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「対話の場」って、言うは易し・開くは難し。そもそも対話ってなんなんだ。

編集長をしている『ソラミド』で、対話の場を開いた。

拙いファシリによる対話の場だったけれど、楽しかった。ひとつの物事に対して、いろんな角度から光を当てる。そんな営みが好きなんだろうなぁと、しみじみ感じる時間。

じゃあ、満足のいく場だったのか?と問われたら、答えはNOであって。

問いの立て方、参加いただいた方への話の振り方、そもそもの説明、自分の思考力…などなど。反省点・改善点はたくさん。

そのひとつひとつを潰していって、より良い場にしていこう…と思えたらいいけれど、「それでいいんだっけ?」という気持ちも湧き上がってきた。

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「対話」ということばをよく聞くようになったと思う。「対話の場を開く」だとか「意見の違う人とは対話が必要」だとか。

それは良いこと。僕も対話は好きだし、対話は必要だと思う。

そして、ふと思う。

対話って、なんなんだと。

『他者と働く「わかりあえなさ」から始める組織論』の中で、宇田川元一さんは「対話=新しい関係性を築くこと」だと言っている。

その前提に立ったとき、僕たちが開いたのは「対話の場」だったのだろうか。そこで新しい関係性が築かれたのだろうか。そもそも、僕たちが開こうとしていた場は「新しい関係性を築くこと」がゴールだったのだろうか。

なんの気なしに使ってしまう「対話」ということば。ふんわりとした意味は分かるけれど、だからこそ覆い隠されてしまうものもある。

楽しかったのに、どこか消化不良感が残っているのは、「開きたい場」に対しての解像度が荒すぎるからなんだろう。

そして、仮に「対話の場」を開きたいのだとしたら、それはとてつもなく難しいものだと思う。新しい関係性を築く場。それは、一朝一夕でできるものではないのかもしれない。

ちょっと感じたこと・考えたことを聞き合って、「対話しましたよね、私たち」と言ってしまうのは、もはや暴力だとも思えてくる。

対話の場を開くって、言うのは簡単だ。でも、実践するのはとてつもなく難しい。

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と、書き連ねてきたけれど、きっと「対話とは?」に対する考えはさまざまなのだと思う。「新しい関係性を築く」を例に出したけれど、それにとどまらない、もしくは全然違う円にあるものを頭に浮かべる人もいるはずだ。

僕も、ボヤボヤっとはしているけれど、掴めそうななにかがある。

良くなかったのは、それを捕まえずして、安易に「対話の場」と言ってしまったことなんだろう。

僕のなかでの対話とは。対話の場を開く意味とは。良い対話とは。

そのあたりを考え抜かなければ、満足のいく場は開けないのだと思う。(人と人が関わる以上、満足のいく場なんてないのかもしれないけれど)

書いていたら、「場」についても思索を深めないといけない気もしてくる。「対話をする」ではなく「対話の場を開く」と言っているのは、なぜなのか。そもそも「対話の場」という単語の組み合わせで良いのか。

こんがらがってきた。

対話とは。場とは。

引き続き、そういったことは考えていきたい。

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