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妄想爺のとんでも史観 (34) 皇室 天皇

妄想爺のとんでも史観 (34)

 皇室 天皇

 以前別な記事で、天皇とは生贄であると書きました。
 「世の中のありとあらゆる災悪は我が身を通せ。民にはその禍を降らせるな。」
 年に一度の四方拝で、天皇はこう祝詞を上げられるそうです。
 そのための存在、象徴。そして時の権力者の暴走を止める為の裁可権限。

 西暦700年前後のこの国の混乱を、我が身一身に受け、収拾へと導いた持統天皇、鵜野讚良姫。
 従来の豪族から天照大神と祀り上げられ、正統な一族の出自ゆえ権威の象徴存在として、豪族らが皇室を立ち上げたのだと思います。
 藤原不比等らへの権力集中はやむを得ずとして、豪族達は認める代わりに皇室を認めさせ、平城京が誕生します。
 不比等も権力にお墨付きを与えられる存在としての権威を、その皇室に求めました。利害の一致です。
 奈良湖の北側、都城としての本格的な都市の誕生です。(一説には蘇我氏、物部氏勢力の南部から逃れたとも)
 平城京北部に朝廷と皇室の住居としての内裏を作りますが、藤原氏はその東北側に、内裏よりも大きな私邸を作ります。
 そのまた東北側には皇室と豪族が、東大寺を建て巨大な仏像を作ります。
 そしてその隣に藤原氏は、春日大社を作ります。
 この頃の権威の象徴、聖武天皇は藤原氏への反発を強くしますが、藤原氏はその反発返しに豪族の主流や皇室の後継者を無実の罪で陥れ続けます。
 代表的な方が、長屋王一族です。
 長屋王は聖武天皇の後継者だったらしいのです。
 長屋王宅跡地から大量の木簡が発見され、食料運搬用の荷札に”皇太子”と書かれてあったそうです。
 皇族の中の一人としての皇太子なのか、天皇後継者としての皇太子なのか不明です。
 藤原四兄弟が感染症で他界します。長屋王の祟りだと言われてます。
 聖武天皇と藤原光明子の娘が孝謙天皇になると、弓削道鏡や藤原仲麻呂(後の恵美押勝)が台頭してきます。

 混乱と言うかテロの様な陥れ合い、殺し合いがいまだに継続していたようです。
 大規模な戦乱だったかもしれません。記録には端折って書いたのでしょうか、権力者への忖度でしょうか。
 この国に元から居た人達の間では、小競り合いとかは有ったでしょうが、相手を殲滅するまで殺し合う戦いはなかったと思っています。
 以前にも書いたように、逃げると逃げきれます。隠れることが出来ます。追いかけようにも追いきれません。
 半島南部では繰り返し略奪と蹂躙の歴史が始まっていました。そのうちの戦略の一つとして騙し討ちやテロもあったでしょうし、隠れるところの少なくなった場所では、殲滅まで進んだと思います。(森が、木が無くなっていました。)
 その風習、文化、常識がこの国へ一気に流入してきます。避難、疎開、引き揚げ、移住などで。

 邪魔者を消そうと思えば、騙し討ちやテロに限られてきます。
 藤原氏とその取り巻きたちの所業は、目に余るものだったと思います。
 記紀にはさりげなく記載してあるらしいのです。数百人を処分した、と。
 理由は、恨みに思ったとか祈祷したとか、、、、
 そういった事の処し方の前例とか経験のないこの国の人たちと、嘘や讒言が当たり前で、生き残ったもの勝ちの半島出身の人たち。
 『もう、、、好きにすればいいやん、、、やられる前に逃げちゃおう。』と考えるこの国の人は、多かったのではないでしょうか。
 逃げられなかった人たちは、顔で笑って従う事を選んだのだと思います。腹の中では、【今に見てろよ。取り返してやる。】と思いながら、、、、
 藤原氏は皇室と言う人質を囲っています。迂闊には手が出せません。
 皇室以外の藤原氏を攻撃する方法は、、、、、ピンポイントでの疫病感染。って面白い作戦とは思いませんか?
 個人に絞ってのその方法とは、”寝床”に、見た目は分からない感染者、症状未発生者を送り込む。
 皇室と関わらない時期や場所を選んで、、、、
 美男美女によるめくるめく快楽と、その後の苦しみをセットにしたフルコース。
 もちろん、そんな記録はありません。
 藤原氏も、お供え物との同衾禁止令くらいは出したでしょうが、勝手に動く下半身が理性を上回るのは、今も昔も同じです。

 いよいよ、藤原一族一派に牛耳られた世の中を取り戻そうとした動きが出てきます。
 弓削道鏡。
 平城京の改修の為、近江の国へ移っていた孝謙(後の称徳天皇)が病気を患った時に、道鏡が看病したそうです。
 定説では、巨根の持ち主で「正座をすると、膝頭が三つ出来る」と言われていたそうで、孝謙上皇と仲良くなられたそうです。
 醜聞でその人を貶める方法、通例そのものです。
 宇佐八幡宮託宣事件の際には、弓削道鏡を天皇へ推そうという称徳天皇と、藤原氏側の和気清麻呂が対立したそうです。
 この弓削道鏡、物部氏です。あの物部守屋が母姓を 仮冒かぼう (他人の名をかたること)して弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したそうです。
 この国を創ってきた正当な一族です。

 道鏡に関する記事は悪意満々の記録です。いえ、学説です。どんな人が唱えた学説なのでしょうか。

 平城京は90年弱しか続きません。
 北部の巨椋池周辺へと遷都します。楯突く人たちを置いてけ堀にして、、、取り巻きだけで移ります。もちろん皇室を人質にしてです。

 天皇、皇室は人質であり、生贄です。
 しかしおいそれとは無くせません。未来永劫保持し続ける必要があります。
 祀り立てた人達と独り占めを目指す人達の合意と妥協、牽制の産物です。
 ですから、女性が天皇になろうと、出自がどうであろうと、、、構わない。と思います。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

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