見出し画像

クリームイエローの海と春キャベツのある家(2/4章)/小説 #創作大賞2023

◆前回のお話
はじめから読む方はこちら。

4.

「そんなことが…大変でしたね」
 電話口の安富さんは、同情するような声で言う。
 昨日の津麦は、怒っていた。ちゃんと時間の枠をとって予約していたのにないがしろにされた、どこにでも嫌な人はいるものだ、と思ったりもした。けれど時間が経つにつれ、自分自身にも非があったのではないか、とも思い始めていた。朔也が何か言いかけてやめたことが、引っかかっていた。

「あーもう、私、何やっちゃったんだろう。追い出されるような、ひどいこと。なんにも思い当たることなんてない気もするし、あれもこれも思い当たる気もするんですよ」
「思い当たる、とは。たとえばどんな?」
「作った料理の品数が織野さんが思ったのより少なかったのかなとか、味付けが口に合わなかったのかなとか、台所の片付け方が気に食わなかったのかなとか。無限に考えちゃう」

 それに、交代するなら自分から言い出すのだと思って疑わなかった。なのに、朔也の方から、お前はもういらないと追い出されるとは。津麦の小さなプライドは傷ついていた。自分の代わりには、どんな家事代行が担当するんだろう。この道何年というベテランの人だろうか。その人なら、あの台所をどのくらい手早く片付けて、どのくらいたくさんの料理を作れるんだろう。見えない相手と自分を比べて、暗い気分になってしまう。

「けれど、織野様からは交代のご依頼は来ておりませんよ」
 安富さんは津麦が一番聞きたかったことを、するりと言ってみせた。やはり、彼は電話の相手の心が見えてるんじゃないかと思う。

「うーん。じゃあ、そもそも家事代行なんて頼むつもりなかった。っていう、あれが本音なんですかね。私のせいじゃないのは安心したけど」

 呟くように言ってから、津麦は自分の言葉を否定するように首を振った。

「いいや。でも、結局はあの人が『家事代行最高じゃん!俺今まで間違ってたわ!』って、考えが変わるほどのパフォーマンスを、私が2時間でできなかったってことでしょう?どっちにしても落ち込むなぁ」
 目の前の机に突っ伏しながら言う。

「津麦さん。私たちがご提供しているのは、家事です」
 安富さんは、小さな子に言い聞かせるみたいに言う。

「はい」
 津麦は、素直に頷く。

「日々の積み重ねですよ。一つ一つは本当に、地味な作業です。家事は。コップを洗う、とか玉ねぎの皮をむくとか、そういう」
「地味だなぁ」
 分かっていたことだけれど、安富さんに言われると、本当にその通りだとしみじみ感じてしまう。

「地味なんです。たった一度で、人の価値観を変えてしまうような、そんな劇的なものではないのだと思いますよ。焦っても仕方ありません」
 劇的ではない…か。津麦は首をかしげる。

「安富さんはなんでこの仕事やってるんですか?地味なのに」
「地味だからじゃないですか。私が派手な仕事をしているように見えますか?」
「うーん、見えない。かな」
「そうでしょう。けれど、それが生活です。誰に見せるためでもなく、営んでいくものです。その生活をどう営んでいくかによって、人は生きやすくも、生きにくくもなるんですよ」
「そういうものですかねぇ」

 津麦は、あまりピンときていない様子だ。「料理」とか、「掃除」とか一つ一つ具体的なことなら実行できても、津麦には「生活」というのはなんだかふわふわともやをまとった存在だった。すぐそこにあって掴めそうなのに、掴めない。

「その手助けができるのですから、私はこの仕事、気に入っていますよ」
 分からないままの津麦を煙に巻くように、安富さんのfの笑いが聞こえる。

「けれど、ひとまず。ケンカ別れのような形になってしまった以上、再調整が必要です。次回訪問前に、織野様にお電話して、訪問継続でよいか確認を行ってください」
 急に事務的になった安富さんの言葉に、ピリリッと津麦の気持ちは引き締まった。


5.

「はい」
 電話に出た朔也の後ろは今日は、静かだった。仕事場から少し、離れたところにいるのだろうか。

「家事代行の永井です。次回訪問は、明後日の予定ですが、予定通り伺ってもよろしいでしょうか?」
「あ?あぁ、予定通りでいいっすよ」

 前回よりは落ち着いた返事に、津麦はほっと胸をなでおろした。けれどそれも束の間、少し困ったような口調で、朔也が言った。

「それより、もう日中に電話してこないでくれます?」
「そうは言われましても、前回、あんな風に途中で帰されてしまいましたので、お時間や作業内容のご相談もいたしたく…」
「あぁ、もう!とにかく今は忙しいから。その話は次の水曜日に、家で聞きますよ。それでいいでしょ」

 津麦は、前回追い返された時の朔也の捨て台詞を思い出していた。夕方は一日で一番忙しい時間と言ったのではなかったか。水曜日に、話す時間はちゃんと取ってくれるのか。けれど、またケンカ別れになってしまっては、安富さんにとても報告できない。仕事なのだから、さすがに大人になりなさい、と言われてしまうだろう。
 反論を飲み込んで、「分かりました。では明後日の16時に」と言って電話を切った。


 その日出迎えてくれたのは、慶吾だった。前回は濡れていたが、今日の髪はふわふわとしていた。坊ちゃん刈りがそのまま伸びてしまったような髪をしている。髪型のせいか、一番上の真子に似ているように思う。慶吾は、長い髪の隙間から瞳をのぞかせ、津麦を見て申し訳なさそうな顔で言った。

「今日は何もしなくていいって、パパが」
「え?家事はしなくていいってことですか?」
「うん、パパが帰るまで、待っててって」
 呆れた。よほど電話が嫌だったのか。その仕返しなのだろうか。津麦は、自分のことは置いておいて、もういい大人なのに、と思ってしまう。

「そう。分かりました。今日は、掃除もお料理もしません。その代わり…」
 津麦は、一呼吸おいてリビングを眺め、続いて慶吾と真っすぐ目を合わせた。

「慶吾くん、私と一緒に遊んでくれませんか?なんにもしないでパパの帰りを待ってるなんて、暇すぎて津麦さん、眠っちゃうよー。そしたら、帰ってきたパパに怒られちゃうかもしれない」
 津麦は、わざと自分の二の腕を抱え、震えるような仕草をした。

「お願い!私を助けると思って、付き合ってください!今日は家にいるんでしょ?遊ぶのはいいでしょ?何もしてない、になると思うの。樹子ちゃんもいるなら一緒に誘って遊ぼ。ね?」
 畳みかけるように話した津麦に、慶吾は一度だけコクンと頷いて、玄関脇の部屋に樹子を呼びに行った。

 せっかくの空いた時間だ。以前から、この家で暮らしている子ども達の様子も、気になっていた。安富さんから「虐待は」と聞かれたことも、津麦の胸をざわつかせている。朔也が帰ってくるまでは、子ども達と遊びながら、話してみることにしよう。

「わーい、遊ぼう遊ぼう!」
 そう言って、樹子はトランプや、樽に短剣を指すおもちゃなど、いくつかのテーブルゲームを持ってリビングに現れた。津麦は改めて、リビングを見回す。1回目と2回目の訪問では、結局台所にかかりきりで、リビングを片づける時間などなかった。ここで過ごすのは今日が初めてだ。
 遊ぶと言っても一体どこで、と洗濯ものの海に目を凝らす。沈みかけてはいるが、家族が食事をとっていると思われる座卓を見つけた。朝食のシリアルの食べ残しが入ったままの器がいくつも置かれ、あとはティッシュ箱や、わら半紙のプリント、レシート、よく分からない薬が散らばり、やはりこの上にも洗濯物がたくさんのせられている。とてもじゃないが、すぐにテーブルゲームができるような状態ではない。

 何もするなと言われたけれど、食器はそのまま流しへ持っていった。そして、プリント類はまとめ、洗濯ものは床の壁際に寄せておいた。本当は大掃除してしまいたい衝動を堪えて、最低限だけの作業を。これで3人分のスペースくらいはできるだろう。

 広くなった座卓を見て、樹子は満足そうに頷くと、トランプを机に置いた。
「七並べをしよう!」と言う。
「トランプなんて、よく見つかったね」と慶吾。
「うん、久しぶりだよね~、トランプ。ずっと引き出しにしまってた」 
 樹子は、カードを上手に切りながら、ケラケラと笑って答える。

「前はさ、お休みの雨の日には、どこにも行けないからって言って、一日中、家の中でだらだらしてたじゃん。床はこんなじゃなくて、もっと広くてさ、寝転がり放題で」
 まだたった12歳の樹子が、すごく昔を懐かしむみたいな目をして言う。

「ママは家事や昌と凛の世話をしているときもあったけど、一緒にだらだらしてるパパは、トランプしよって誘ったら『しょーがないなぁ、一回だけ』って言いながらやってくれて。でも、パパ負けず嫌いだからさ。負けたら火がついちゃうみたいで、結局何回も何回もやってくれるんだよね。白熱して楽しかったなぁ。雨でどこにもいけなくても、あの時間が大好きだった。
 遊びにきた友達ともやったりしてたよ。うちは贅沢できないし、ゲーム機はないからさ。友達と遊ぶとしたら、これ。家がこんなになってからは、やる場所もないし、しまいっぱなしだったけど」

「最近もパパと遊んだりする?」
 配られたカードから7を探しながら、津麦が聞く。樹子が手持ちのトランプを並べ変えながら、まさか!と大袈裟なしかめっ面を作って見せる。

「一緒に遊ぶ時間なんて、全然ないの。ずーっと忙しく歩き回って何かやってるか、泥の様に寝てるかどっちかだよ」
「家の中で、こんな風に誰かとゆっくり話すのも、久しぶりな気がするな」  
 少しずつ慣れてきたのか、無口だった慶吾が自分から話してくれる。
「だね。津麦さんに感謝~。じゃあ、ダイヤの7持ってたから私からね」
 樹子はサクッと笑う。明るい声に救われる。
「どうぞ〜。私は、ただ一緒に遊んでるだけだよ」
 嬉しさを隠しながら、津麦はこたえる。

 しばらく、カードを見ていた慶吾が顔をあげて、津麦を見る。
「遊んではくれなくなっちゃったけど、パパはすごく優しいよ。優しすぎるくらい。僕たちには、家事も、昌や凛の世話もやらなくていい、って言うんだ。全部パパがやるから、お前たちは外で思いっきり遊んでこいって」

 前回、びしょ濡れで帰ってきた慶吾の様子を思い出す。今、話をしている感じだと、慶吾は10歳の子にしては大人びて落ち着いている。公園で濡れて帰ってくるほど、やんちゃなようには思えない。ひょっとして、と津麦の勘が働く。そんなふうに言う朔也を安心させたくて、慶吾はわざと外で、汚して帰ってきているのかもしれない。慶吾と朔也は、子ども達の中で唯一、血の繋がりがない親子なのだ。子どもなりに、気を使っているのだろうか。

「きっとそれが、ママとパパが決めた家庭のホーシン?だったんだろうね」
 樹子は、スペードの9を出しながら言う。
「方針?」
「死んじゃったママはちゃんっとした人だったんだよ。家事も、育児も、パートまでやってて。ニュースとかにも敏感で、子どもが子どもを世話するような話も聞くじゃん。そんなことはおかしいって言ってた。だから、私たちは昌や凛の世話は、ほとんどしたことないの。
 でも、お金もないから、ママもパートで働きながらパパと2人で5人育てて、何もかも子どもを優先してくれてた。自分のことはぜーんぶ後回しにしてたんだよ。体がしんどくても無理して、病院にも行かなかった。それで、病気に気づくのが遅くなって、あっという間に死んじゃったんだよね」
「辛いね」
 死んじゃったママも辛いけれど、この子達はそのことを一生負い目に感じて生きていくのだろうか。
 見ると、慶吾は唇を噛んで、樹子の話を聞いていた。その慶吾が口を開く。

「ときどきね、ただいまって帰ってきたら、ママがおかえりって言ってくれる夢をみる。僕がびしょ濡れで立ってたら、柔らかいタオルで頭を拭いてくれる夢。起きたら、やっぱりママは死んじゃってるんだけどね」
 慶吾は一度、深く息を吸う。

「起きたらさ、ママがいなくなっただけじゃなくて、家中のあたたかかったものがどこかに消えたみたいなんだ。おかえりも、ふわふわのタオルも全部。誰もおかえりって言ってくれなくなっちゃったし、タオルも洗濯ものも床に散らばってるし」

 慶吾が、津麦の眼を見て少しだけ微笑む。
「だから、この間、津麦さんがおかえりって言ってくれた時は、嬉しかったな。あの時は、うまく返事できなくてごめんね。久しぶりに言われたって、ジンとしてた」
「ううん、こちらこそごめんね。タオル持って行ってあげられなくて」
 津麦は言われて、涙が目を覆うのを感じた。でも、奥歯を強く噛んで我慢した。辛い子供たちを置いて、大人の自分が泣くわけにはいかなかった。
「この家だもん、仕方ないよ」
 樹子がうんうんと頷きながら、フォローしてくれる。

「お姉ちゃんもそうだと思うけど、僕はパパには死んでほしくないんだよ」
 慶吾はぼそりと言う。
「今のままだと、パパもママみたいに死んじゃいそう。ふたりでも大変だったのに、ひとりで全部頑張りすぎてるもん。毎日ヘトヘト、寝るときにはエネルギーはゼロじゃなくて、もうマイナスって感じ。もっと頼ってほしいのにな」

 ちゃんっとしたママ、きちんとしなさいと言う母。そういう人達の背中を見て、私たちは一体どこに行くのだろう。追いかけて追いかけて、溺れているのかもしれないな、と思う。
 津麦はトランプを並べながら、自分のやらなくてはいけないことが、見えてきたような気持ちになっていた。

 窓から見える向かいのマンションがオレンジ色に染まり、遠くから夕焼け小焼けの歌声が近づいてくる。と思ったら、ドアがガチャリと開いた。歌っていたのは、昌と凛だったらしい。津麦は慌てて、玄関に走る。帰ってきた朔也は、ただいまも言わず、開口一番、津麦に言った。
「とにかく電話はやめてくれ」
「おかえりなさいませ、織野様。今日は暑くなりましたね。ひとまず、お水を飲んではいかがでしょうか。昌くんも凛ちゃんも、汗びっしょりですよ」
 見ると、自転車のヘルメットを脱いだ昌と凛の髪は、汗で額にへばりついていた。氷の入った水を差しだすと、二人ともガブガブと勢いよく飲んだ。朔也は蛇口の水を、手で直接掬って飲んだ。

「それで、お電話のことですが?」
「そうそう、電話をやめてほしいんだ。昌や凛の保育園からも、何度も何度も電話がかかってくるんだ」
「と言いますと?」
「小さいから、しょっちゅう発熱するんだよ。電話で発熱しましたって言われる度に、お迎えに行かなきゃいけない。カジダイさんから電話が来たら、また保育園からかと思って、心臓に悪いんだよ。
 職場でも、電話がかかってくると嫌な顔をされる。また、給料ドロボーかって、嫌味を言われることもあるんだよ」

 カジダイさんって私のことかな、名前くらい覚えてくれてもいいのに。子ども達でも覚えてるよ、と津麦は引っかかったけれど、話を進めた。

「それは失礼いたしました。けれど、前回の様に、きちんとお話ができないまま、帰されてしまいますと、こちらもお電話でいろいろ確認せざるを得ません」
 さっき、慶吾や樹子の思いを聞いた津麦は、今日はそう簡単には引き下がらないと心に決めていた。

「分かったよ。今日はちゃんと話をする」
「では、前回言いかけてやめたことを、きちんと教えていただけませんか?悪いところがあれば、直します。初回の訪問時、何かお気に召さないところ、ありましたか。それとも、家事代行そのものにやはり抵抗があるのでしょうか」
「じゃあ、言わせてもらうけど」
 ついて来いと言わんばかりに、朔也は津麦の先に立った。台所に入って、炊飯器の蓋を開ける。中身は空っぽだ。
「なんで、米を炊いておいてくれなかったわけ?」
「え?」
 津麦は急に何を言われたのか、理解できなかった。

「米だよ。米。
 仕事して、ガキを二人保育園に迎えに行って、『あぁ、今日はメシができてるんだ』って思って帰ってきたんだ。腹が空いてるガキたちに、『よし待ってろ今日はカジダイさんが作ってくれた美味しいご飯だぞ!』って言って帰ってきた。いい匂いがする。さあ食べるぞって、炊飯釜を開けたら空っぽじゃねぇか」
 初日に作ったメニューを思い出す。豚汁と、キャベツの和え物と…そうして思い当たった言葉を、津麦は言い返していた。

「けれど、これまで私が担当したお客様は、おかずだけでしたし」
「あんたのこれまで、は知らんの。お願いしたのはうちなの。ガキ5人と、大工で力仕事して帰ってくる男のいる家なの。どうやって、米なしで腹いっぱいにさせるんだよ?」
 朔也は、相変わらず真っ黒なクマのある目でジロリと津麦をにらんだ。
 言われてみたら、そうだ。この家がどういう家族かなんて、あまり考えられていなかった。津麦は、"これまで"の型に織野家も押し込めて考えていたことに気付いた。

「それから、台所に置いてあった、緑のポテトチップスの蓋、捨てただろ。あれは、昌が集めてたんだ。メンコみたいにして遊んでんだよ。子どもってそういう、ゴミみたいなもので遊ぶんだ。特に昌はそういう、よく分からないものの収集が好きで」
「それは…本当に、申し訳ありませんでした」

 津麦は頭を深く下げて、上げることができなかった。

 ダメだ。私、全然ダメだ。全然できてない。
 津麦はやっと、自分の何がダメだったのか、理解した。

「伝えてない俺も悪いんですけど。でも、分かるよね。時間がないの。たった一人で5人育ててるんだから、チマチマと細かなことを伝える時間はないんだ。それなら自分で全部やった方がスムーズなんじゃないかって思うわけよ」

 何も想像できていなかった。その家に住む人の暮らしを。

 家事代行をはじめた時、家事なんて誰にでもできると思ってた。世の中の多くの人ができていることだから、自分にもきっとできると思っていたんだ。けれど、本当にそうなのか。
 一人暮らしをしたり、誰かと同棲したり、子育てしたり。もっと自分にそういう生活というものの経験があれば、織野朔也は自分を、いや、家事代行という仕事を、頼ってくれたのかもしれない。助けなんかいらない、と言っていたこの人を助けてみせたかった。父親を助けたいと願っていた、慶吾や樹子の力にもなりたかった。

「だから、まぁ、とにかく。うん。しばらくは俺の帰ってくる時間で帰るってことにしてよ。夕方の忙しい時間に、知らない人が家にいるのも、なんだか落ち着かないし…」

 厳しかった朔也の声が、少しずつ柔らかさを帯びていく。津麦がいつまでも、頭を上げないからだ。
 悔しい。悔しい。
 織野家を助けられないばかりか、自分と家族のことでとうに限界を超えているはずの朔也に、さらに気を遣わせるなんて。自分が情けなく、悔しくて、恥ずかしかった。涙が、台所の床にポツリと落ちた。


6.

 安富さんに電話してみようかな、とは思った。「ただ、米を炊き忘れて、ゴミと間違えておもちゃを捨ててしまっただけなんですけどね」なんて軽い感じで、話し出せばいいじゃないか。けれど津麦の指は一向に、電話の方へ動かない。自分を偽る、なんて簡単なことのはずなのに、今はそれができそうになかった。

 気分転換しようと、立ち上がって家のキッチンで、紅茶を淹れる。食器棚からガラスのポットとカップを取り出し、缶に入った茶葉をティースプーンでひとすくいポットに入れる。茶葉は母が専門店で購入してきた、こだわりのものだ。沸騰したお湯を注ぐと、広くしんとしたキッチンに、あたたかさを含んだ爽やかな香りが立ちこめる。

 何者にも脅かされることのないキッチンで、母が買った紅茶を飲みながら、やはり身のほど知らずだったのかもしれない、と思う。家事くらいできると思っていたけれど、思っていた何倍も家の仕事は奥が深い。ただ米を炊き忘れたとか、間違って捨ててしまったという一つ一つの表をなぞることだけではない。もっと自分の深いところに根があるのだと思う。
 このまま自分のような人間が、家事代行を続けていていいのか。もともと社会復帰のために、腰掛けではじめた仕事だ。ここが辞め時なんじゃないだろうか。

 透き通った褐色の紅茶を眺め、もう一度、口に含む。
 逃げなのかな、とも思う。知らない世界に出会って怖くなって逃げてしまいたくなっているのかもしれない。このまま辞めて、家事や織野家から逃げてしまってもいいのか。樹子や慶吾があんなに素直に思いを伝えてくれたのに。子ども達でさえ何か力になりたいと言うくらいなのに。忙しい朔也をまた一人にしてしまうのか。グルグルと考え込んでしまう。

 パッとスマホの画面が光る。見ると、安富さんからの電話だった。
 織野家に話しに行ったにも関わらず、いつものように電話がかかって来ないことを心配して、安富さんの方から電話をかけてきてくれたのだ。

「どうかされましたか?」
 安富さんの声は耳に心地よい。固まっていた思考が、少しだけゆるむようだった。津麦は自分の中を巡っていた言葉のほんの一部を、漏らす。

「私、向いてないんだなって思ったんです。この仕事」
 言ってしまうと、改めて目の前に突きつけられたような気がして、自分の言葉なのに落ち込んでしまう。

「それはまた、急ですね。わたくし、本日ちょっと外に出ておりまして。津麦さんのお家の方まで行く予定なのですが、出てこられますか?」
 結構なことを打ち明けたと思うのに、安富さんはいたって冷静だった。


 津麦の家からしばらく歩いたところにある、夕日ヶ浜海岸公園で待ち合わせとなった。公園をよく知る津麦は、初めて訪れる安富さんに、「砂浜に面している防潮堤のどこかで座って待っています」と伝えた。昔読んだ小説のラストで、主人公の男女が長い砂浜で、詳しい待ち合わせもせずに巡り会うという場面があって、あれを真似してみたくなった。
 ちょっと魔がさした。冷静な安富さんに汗をかかせてみたい気がしたのだけど、訪れてみたら先が見えないほど遠くまで、防潮堤は続いていた。記憶より何倍も長い。これじゃあ、本当に会えないわ。津麦のいたずら心はしぼみ、安富さんが来る駅から一番近い場所に腰を下ろす。

 目の前の海に広がる無数の波間が、春の光を受けてキラキラと輝いている。サーフィンをする若者、犬の散歩をする老夫婦、手を繋ぎながら砂浜を歩くカップル、波打ち際で遊ぶ親子。海では、誰も彼もが幸せそうに見えた。ここしばらく巡らせていた考えは頭から消え、ザーンザーンと一定の間隔で寄せては引く波の音だけが響く。
 波は海岸に寄せるときは白く砕け、泡を撒き散らせているけれど、引いていくときは水鏡のように平たくなって美しい。優しく砂浜を撫でて行くようだ。

 フッフッフッと聞きなれた笑い声がして、振り向くと安富さんが立っていた。

「会えてよかったです」
 汗を拭きながら、津麦の隣に座る。直接会ったのは、派遣の面接の時以来だった。その時、安富さんは津麦の真向いに座っていた。安富さんの横顔を見るのは初めてだ。ふっくらした頬に赤みがさしている。

「すみません、わざわざ来ていただいて」
 安富さんの汗はとめどなく溢れる。十分汗をかいてくれている。この人にあれ以上、いじわるしなくて良かった。

「いえいえ、私から提案したのですから。それにしても、良いところですね。ここは」
 安富さんは首を振り、穏やかに海岸を眺めた。

「何かありましたか?」
「何か…というほどのことも無いのですが」
 津麦は安富さんの方は見ずに、ゆっくりと先日の朔也とのやりとりを話し始めた。遠くの方では、ヨットが海の上を滑らかに進んでいる。

「そうでしたか」
 安富さんが、かすかに頷いたのがわかる。

「分かり合えないのかもしれないって思ったんです。
 私、子供もいないし、同棲もしたことないし、一人暮らしさえ経験がないんです。そんなやつに、家庭を持つお客様の気持ちなんて分からないのかなと思って。何をしてほしいか、汲み取ることができないって」
「そうですねえ」
 安富さんは、海を眺めてしばらく考えているようだった。

「けれど、夫婦であっても”何をしてほしいか汲み取る”なんて、大層難しい問題です。よく、愛し合う夫婦であれば簡単にできると思い込まれているんですけどね。
 夫婦でも、二人で暮らし始めた時、子どもが出来た時、子どもが増えた時、働き方が変わった時。そういう節目節目で、何度も喧嘩をして、話し合いを重ねて、それでなんとか家事は回っていくのだと私は思いますよ」
「安富さんの家もそうですか?」
「もちろん」
 安富さんの家族のことを聞くのは初めてだった。意外だ。こんなに穏やかな人が、頻繁に喧嘩のようなものをしているなんて、想像がつかない。やはり家庭というのは、外から見ていては分からないものだな。織野家の扉を開けるまで、あんな光景が広がっているなんて想像できなかったみたいに。
 砂浜で遊んでいた子どもがキャイーと楽しそうに、甲高い笑い声を上げた。

「そうなんですね。でも織野様は、それを求めてるんですよね。時間がないから、全て汲み取ってくれる家事代行を。それ、私には無理なんですよぉ」
 怒られるだろうか、と思いながらも、津麦は家事代行になった時の経緯を話し始めた。

「私、家事なんて、って思ってたんですよ。正直。誰にでもできる簡単な仕事だって。だって、自分の親とか、それから友達の親とか、みんな当たり前のように出来ていたことだから。私が生まれた時から。特別なスキルも必要ないだろうって、前職の商社と比べて、舐めてました」
「…はい」

「でも、今回織野様に言われて気づいたんです。これまで私がやったことのある家事って、全部、誰かがお膳立てしてくれてたものだったんだって。
 料理は、料理教室で習って、家では母がリクエストしたメニューを母が買ってきた食材で作ってました。家事代行で伺ったお家でも一緒です。
 掃除と洗濯は、実家でもやっていますけど、それも母の指示のもとでした。今日は1階の掃除機がけをお願いとか、今日は風呂掃除で、とか。
 今何が必要か、自分で考えて工夫してやった家事は、一つもないんです」

 安富さんは、諭すように静かに言った。
「指示されたことをきちんとやり遂げるのも、立派なことです。そういうお客様もいます。指示したことを確実にやってほしいというお客様です」
「そうですよね。確かにこれまで担当したのは、そういうお客様でした」
 初めて担当した共働きの3人家族、次に担当した老夫婦を思い出した。それから、織野朔也の顔が浮かぶ。目の前の海と、織野家のクリームイエローの海がうっすらと重なる。

「でも、例えば食事のメニューや今日やってほしい掃除を、家事代行が来るより先に考えておく。そんな余裕もないお客様だっているんだ、って織野家を見て、気づきました。本当の本当に手も、時間も、何もかも足りていないお客様ですよ。
 私は、欲張りだから、そんなどうしようもなく困っているお客様がいるんだったら、その人達の力にもなりたいんですよ。本当の気持ちは。できることなら。私は向いてないから、力になりようもないんですけど」
 言って、情けないような恥ずかしいような思いが蘇って、胸を塞ぐ。顔が紅潮するのを感じる。

「そういうのは、欲張りというのとは違うと思いますよ。気持ちがあたたかくて正義感が強いのだと思います。見てしまったらもう、ほうっておけないんですよね」
 安富さんの声が、どうしようもなく優しい。こめかみの奥の熱を持った部分が、じんわりと緩んでいくのを感じた。

「それで…、津麦さんはできることは全てやって、それでも向いてないと。そう思われているのですか?」
「できること?」
「織野家のためにできることです」

 できること、と言われてまた考えてしまった。前回の訪問から、ウジウジと考えてはいたものの、何か行動にうつしたわけではない。答えになるかどうかわからないけど、と思いながら慶吾と樹子と話したあとの、自分の気持ちを安富さんに話してみた。

「本当は私、慶吾くんや樹子ちゃんの話聞いて、織野家のために、お母さんになる!って思ったんですよ」
「えっ、織野様と再婚されるおつもりですか」
「いや、そんな訳ないじゃないですか、もうっ!」
 安富さんの背広をパシンとはたく。
「家事代行として、母親代わりになるってことですよ」
「津麦さん…」
 安富さんが真剣な面持ちで、津麦の方に顔を向ける。津麦も視線を合わせる。

「色々な考え方があることは承知しています。けれど、私の個人的な考えを述べさせていただけるなら、私は、家事代行は家事の代わりはできても、お母様の代わりにはなれないと思っています。
 一人の家事代行が子ども達の成長を、この先もずっとそばで見守り、導いていけるわけではないのです。私たちが向き合うのは、家事です。家事代行は家事のプロです。育児のサポートもしますが、あくまでサポート」
 安富さんの声色が珍しく厳しくなった。

「すみません。その線引きはきちんとしないといけないですね。でも、パパが子供たちの話を聞く時間がない代わりに、話し相手になってあげるくらいならいいですよね?」
「それは…第三者の大人の存在というのも子供たちにとっては大事ですから。否定する理由はありません。家族以外に話せる人がいるというのはいいことです」
「ですよね!」
「けれど、くれぐれも!何か子供たちから話しをされたときはお父様、もしくは相談員の私に話すこと。決して一人でその後の行動を起こしてはいけません」
「承知しました!」
 津麦は敬礼のポーズをした。海からの潮風がふわっと吹き、頬を撫でた。

「私たちは家事代行のプロですからね」
「そう、でも一番の問題はそこなんです。家事のプロ、なんてとても言えないですよー。織野様から、お前は手出しするな、足手まといだって言われちゃったようなもんだし」

 そうですねえと言いながら、安富さんは眼鏡の奥でゆっくりと数回瞬きをする。
「もちろん経験は糧です。けれど、それが最初からある人はいません。
 一人暮らしをしたことがある、同棲して共働きで生活したことがある、子どもを育てた経験がある。それは確かに、ある側面では有利な経験です。けれど、必須のものではありません。織野様の家で言えば、織野様と同じ経験をしているシングルファーザーの家事代行でないと担当できないか?というと、答えはノーですよね。それと同じです。お客様と同じ経験が必要、という訳ではないのです。家事のプロとして出来ることはたくさんあります」  
 その出来ること、が津麦にはぼんやりとして分からない。お母さんでもなく、お父さんでもなく、家事のプロとして出来ること。

「ところで、津麦さん。
 津麦さんは以前大手の商社にお勤めだったとか。大きな会社では、何もできない新人さんは、何をされているのでしょうか?」

「研修に参加したり、先輩社員の会議に出て見て学んで、議事録を取ったりするんですよ」
「なるほど。何もできなくても、見て学ぶ、ということですね」
 津麦は、ぼやけていた焦点がそこで初めてピッと合ったような気がした。ここまでヒントを出してもらってやっと、安富さんの言わんとしていることが分かった。

「そっか!そうですよね。知らないんだから、できないんだよ。知らないんなら、知っていけばいいってことですよね」

 やっと分かりましたかと安富さんが笑った。いつもの母音の無い笑い声は、潮風と大きな波音の間に消えて行った。



***
◆続きはこちら

・第3章


読んでくださり、ありがとうございます! いただいたサポートは、次の創作のパワーにしたいと思います。