいという想いがないことはないのだが、どちらかと言うと「内向きの矢印」が色濃い。それは、言うなれば自分のため。迷い悩んでいる自分が、なんとか生きていくための営み。

もちろん、その営みが回り回って誰かのためになっていることは感じる。『ソラミド』の記事を読んでくださった方から、「息がしやすくなりました」と言っていただいたこともある。それは、とっても嬉しい。書いてよかったと強く思う。

けれど、それを目的にできないのだ。「外向きの矢印」は薄いままで、「内向きの矢印」がどんどん濃くなっていく。

そして僕の場合、内と外のバランスがとれていないと、どこか満たされない感覚に陥ってしまう。ここは言語化が難しいのだけれど。

目の前の大切な人のために本気になりたい。そんな想いが強いのかもしれない。喜んで欲しいとかではない。もちろん喜んでくれたら嬉しいのだけれど、あくまでも「誰かのために本気になっていることが心地好い」といった感覚。

(結局、内向きの矢印やん!って言われそうだけれど、人は結局自分のためにしか生きれないと思っているので、そこに矛盾はないと思っている。スタートが内と外どちらなのか、ということだ)

そう。僕にとっての「外向きの矢印」とは、「目の前の大切な人のために本気になる」ことを指す。

「文章に携わる」は、「内向きの矢印」のベクトルが強すぎるのだ。外に向く余地が少なすぎる。そして、文章だけに携わっているとバランスを崩してしまう。

最近、そんなことに気付いた。内と外のバランスをとらないといけない。そう考えるようになり、「文章に携わる」から、片足だけを踏み出したいと思うようになったのだ。

じゃあどんな活動なら、お前にとっての「外向きの矢印」になるんや?

そんな声が聞こえてくる気がする。まっとうな疑問。

それについては、また別途想いを書こうと思うのだけれど、僕は「仲間の本来性が発揮され、共に妄想を企むチーム」を作りたいと考えている。

別のキーワードは「できずとも繋がれる働く」だ。

いまの労働は、できることに比重が置かれすぎている気がしてならない。Canも大事なのだけれど、もっとWant to DoやWant to Beでも繋がらないと、豊かさとは離れてしまうのではないか。

「これ面白そうやん?」とか「これできたら楽しいって!」で繋がる働くがあっても良いと思うのだ。そんな妄想をチームの仲間たちと語り合って、企む。それって、その人らしく生きられる時間なんじゃないか。

できるだけで繋がるのは、息苦しい。他でもない僕自身がそう思ってきた。なんでも生産性や効率性で測られることに、違和感をずっと抱いていた。そして、僕以外にも首を捻っている人が多いことも知った。その違和感を押し殺している人が多いことも知った。

社会を変えたいなんて、大それたことは全く思わない。けれど、半径5m、いや半径1mの人たちには、その人らしく生きていて欲しいなと思う。それは、僕自身の豊かさに繋がるから。

目の前の大切な人が、本来性を感じられるように。そして、共に妄想を企めるように。

そんな旗を掲げて、本気で邁進すること。それが、僕の「外向きの矢印」となるはずだ。

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と、そんなことを考えている。「文章に携わる」から、片足だけを踏み出したいと言っているのは、そんな背景がある。

いろいろ語ってはみたけれど、踏み出した足をどこに置いたらいいのか、迷っている。“働く”という文脈を捉え直せる環境がいいのか、組織・チームを俯瞰できる環境がいいのか、妄想をサポートする経験を積んだ方がいいのか。

どれも正解で、どれも不正解だと思う。だから、結局は自分の意志で「えいや」と決めるしかないのだけれど。

もうちょっと模索したい。この踏み出しは、大事な大事な一歩になると思うから。

対話でも推薦でも。この模索を一緒に深めてくれる方がいたら、とっても嬉しい。


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