見出し画像

涙は元気のもと、だから

目を離した、ほんの少しの間の出来事だった。

春の雨の日。
子どもたちは休みなのに、外で遊べないので、絵を描くことになった。絵の具で。絵の具は、普段遊び道具として出しっぱなしにしていない。雨の日だけ特別に使えるものだから、集中してしばらく遊んでくれる。

とは言え、雨の日には何度もやっていた、わが家では定番の遊びだ。子どもたちも慣れたもの…と思っていたから、私は少し離れたところで、家事をしていた。


「大変なことになっちゃったの!」
ドタドタと駆けてきて、娘が言う。眉毛を大げさなくらい、ハの字にしている。

「ぼく何もしてないのに、絵の具が飛び散っちゃったんだよぉ!絨毯の上に!」
息子が言う。

「拭いたんだけどね、とれないの」

「えぇぇっっ!?」
私は、持っていたものをかなぐり捨てて走った。




現場は、さながら殺人事件の直後のようだった。

鮮血のように真っ赤な絵の具が、
オフホワイトの絨毯や、真っ白の電子ピアノ、グレーのブランケットに、大量に飛び散っていた。

「なんでぇ…」

あまりに衝撃的な光景。
私は、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。

なんで、と口にしながらも、状況は想像がついた。

絵の具が暴発したのだ。
一度使った絵の具は、しばらく触らずにいると、表面が少し固まってしまって、次に使う時に、ポコんっ!と音を立て、勢いよく出てくることがこれまでにもあった。

息子が赤い絵の具を出そうとしたら、これまで以上の勢いで、飛び散ってしまったのだろう。


ーなんで、それがこの、少し目を離した隙だったんだ!絨毯は、先日クリーニングに出したばかりだったのに!大きすぎるから、クリーニング代に1万円以上もとられたのだ。なんで、そんなタイミングに…

ーいや、でも子どもたちは何も悪くない。
 子どもたちに当たるのは違う。

かろうじて残っていた理性的な自分が、諭してくる。「分かってるよ」と応じて、私は溢れ出しそうな子ども達への文句を、グッと奥歯に押し込んだ。

絨毯に近づくと、赤い絵の具が左右に擦ったように滲んでいた。娘が、懸命に拭き取った跡だった。それを、もう一度、濡らした雑巾で拭いてみる。

ゴシゴシ。

力が入る。本当はこういう時、軽く叩く方がいいと小学生の家庭科で習った気がするけれど、そんな冷静ではいられなかった。

ゴシゴシ。

子どもたちは、無言で私を見ている。

ゴシゴシ。

赤く滲んだシミは、擦る前と変わらぬままの形で、そこにある。

「とれない…とれないよぉ」

言葉にした途端、ものすごく悲しくなった。
リビングは、主婦の私の大事な居場所だ。リモートワークでデスク周りを充実させる人が増えているんだったら、私だってリビングを整えたっていいはず。そう気づいてから、いつも座るソファから見える景色を、少しずつ心地良くしていた最中だった。その景色が、この数分の間に一変してしまったのだ。

子供たちは悪くない。
それは分かっているんだけど、どうしようもなく悲しくて、押し殺した気持ちは、涙になって絨毯にボトボトと落ちた。

「とれないよぉ、とれない…うわぁあん」

ゴシゴシ。
ボトボト。

泣いていると、頭は徐々に冷静になってくる。久しぶりにこんな風に泣いたな、と思った。

社会の不条理とか、
失恋とか、
子供の成長への感動とか、
そういう難しい理由でも、大人っぽい理由でもなくて。

大事なものが汚れてしまった。壊れてしまった。
それが、元に戻らない。
そんな小さな子供のような理由で、声を出して泣いた。


わんわん泣く自分が、一歳ごろの娘の姿に重なる。
遊び場で、ブロックを高く高く積み上げていたのに、近くで遊んでいたお友達がぶつかって、壊れてしまった。娘は泣いた。
私はあの時、なんて娘に声をかけただろう。

「お友達もわざとじゃないのよ。仕方ないじゃない。また作ればいいじゃない」

そんなところだろう。娘は、泣き続けた。
今なら娘の気持ちが分かる。


しばらくして、リモートワーク中の夫を娘が呼びに行った。聞き耳を立て、娘なりに、会議が終わるタイミングをはかっていたらしい。
夫は現場を見て驚きつつも、淡々としていた。ネットで調べて「こうやって中性洗剤をつけて、下に布を敷いて、上からトントン叩くと、下の布に汚れが移るんだって」と泣いている私の隣でシミ抜きをしばらくしてから、また仕事に戻って行った。

部屋の隅っこで、静かに見守っていた娘と息子に声をかけ、夫が教えてくれた通り一緒にトントンとやってみた。

トントン。トントン。トントン。

三者三様の“トントン”が、部屋に響く。
娘は、すぐに絵の具を落としてみせ、息子にやり方を教えていた。「シミ抜き名人になれるね」「みんなで太鼓を叩いてるみたい」なんて話をしていたら、いつの間にか私の涙は止まり、3人とも笑顔になっていた。

笑顔になった後。
息子は、思い出したみたいに、おずおずと私に言った。

「お母さん、ごめんね。汚しちゃって。」
「いいよ。『失敗は成功のもと』だからね。いっぱい失敗してもいいんだよ」

やっと落ち着いて、母親らしいことが言えた。

「私、お母さんは、そう言うと思ってた!!お母さんはいつもそう言ってるからね。さっき『失敗は成功のもとだから大丈夫だよ』って、弟に言ってあげたんだ。」

と、頼もしい娘。
ー娘よ、お母さんはそんな立派じゃないのよ。子供の前で、あんなにわんわん泣いちゃって。

「お母さんこそ、いっぱい泣いちゃってごめんね。困ったよね。」
「いいんだよ!涙は元気のもと、だから!悲しかったら、いっぱい泣いていいんだよ!」
「そうなの?元気のもとなの?いっぱい泣くと疲れちゃうのかと思ってたよ、お母さんは。」

ーそれに、いっぱい泣くのは恥ずかしいなって、思ってたよ。
とは、言わなかったけれど、心の中で思った。

「そうだよ!泣くでしょ。そしたら、胸の中の、曇ったイヤな気持ちはどこかに行っちゃって、元気になるの!眠って起きたみたいにスッキリするの!だから、いっぱい泣いていいんだよ。」



そうか。『涙は元気のもと』なのか。

大人になってから、泣いていいのはすごく限られた時だけだと思い込んでた。

たとえば、母である私は、子供の誕生とか、卒園とか、そういうところ以外で泣くのは恥ずかしいんだと思っていた。泣いていいのは、嬉しい時、感動した時だけになってしまったように思っていた。
悲しい涙を流すのは、自分の弱さをさらけ出すようだし、それを人に見られるのは恥ずかしいことだと思っていた。究極に単純にいうと、『泣くのは弱いこと。泣くのは子供。泣いたら負けだ。』って思ってたのだと思う。
そうなりたくなくて、自分で自分を縛っていた。知らず知らずに、我慢していた。

だけど、いいんだ。
大人だって、モヤモヤや、悲しいことが溜まったら泣いていいんだ。それは、強いとか弱いとかじゃなくて、疲れたら眠る、くらい自然なことなんだ。我慢していたら倒れてしまう。

眠った後、起きると元気になっているのと同じように、泣いた後は頭がスッキリして、気持ちは元気になれるから。
外では少し気が張っていても、家ではいくらでも泣いていいんだ。


気づけて、不思議と満たされた気持ちになった。
自分の心を緩める手段を、一つ増やせたからだと思う。

娘と息子が、『失敗は成功のもと』という言葉をお守りみたいに大事にしているように、
今日から私も、娘がくれた『涙は元気のもと』をお守りにしようかな、と思った。

この記事が参加している募集

#子どもに教えられたこと

33,258件

読んでくださり、ありがとうございます! いただいたサポートは、次の創作のパワーにしたいと思います。