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クリームイエローの海と春キャベツのある家(1/4章)/小説 #創作大賞2023

【あらすじ】
 家事代行歴3ヶ月の永井津麦。新しい勤務先は、6人家族の父子家庭だ。ごく普通のマンションの一室に住む織野家。けれど、一歩家の中に入るとそこには、息苦しいほど沢山の“洗濯ものの海”が広がっていた!
 洗濯も掃除も行き届かぬ家に住みながら、「家事代行なんて贅沢なもの、なくてもやっていける」と言い切るシングルファーザーの織野朔也。
 津麦はこれまでの常識が通用しない家で、家事を通し、曲者揃いの織野一家を助け、家を過ごしやすく変えていくことはできるのか。

 仕事のやりがい、家事との付き合い方、そして家族への想い。それぞれに揺れる人々を描いたお仕事小説。


プロローグ.

 ほんの些細なことで、
 見えてた世界の色がガラリと変わってしまうことってある。

 たとえば、今朝のはなし。
 永井 津麦ながい つむぎが降り立ったのは、陰気な駅だった。蛍光灯の灯りが3つに2つくらい消えていて薄暗い。ホームから改札へあがるのに、エスカレーターはない。みな下を向いて兵隊みたいに一定の速度で階段を上がって、改札を出て行く。津麦も、その列に無心で加わった。
 線路沿いの道は、でこぼこしていた。雑な鋪装が細切れにされていて、歩きづらい。少し前を行くゴミ収集車の車体が、進むたび右へ左へ傾く。壁や店のシャッターには、文字なのか、絵なのかよく分からないスプレーの落書きがしてある。
 夜に一人で歩くのはちょっと怖いな、と津麦は思った。今が朝の9時だといっても、早く通り過ぎるに越したことはない、と早足になる。

 そんな時、後ろから、子供の歌声が近づいてきた。
 響く、陽気な歌声。
 これ、なんの歌だっけ。太陽が出てくる歌。
 お父さんの運転する自転車の後ろに乗った男の子が、津麦を追い抜いて行った。男の子の着ているスモッグが、風をうけ膨らんでいる。津麦のふわりと巻いたポニーテールが揺れる。
 道のせいで、自転車もやはり左右へゆらゆらするけれど、お父さんは安全運転で、子どもは安心しきった様子でお父さんにもたれ掛かり、空を見上げて歌っている。いかにも気持ちよさそうだ。

 つられて見上げた空は、あたたかに晴れていた。5月の空だ。陰気なもやに覆われた心は、一瞬のうちに晴れ渡る。
 あの親子がここを通らなければ、今日という津麦にとっての運命の日が、晴れだったのか雨だったのか、春のことだったのか冬のことだったのか、きっと忘れてしまっていただろう。
 気づけば足取りは軽く、気持ちは伸びやかになっていた。

1.

 線路沿いの道のつきあたり、地図アプリの示すところに、メゾン松沢本町はあった。白く縦に長い小綺麗なマンション。2階の202号室が、今日からの勤務地だ。
 家事代行サービスの仕事を紹介してくれるアプリで、最寄り駅から乗り換えなしで行ける範囲の仕事を探し、見つけたのがこの家。織野おりの家だった。

 津麦は、新卒で5年間務めた大手の商社を辞めて、3か月前に家事代行の派遣会社に登録したばかりの新米ヘルパーだ。
 この仕事は以前と違って、持ち物が多い。未だに慣れない津麦は、手提げ鞄の中身を何度も確かめた。
  社員証
  エプロン
  三角巾
  マスク
  手を拭くタオル
  ゴム手袋
  替えの靴下
 うん、忘れ物はない。大丈夫だ。

 商社にいた頃、持ち物といえば社員証くらいだった。鞄も持たずに体一つで会社にくる社員もいたほどだ。けれど、仕事は持ち物ほど軽々しいものではなかった。5年目の津麦に任された仕事は、規模とやりがいと責任のすべてが大きく、津麦は寝食以外の時間を注ぎこんで働いた。そして、気が付いたら、倒れていたのだ。過労だった。半年ほど休んだ末、体調はよくなったもののまた商社で働くほどの気力は戻らず、退職した。失業保険が切れるまでは、学生以来の海外旅行に行ったり、地方で就職した友達を訪ねたり、リフレッシュすべく過ごしたが、実家暮らしで親の眼もあるしそろそろ社会復帰せねばという気になった。けれど、いきなり以前のように全力で働く気にはならない。手始めに、何か手ごろな派遣に登録しようかと、求人サイトを眺めていたとき、「家事代行」という仕事を見つけた。家事くらいなら、ゆるみ切った、今の自分にもできるだろうと思った。

 家事を仕事にしたとはいえ、はじめの頃は、家事を依頼する人の気持ちが津麦には分からなかった。自分でもできる家事を、お金を払ってまで依頼するとはどういうことなんだろう。
 けれど、家事代行をはじめて3か月がたち、いくつかの仕事を引き受けるうちに、少しずつ理解してきた。これまで担当した家では、料理を依頼されることがほとんどだった。共働きの夫婦や、足腰の弱くなった老人の家で料理をする。料理をする時間や体力がない人たちが、依頼してくるのだ。「ありがとう」「美味しかった」という言葉は純粋に嬉しく、なんとなく始めたこの仕事を続ける喜びになった。



 新しく担当する織野家は、そんなこれまでの家とは少し毛色の違う家庭だった。アプリの情報によると、依頼主の織野朔也おりのさくやはシングルファーザー。一家6人暮らし。週に1回、掃除・洗濯・調理など、相談して決めたい、と書いてあった。不安もあったが、定期的に通うことになりそうだし、電車1本で行けるアクセスのしやすさを優先した。

 アプリでの応募が通過すると、依頼主に電話をかけ、あいさつと初日の作業の内容を打ち合わせることになっている。
 日中に電話をかけると、朔也の後ろからは、何かを削るようなウィーンという金属音、釘を打ちこむようなカンカンという音が鳴り響いていた。朔也の職場は、工事現場かなにかかなと津麦は思った。

「あー、その日は長女が家にいるのでー!長女に伝えておきます。今から何やってほしいとか、ちょっとわかんないのでー!その日になってみないと、どうにも!」
「そうですか…承知しました。お仕事中失礼いたしました」

 後ろの雑音のせいもあるが、怒鳴るようなめんどくさそうな口調に気圧されて、津麦は早々に電話を切った。電話対応だけでも、これまでの客とは違うという雰囲気をいやでも感じた。
 これまで津麦が担当した客は、もっとずっと丁寧だった。和食や洋食などどんな料理が好きか、子どもがいるから味付けは薄めにしてほしい、年寄りだから脂っこいものは控えてほしい、といった要望を細やかに伝えてくれた。事前に家に用意しておいた方がよい食材や調味料がないかと、津麦の意見も聞いてくれた。
 けれど今回は、当日の作業について何のイメージも沸かないまま、現場に向かうことになった。

 とはいえ、家事は家事だ。
 どんな家でもやることは同じはずだ。
 共用エントランスに立った津麦は、自分を励まし、202号室のベルを鳴らした。

 事前の電話で言われていた通り、スピーカーからは少女の声でぎこちない、「はい」が聞こえた。津麦も、初めての現場ということもあり、緊張に引っ張られそうになる。こういうときは、無理にでも明るい声を出すしかない。ベル横のカメラに向かって、口角を持ち上げる。

「おはようございますっ。
 本日、家事代行に伺いました、永井です」
「あっ」
と言って、スピーカーからの声は途切れる。自動ドアが開く。
 止まっていたエレベーターで2階を押すと、すぐに部屋についた。エレベーターから降りてすぐ右手の部屋が202号室だった。今度は、ドア横のインターフォンを押す。こちらへの応答はなく、バタバタとドアの奥で足音がし、続いて鍵が開く音がする。
 ゆっくり開いたドアから、白い少女の顔がのぞいた。黒々と丸い目が、津麦の瞳を真っすぐに見つめている。顔はふっくらとし幼さが残るけれど、半袖短パンからのぞく手足は長く、骨そのままみたいに細い。黒髪は顎の少し上で切り揃えられ、前髪はピンで止められていた。のぞく白いおでこにある数個のにきびが、年頃の子どもらしい。

「はじめまして。本日はよろしくお願いします」
 少女は無表情のまま呟くように、お願いします、とおうむ返しし、どうぞと奥へ案内してくれた。玄関は暗い。窓からの明かりが届かず、外から入ってきて目が慣れぬうちは、手元も良く見えぬほどだった。電気をつけなければと機転が利くほどの大人ではないのだな、と思う。この子はまだ人を迎えることに慣れていない。
 他の家族はみな出払っているせいか、玄関には靴やものが少ないようだった。けれど、廊下を進むにつれ、その先に広がる空間の異様さに津麦は絶句した。


 服。
 服。
 服。
 リビングと思われる場所の、床一面を覆っているのは、大量の洋服だった。山、どころではない。洋服の海だ。真っ青ではなく、全体にうっすら黄味がかったクリームイエローの海。生の匂いのしない、ザラザラとした海。決して狭くはないリビングだが、全体を覆う服によりものすごい圧迫感がある。

 もうこんな時期には着ないであろうファーのついた上着、くしゃくしゃに丸まったパンツ、こどものメッシュの下着、よだれかけ、片っぽだけの靴下は柄合わせが困難なほど大量に散らばり、袖の長さも厚さもバラバラな洋服が、波の様にそこここに小山を作りながら広がっている。
 家族6人分の洗濯もののようだ。ところどころ、ハンガーの柄が洋服の海から突き出ているし、洗濯バサミが付きっぱなしの服もある。
 小さい子どもたちのものと思われる、おもちゃや、オムツやおしり拭き、買い物したあと中身を取りだして投げ捨てられたみたいなビニール袋が、服の海の上を漂っている。

 すごいですね…と言いそうになり、慌てて言葉を飲み込む。
 この家の子どもにとっては、これは異様な光景ではなく、日常なのかもしれない。今ここで急に突き付けるのは、かわいそうな気がした。津麦は引きつりそうな笑顔で、マニュアル通りの言葉を口にする。

「このあたりに、持ってきた荷物を置かせて頂きますね」

 革の手提げ鞄をおろすため、床に積まれている服をグッと押しのけて、スペースを作る。見えた床の部分では、しみだらけの絨毯に、食べ物のカスのような小さな茶色や黒い欠片が無数に落ちていた。「ひぃ!」と声をあげそうになりながら、また堪える。
 鞄は、母が就職の祝いにと買ってくれた、高価なものだった。こんな、虫が這っていても気づかないような床に置きたくない。

 津麦の母は、自分にも津麦にも厳しい人だった。「花嫁修業だ」と言って大学時代から地元で名の通った料理教室に津麦を通わせていたし、掃除と洗濯の仕方を徹底的に叩き込んだ。
 「きちんとしなさい」が母の口癖だった。
 それは休養中でも変わらない。実家にいれば、あらゆる家事をするように津麦に指示してきた。女が家にいて、ゴロゴロしているということが許せない人なのだ。
 母への反発もあったのかもしれない。家事くらいなんだ、と思っていた。誰にでもできる仕事だ、と。

 大手商社に勤め、何億という金を動かし働いていた頃は、やっと母を見返せたような気がしていた。専業主婦の母よりもずっと自分は、代え難い価値ある人間になったように思った。それなのに結局今、母に叩き込まれた家事で仕事をしている。有名大学まで出させてもらっておいて、嫁にも行かず家事代行の派遣をしているだなんて、胸を張っては言えなかった。
 キャリアウーマンか、結婚して子を持つ専業主婦でないと、母は認めてくれないような気がしていた。
 だから母には、派遣会社に登録していいところがあれば正社員になるつもりだとは話してある。家事をしているとは今も言えていない。きっと事務か何かだと思っているだろう。

 鞄を置けずに迷っていると、母の
 「きちんとしなさい」
 という声が聞こえた気がした。
 ここでのきちんと、とは一体どちらなのだろう。小さな子どものように、途方に暮れてしまう。

 いいや、これは仕事だ。お客様に失礼があってはいけない。ここは見て見ぬふりをしよう。今は。後で絶対に片づける。
 津麦は自分のこころをグッと奮い立たせて、バッグを置き、ポニーテールがヒュンと音がするほどの勢いで顔を上げ、仕事用の明るい声を出した。

「それでは、改めまして、本日はよろしくお願いいたします。永井津麦と申します」
「おねがいします」
「ええっと、真子さんですね。一番上のお姉ちゃんの」
「はい」
「本日、この後はご在宅いただけるでしょうか?」
「いる予定です」

 淡々と話す真子に、相変わらず表情は無い。
 たしか事前の資料によると、中学2年生のはずだ。学校はないのだろうか。疑問が頭を掠めた。けれど、そこまで立ち入っている時間もない。今はこの部屋を片付けることを、なによりも優先したかった。でないと、淀んだ空気で呼吸困難になりそうだ。

「そうですか、それは助かります。はじめてのおうちだと、道具の置き場所など、途中に確認したいことも出てきますので。では、本日はお掃除をご希望でしょうか?ご依頼書には、“掃除、料理、洗濯など”と記載されておりましたが」
「いえ、今日おとうさんから聞いてるのは、掃除ではなく、料理をお願いしたい、ということでした」
「お、りょうり!?」

 部屋の散らかりようから、九割がた「掃除を」と言われると予想していた津麦は、大きな声を出してしまった。

「は、はい料理で。と聞いています」

 軽い眩暈がする。先ほどはリビングの洗濯物に気を取られていたが、目の端でとらえた台所だって、とてもじゃないけれど、すぐに料理が出来る様子ではなかった。
 ダメだダメだ。冷静でいないと。これは仕事。

「分かりました。では、まず材料と調理器具を見せてください」

 案内された、台所は想像していた以上だった。シンクは排水溝がつまり、濁った水が張っている。使った皿や鍋や炊飯窯が無造作に置かれ、ふやけた米や油が水に浮いている。
 洗ったものを置く水切りカゴには、食器がもうのらないほど置かれ、僅かにのぞく白いはずの水受けトレーには赤や黒のカビがこびりついている。
 シンクの横の調理スペースはわずか30センチほど。そこに、6人分の麦茶やジュースが半分ほど入ったコップや、まだ中身が入ったままの水筒が並び、麦茶のパックやなぜか子供のおもちゃまでがギューギューに置かれている。台所の床にはよくわからないタレが飛び散り、野菜カスが落ちている。

 目眩が本格的になる。
 専業主婦の母と公務員の父の一人娘として育った津麦の家の中は、いつだって片付いていた。綺麗すぎるほどだった。ものというものは、扉付きの備え付けの収納棚におさめられ、外には置きっぱなしのものがなかった。ベッドのシーツは毎日、ピシッと糊のきいた綺麗なものに張り替えられていた。玄関先には、どんな季節も可愛らしい寄せ植えの花が咲いていた。
 これまで、家事代行として訪れた家も、津麦の実家に似ていた。今しがた子供が遊んだおもちゃが時々落ちていることはあっても、スッキリと片づけられている印象だった。これほど不衛生な場所を、津麦は生まれて初めて目にしたのだ。鼻の少し上のほうがヒクつき、眉間に皺が寄るのを抑えられない。

「すみませんが、換気をしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい」
 真子は素直にベランダに続く窓を、カラカラと開けてくれた。澄んだ空気が入ってきたような気がして、少しだけ深く息ができるようになる。

「まずは、洗い物をして、ここを片付けてから調理スタートにさせてください。このままでは、調理するスペースがありませんので」
「はぁ…わかりました」
 真子はよく分からないらしく、一瞬不安そうに瞳が揺れたが、頷いてくれた。

 その様子を見て、はじめは部屋の様子にショックを受けていた津麦だが、だんだん怒りのような感情が湧いてくるのを感じた。こんな台所でどうやって料理しろというのだ。まな板を置く場所も、洗ったものを置く場所もない。いや、まず排水溝が詰まっているし、食器を洗うこともできない。しかも初回なのに、親は立ち会わず、要領を得ない子供に説明を押しつけているって、どういうことなの。
 津麦は、もう一度深呼吸をする。

「では、つぎに食材と調味料の確認をさせてください」

 冷蔵庫は家族用の大きなものだった。こんな部屋だもの、冷蔵庫の中も冷蔵庫もひどい様子に違いないと、身構える。よくテレビで見る汚部屋の冷蔵庫のイメージが頭に浮かぶ。糸を引いたり、カビが生えた食材が出てくるのではないか。津麦は、おそるおそる冷蔵庫を開けた。

 けれど、まず目に飛び込んできたのは、
 美しい黄緑色だった。
 それから、鮮やかな赤
 汚れた部屋や台所に対して、冷蔵庫の中の色合いはみずみずしく、輝いてさえ見えた。

 いちばん手前に入っているのは、キャベツだった。そして、トマトだ。
 買ってきたばかりの、新鮮な野菜だった。
 奥には、にんじん、ごぼうにもやしと大根。

 無造作な入れ方ではあるし、使いかけの野菜にはラップもされず、そのまま放り込んであるが、傷んでいるものは一つも見当たらなかった。違う扉を開けると、卵やヨーグルト、ハム、豚肉、ひき肉、幼児の好きなキャラクターのつきのパン、お米なども入っている。
 調味料は、と探してみると、冷蔵庫の中に味噌と醤油が、フライパン横の引き出しには、みりん、酢、酒、油など基本の調理に必要なものがおさめられていた。塩や砂糖や粉類は、大袋のままで封が締められていない状態だが、一番使いやすいシンク横に並んでいる。

 毎日使われている様子がある。
 津麦は直感でそう感じた。
 ということは、織野朔也は、もしくは子ども達の誰かは、毎日料理をする。

 意外だった。
 この家の中で、食材と調味料の置かれた場所だけがきちんと息をしているのだ。それがどういうことを意味するのか、津麦にはよく分からなかった。衛生があってからの、料理、じゃあないの。でないと、お腹を壊す。
 納得はいかないながらも、ひとまず料理ができそうなことに安堵した。

「お料理に必要なものは、ありそうですね。
 また何かわからないことがあれば、お声かけさせていただきます」
「わかりました」

 真子はほっとしたようにかすかに表情を緩め、玄関に近い自分の部屋に戻って行った。



 排水溝をなんとか流れるようにしてから、洗い物をして、洗った食器を拭いて棚にしまい、調理スペースや、シンク、水切りを料理できるだけ確保したら、それだけで1時間がたっていた。

 なんてこと。
 今日は2時間しか枠がないのに。
 あと1時間で何が作れるだろう。

 いつもなら、ビーフストロガノフとか酢豚とか、自分ではなかなか作れない少し凝ったものを作るとお客様は喜んでくれた。けれど、今日はそんな時間はない。しかも6人分だ。

 食材を思い返す。
 冷蔵庫を開けてすぐに目に飛び込んできた、あのみずみずしいキャベツを使いたい。淀んだ空気で窒息しそうなこの部屋の中で、私はあのキャベツに救われたんだ。

 手に持ってみると葉は、柔らかい。春キャベツだろう。生のまま使うのがいい。暑くなってきたから、酢のきいたトマトもそえよう。メインは、大根とごぼうに豚肉もあったから豚汁がいい。煮物や和え物と続いたから、もやしはさっと炒め物にしよう。

・キャベツと塩昆布の和え物
・トマトの甘酢和え
・もやしとひき肉の炒めもの
・具沢山の豚汁

 津麦は、手早くメモに書きつけて、調理を始めた。こうやって書いておいた方が、使う食材や作る順番を、頭の中で整理しやすい。

 家族6人分は材料の準備だけで一仕事だ。
 キャベツは洗って、ザクザク切る。トマトも切って、豚汁の具材も切る。切るものはだいたいまとめてやってしまう。順番は生で使うものから先に、アクの強いものや肉類は最後。シンクの下を開けると、ボウルを4つ見つけた。下ごしらえに、ボウルがたくさんあるとありがたい。
 ごぼうをさらしている間に、トマトとキャベツに味を付けて冷蔵庫へ。豚はさっとお湯に通してから、他の具材と鍋へ。豚汁をぐつぐつやっている間に、もやし炒めを作る。最後に味噌をといて豚汁も完成だ。

 料理を終えて改めて、台所を眺める。やはり最初に確認したように、料理で使いたいものは手の届く範囲にあった。片付ける前はゴミ溜めのような台所だと思ったのに、料理をはじめてみると使い勝手は悪くない。津麦は予定時間内に完成したことに、ほっと胸を撫で下ろした。

「お勉強中、すみません」
 洗い物まで終えて、真子の部屋をのぞくと、そこもリビングほどではないが、あらゆるものが床に散乱していた。洋服ばかりでなく、カバンや、鏡や、ジャージや、キャラクターの透明なポーチなど中学生らしいものだった。わずかに確保された机の上で、真子は頭を垂れ、ノートに何か書き込んでいるようだった。
「はい」
 手を止めて、こちらを振り返った。
 若い子の瞳はなんて澄んでいるんだろう。こんな部屋にいても、そこだけあのキャベツみたいに輝いている。
「お料理終わりましたので、確認をお願いします」

2.

「すっっごい、部屋だったんですよっ!」

 唾が飛びそうな勢いで伝えると、電話口の安富やすとみさんが、英語のfの発音の練習のように母音のない声で、フッフッフッフッと笑うのが聞こえた。

「そうかもしれませんね。織野様は、父子家庭になられて間もないんです。奥様が亡くなられて、行政の方がお家を訪ねて行かれて、あまりに生活が荒んでいるということで…そこからうちの家事代行を紹介されたようですよ」

 安富さんは、派遣登録の時に面談してそのまま津麦の担当になった相談員だ。50代半ばくらいの男性で、銀縁眼鏡をかけ、ふっくらとしたからだつき。笑い方は独特だけれど、口調は穏やかで、話を聞くのが上手い。同僚というよりは、いきつけの喫茶店のマスターのような雰囲気だ。ついため口混じりになりながら、話しすぎてしまったと津麦はいつも電話を切った後に後悔する。

「お子さんは、14歳の真子まこさん、12歳の樹子きこさん、10歳の慶吾けいごさん、5歳のまささん、2歳のりんさんですね」
 5人も…と思ったが、そんなこと言っちゃいけない。安富さんの前では、つい本音が出てしまいそうになる。

「真子さんと樹子さんは、朔也様と前の奥様の子ども。慶吾さんは、奥様と前の旦那様の子ども。昌さんと凛さんは、再婚後の子どもです。奥様は、今年の冬に癌で亡くなられています」
 津麦の考えていることはお見通しという感じで、安富さんが補足する。

「そうなんですね…。癌かぁ。闘病中も大変だったでしょうね。子育てと看病と仕事と。けどさ、奥さんが亡くなったのなら、5人も1人で育てられるわけないんだから、前の奥さんとか、前の旦那さんとかに何人か引き取って貰えばいいのに」
「簡単におっしゃいますね」
「分かりますよ?親権争いとか、離婚の時にはいろいろあったんだろうって。今になって頼むとか難しいって。でも、あの部屋を見たらさ。もう、生活が破綻しちゃってるんです。6人とも、生きていく方が大事じゃないのかな」

「実際見てきた津麦さんがおっしゃるなら、そうなのかもしれません。けれど、そう簡単にできることではないのでしたら、私たち、家事代行ができることを、まずは考えなければいけませんね」
 穏やかな声だが、正論だ。ぐうの音も出ない。安富さんはまだまだプロ意識の低い津麦に、それとなく厳しいことを伝える。

「ただ、もし何か行政の方に、申し伝えておくべき兆候があれば、すぐに教えてください。例えば、万が一ですが、虐待とか。そのようなことがあれば、知らせるように言われています」
「うーん。まだその辺はよく分からないよ。パパ本人にも会ってないですし。まぁ、中学生の子に家事代行の相手をさせるのはどうかと思います。ただ…」
 津麦は、冷蔵庫のキャベツを思い出していた。

「料理はちゃんとしてる気がします」
「ほぉ」
「食材とか、調味料とか、とにかく家事代行が来るから買ってきて用意しておいたものじゃなくて、ちゃんと毎日台所を使っている感じがありました」
「なるほど」
「でも、そこも理解できなくて。料理なんて、惣菜買ってきたっていいわけじゃないですか?まずは片付けとか、掃除が先なんじゃないのかな」
「津麦さんはそう考えられるのですね」
「私、間違ってる?」
「どうでしょうか」
 安富さんは、ときどきこんな風に答えをくれなくて、疑問のまま残すようなことをしてくる。大事なことだから、自分で考えろってことなんだろうな。そう思うことにしている。

「それで、どうされますか?どんな現場にも、ヘルパーにも、合う合わないはあります。現場が合わないようでしたら、別のヘルパーと交代することもできますよ」
 それもありだ、と津麦は思う。
 わざわざあんな壮絶な現場を選んで行く理由はどこにもない。今までみたいに、清潔な、整理された場所で、料理だけに集中して仕事をすればいい。

けれど、あのキャベツと、真子の瞳が語りかけてくる。助けてくれと、言われているような気がする。

 それに、あの部屋。
 同じ世界のどこかに…、いや、どこか、じゃない。同じ沿線で、毎日電車で前を通り過ぎるような場所に、あんなに不潔で息苦しい空間が存在しているだけで、身震いがする。
 それにあの日、絶対後で片付ける、と決めたのではなかったか。どうなったか、まだあのまま汚い部屋なのか。子ども達はどんな生活をしているのか。と、自分の想像に悩まされ続けるのは嫌だ。この目で片付いてまともな生活をしているところを見届けないと、気がおさまらない。

「いえ、もう少し、続けてみます。いろいろと、気になるので」
「分かりました。また、状況教えてください。
 津麦さんが間違っていたのかどうか、もし考えが変わったのなら、それも」
 安富さんがまた、母音のないあの声で笑った。


3.

 次に織野家を訪れたのは翌週の水曜日だった。時間は16時から18時。津麦としては、暗くなる時間帯に働くのは憂鬱だ。身体を社会にならしていくために仕事を始めたのに、リズムもなんだか狂ってしまう。けれど、前回のように学校のある子どもに、平日昼間に相手をさせるのも違うと思い、時間を変えてもらったのだ。
 この時間であれば、小学生2人は学校を終えて帰宅しているし、保育園のお迎えを終えた朔也とも顔を合わせることができる。

 今日、玄関の扉を開けてくれたのは、次女の樹子だった。真子と同じ目をしているけれど、肌は薄い小麦色に焼けて、黒い髪を頭の上の方から2つに結んで垂らし、活発な印象だ。
「こんにちは!」挨拶も明るい。
「はい、こんにちは。家事代行の永井津麦と言います。よろしくね。樹子ちゃん、ですよね?」
「そうです!よろしくお願いしますっ!」
「元気ですね。挨拶もしっかりできてすごい」
「うん、わたし6年生だからね。今年は最高学年だから、みんなの見本になるように!って先生に言われてるの」
 樹子は実に誇らしそうに言ってみせた。

「かっこいいですねぇ!ところで、慶吾くんももう家にいますか?挨拶しておこうと思ってて」
「慶吾は、公園に遊びに行ってる。17時には帰るよ」
「そっかそっか。じゃあ、今日はパパから、何を頼んでおいてほしいとか、言われていますか?掃除とか洗濯とか?」
 あえて料理を選択肢から外して聞いてみた。津麦は、掃除掃除掃除と心で念じた。今日こそ、この洗濯ものたちを片付けたい。

「料理って聞いてる。今日の晩ご飯だって」
「お料理、ですね。承知しました」
 選択肢から外したかいのない答えだった。しかも見ると、前回片付けた台所は、見事に元に戻ってしまっていた。調理スペースは埋め尽くされ、もれなく排水溝も詰まっている。今日も片付けからだ。気合いを入れるしかない。

 一通りの片付けを終えて、仕上げにステンレス製の流しを洗っていると、慶吾が「ただいま」と帰ってきた。「おかえりなさい」と言って出て行くと、公園で水遊びでもしていたのか、頭の先から靴下までびしょ濡れだった。
「あらららら」
 津麦は慌ててタオルを探したが、あの服の海のうち、いったいどれが清潔なタオルなのか、見当もつかなかった。慶吾本人はいたって冷静だ。津麦の顔を一瞬ジッと見たが、何も言葉は発さなかった。床に広がる洗濯ものの海を見渡し、一番上から洋服をつまんで、においを嗅ぎ、着替える。脱いだものは父親から言われているのか、すぐに脱衣所に持って行っていた。
 樹子は、真子と共同部屋らしく玄関横の部屋にいる様子で、慶吾はリビングで洗濯ものの上に座り、テレビを見始めた。

 皆が落ち着いたところで、津麦はようやく冷蔵庫を開けた。今日は、キャベツが半玉と、カボチャ、ブロッコリーが入っていた。あとは、鶏もも肉が3枚。戸棚の中に玉ねぎとトマト缶などの缶詰も見つけたので、今日のメニューは洋食にしよう。

鶏肉とキャベツのトマトカレー
カボチャサラダ
ブロッコリーのバター醤油炒め
オニオンスープ

 トマトカレーを煮込みはじめて、ブロッコリーを茹で、スープの玉ねぎを炒めていると、扉の開く音がして、廊下の先がにわかに騒がしくなった。朔也たちが帰ってきたのだろうと、火を一旦止め、玄関に向かう。
 片手で自転車用のヘルメットを外しながら、もう一方の手で女の子を抱えた大男と、2人の子どもたちがそこにいた。

「あぁ。そうか」
 男は津麦を見て、思い出したように言う。
「お世話になります。織野朔也です。
 こっちは凛で、こっちが昌」

 朔也は、40代半ばくらいだろうか。背が高く、長い腕には筋肉がうっすら浮かぶ。ヘルメットを外したばかりの頭には、白髪が混じり、髪は天然のパーマのようで無造作にくるくると広がっている。ニッカポッカを履いた後ろ姿は、なかなかスラリと恰好が良さそうだが、正面から目を合わすと、目の下には大きなクマがあり、眉間には深い皺が刻まれ、いかにも人相が悪い。凛を抱えるようにだっこしているが、人さらいと間違われなかったのだろうか。
 昌は恥ずかしいのか、朔也の後ろにさっと身を隠した。凛はおかっぱの女の子。4人の姉弟もまだ子どもだと思っていたけれど、2歳の彼女はより一層小さく見えた。けれど、パワフルだ。手足を振り回して暴れて床におろされ、津麦をじーっと見て言う。
「だあれ?だあれ?」
 瞳を輝かせ、頭を傾ける仕草は、無邪気でとても可愛らしい。
「この間、お料理を作ってくれた人だよ」
「申し遅れました。家事代行の永井津麦と申します。お会いするのは初めてですね。よろしくお願いいたします。今週から毎週水曜日の16時にお伺いします」
「どうも、ご丁寧に」
「よろしくおねがいしましゅ!」
 凛はニコッと笑い、舌足らずの声で元気に言って、奥に駆けて行った。昌はいつまでも、朔也のニッカポッカをギュッと掴んで離そうとはしなかった。

 津麦が挨拶を終えて、料理に戻ろうとすると、朔也が言った。
「ありがとうございます。台所、すごく綺麗にしてもらって。後は俺がやるんで、大丈夫です」
「え?」
 津麦は何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「パパぁー、くちゅしたぬげないよー!」
 凛が、呼ぶ。
「あ、では、お料理はおまかせして子ども達のお世話に回った方がいいでしょうか?」
「いや、あんた。じゃない。永井さん。でも、永井さんは子どもを風呂に入れたりはできないですよね?」
「そうですね、入浴は家事代行のメニューにはありません」
「ですよね。だから、俺ももう帰ってきたし、あとは全部できますってこと。いつも一人でやってるんで。もう永井さんは、帰ってもらって大丈夫です」

 予想外のことを言われて、なんと返せばいいのかと戸惑う。約束の終了時刻の18時までにはまだ30分以上も時間がある。ブロッコリーは茹でっぱなし、玉ねぎは炒めっぱなしで、完成していない。ここですぐに、はいそうですか、という訳にはいかないと食い下がった。
「いえ、そういうわけにはいきません。お料理も途中ですし、私も仕事ですので」

「パぁパーー!」
「ちょっと待ってって!パパ今、話してるから!」
 朔也は叫ぶ。
「パパ、私が凛ちゃんみるよ。凛ちゃん、貸して」
 樹子の声がする。
「樹子、わりいな!」

 言って、朔也が視線を津麦に戻す。目の下のクマが、どんより暗い。心底疲れたという様子で、朔也は台所横の壁に手をつき、口を開く。
「はぁ。本当にいいんですけどねぇ。うちは、もともと家事代行なんて、そんな贅沢なもの、頼む気はなかったんですよ。俺一人でできるから。妻が入院中でもやってましたから!でも、役所の人が入れろっていうんだよ。だから、仕方なく週1で頼んでるんです」

 一人でできてないでしょう。こんな部屋に住んでいてよくそんなこと言えますね、とはお客様相手に言えない。この状態で、この人は満足しているのだろうか。津麦には理解ができなかった。

「前回の訪問時、何か不手際やお気に触ることありましたでしょうか?」
「いや、問題ない。飯はうまかった。子どもたちも、こんなおいしいもの初めて食べた!なんて言ってた。妻が入院して以来、ずっと俺が作ったチャーハンばっかり食べてたからな。けど、」
 朔也はチラリと台所の方を見た。

「何かありましたか?」
「いや、なんでもない」
「遠慮せずにおっしゃってください」
「いいんだ。とにかく、今日は帰ってくれ。これから飯に、風呂に、寝かしつけに、一日で一番忙しい時間なんだ」

 津麦はポカンとしている間に、鞄を押しつけられ、玄関の外に追いやられていた。


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