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クリームイエローの海と春キャベツのある家(4/4章)/小説 #創作大賞2023

◆前回のお話
はじめから読む方はこちら。
ひとつ前から読む方はこちら。

9.

 それから何度目かの水曜日。雨の続く季節になっていた。
 ここのところ、朔也は津麦が約束の18時まで家にいることを許してくれるようになっている。以前、知らない人が家にいるのが落ち着かないと言っていたから、「知らない人が家にいる」感覚から、「いつものカジダイさんがいる」に変化してきたのかもしれないな、と津麦は思う。
 子供たちも少しずつ、津麦と話すようになった。樹子の事件があって以来、姉弟の間でも会話が増えたらしく、それに津麦がまぜてもらうような形だ。他愛もない学校や保育園のはなしで、笑い合う。

 けれど、週に1度2時間だけの家事では、家の中に目に見える形での変化は、ほとんど現れなかった。相変わらずリビングにはクリームイエローの海が横たわり、シンクでは泥のような水が溢れ出しそうになっている。
 安富さんは、「こればかりは、ご家族がやると決めなければできないものですよ。いくらこちらがおすすめしても、本人の強いやる気と動機がないと。片付けも進まなければ、これまでの習慣を変えていくことだってできません」と言ってたし、待つしかないと思っている。



 その日、昼過ぎから降り出した雨は、夕方には土砂降りの雨に変わった。ピンポン玉のように大きな雨粒が窓に叩きつけられているさまを見て、津麦は「電車が遅れるかもしれない」と30分早く家を出て織野家に向かった。けれど、電車は遅れておらず、歩く道も心配したほど時間はかからなかった。約束の時間に遅れずにすんだことにほっとする。少し早いけれど、喫茶店など何もない駅に引き返す気にもならない。かと言って、マンションのエントランスに長時間いると、住人に不審者だと通報されてしまうかもしれない。仕方がないので、傘を差し、マンションの駐車場で開始時間が来るのを待つことにした。

[お客様の家には、早く伺っても遅く伺ってもダメ。お約束した時間の5分前に、インターフォンを鳴らしましょう]

 家事代行の研修で、一番最初に習った、訪問時の注意事項だ。津麦はいつなんどきもこれを厳守している。だから大雨だろうと、いつも通り5分前になるまではここでじっと待つ。

 雨粒がバチバチと傘を打つ。
 傘の中、津麦は濡れないようにと、できる限り身を縮めた。ずぶ濡れになって、織野家の床(というか洗濯物)を濡らしてしまっては大変だ。

 その時、
「カジダイさん?」
 ぎゅっと身を固くして持っていた傘の下から、いきなり朔也の顔が覗き込んできた。驚いた。大雨で、近づいてくる足音が全く聞こえなかった。心臓がドキドキする。朔也は、眉間に皺を寄せながら、雨に負けじと大きな声を出した。

「何やってんすか。さっさと、家ん中入りなよ。こんな雨なのに、濡れちゃいますよ」
 初めて電話した時に聞いた朔也と同じ、怒鳴るような声だ。優しい言葉をかける時でも、この人はこんな風に声を出すのだな、とおかしくなる。

「いえ、でも。まだ約束のお時間より早いですから。そんなに早くお客様の家に、伺うわけにはいきません」
 注意事項を思い出し、緩みそうになった顔を引きしめて津麦は言う。

「くそ真面目っすね。いいんだよ。もう何回来てくれてるんだよ。自分の家だと思ってくれたって全然かまわない。家事はお願いするけどさ、もう子供らだってそう思ってるよ。あいつらが、呼んでこいってうるさいんだ」
 5人の子供たちの顔が、頭に浮かぶ。そう言われては津麦は弱い。あんなにいろいろ抱えている子供たちに、これ以上余計な心配ごとは、たとえ米粒ほどの小さなことでも増やしたくはない。しぶしぶ、朔也についてマンションの中に入った。

「お邪魔いたします」
 誰かに連れられてお客様の家に入るのは初めてだったから、どうにもいつものように仕事のスイッチが入らない。
「だから、堅苦しいって言ってんでしょ。樹子ー!慶吾ー!カジダイさん連れてきたぞー!」

 樹子と慶吾がタオルを持って、パタパタと走ってくる。
「津麦さん!もう!なんであんなところにいたの?早く入ってきなよ!濡れたら風邪ひいちゃうじゃん」
 樹子は頬を膨らませ、慶吾は前髪の間から見え隠れする眉をハの字に下げて津麦を見る。真子と保育園組の帰宅はまだのようだ。

「ごめんね。樹子ちゃん達がきづいてくれたんだね。パパは、今日は仕事は?」
「なんか、大雨だから仕事にならないとか言って。早く終わったみたいだよ」
「そっか」

 リビングには、雨のせいで洗濯ものの海だけでなく森まで生まれていた。物干しが乱立し、乾いた洗濯ものの層と濡れた洗濯ものが混じり合い、異様な臭気を放っていた。津麦は入った瞬間、思わず顔をしかめる。
 見ると、干してある洗濯ものの中で特に大きく、目を引くものがあった。今日もシーツが干されている。確か前回見学した時にも干されていた。そのシーツの乾き具合を確かめるように触れながら、朔也が言った。

「また、昌はおねしょしちゃって。夜尿症やにょうしょうっていうらしくて。5歳になっても、おねしょが続くの。やっぱり、母親が死んだストレスもあるのかな」

 ポロッとこぼれ落ちてしまったような言葉だった。いつも怒ったように話す朔也のこんな弱々しい声を、はじめて聞いたと思った。津麦はなんと答えたら良いか、聞かなかったふりをした方がいいのか、とっさに分からなかった。こういうところを掬いたいと思っていたのに。
 けれど、夜尿症なんて言葉自体、初めて聞いた。対策やアドバイスめいた何かなんて、やっぱりどうしたって、自分からは出てこない。
 いや、落ち着こう。
 まだ、今日は来たばかりだ。
 津麦にとって、台所はお風呂の次に、いい考えが閃く場所。台所に立って、いつものルーティンを始めれば、何か思いつくかもしれない。呼吸を整え、エプロンをしめ、頭に三角巾を巻いて、台所へ向かう。

「では。本日もよろしくお願いいたします。今日も、台所まわりの片付けと、片付けが終わり次第、夕食の調理に入らせて頂きます」
「はいはい、律儀だねぇ。よろしくお願いしますよ」
 朔也は、先ほどの弱気な雰囲気はどこへやら。裾の濡れたニッカポッカのポケットに片手を突っ込み、からかうようにニヤリと笑った。


 初めて来たときには、目を逸らしたくなるようなひどい台所だと思った。けれど、今ではここに立つと、不思議と先ほどまでさざ波だっていた心はいったん鎮まって、さあ今日も仕事だとスイッチが入る。

 今日もなかなかに片付け甲斐がある。けれど、回数を重ねるうちに、効率よく片づけられるようになってきた。まずは、台所と関係のないものを運び出す。おもちゃとか筆記用具とかハガキとかレシートとか。それから、水切りかごにふせてあるものは拭いて食器棚へ、出しっぱなしの調理器具も所定の場所へとしまう。
 ふと、麦茶パックの入っている空き瓶に目がとまった。前回来た時、台所中にバラバラに散乱していた麦茶のパックを、手ごろな空き瓶に入れておいたのだけど、今日までそのまま残っていた。その後も、この瓶から出し入れしてくれているようだ。小さなことだが、そういう前に自分が来た時の痕跡みたいなものが残っていると、この家にも家族にも受け入れられてきていることを実感する。嬉しくなる。この台所に親しみさえ、感じ始めている。一週間頑張って、6人を支えてた?と声をかけたくなる。

 排水溝のゴミを捨て、シンクに残るコップや器を洗い始めたところで、朔也が近づいてきた。津麦は身構える。「やっぱり今日は俺がいるので、もう帰っても良いですよ」と言われるのではないか。初めて顔を合わせた日の悪夢が、頭を掠めた。

「今日は、その…俺が、見学してもいいですか?」
 朔也がおずおずと聞く。
「保育園の迎えは、車で行くので。まだ時間もあるんで」
「え、えぇ?」
 意外な申し出に、津麦は言葉が続かなかった。
「出来ることは、俺もやります。隣で皿拭いたり、棚にしまったりとか。他にもなんかあったら言ってください」
「あ、ありがとうございます」

 いつもの朔也らしくなくて、調子が狂ってしまう。そして、背が高いから、隣に立たれると、威圧感がすごい。どういう風の吹き回し…そうか、だから今日は大雨が…なんて1人で考えていると、津麦が洗った皿の水滴を布巾で拭きながら、朔也は言った。

「この間のあれ、正直参りました」
 その体格からは想像できないほど、弱気な声に戻っている。
「あれ?」
 津麦は、白いカップを洗う手を止めて、朔也を見た。朔也の視線は、皿に集中したままだ。

「樹子の。あんなに思い詰めてたなんて、全然気づいてなくて。カジダイさんにも迷惑かけてすんません」

 あぁ。今日、見学したいというのは口実で、樹子の暴れた日のことが本当は話したかったのか。

「いいえ、結局私は何もしていません」
「でも怪我したって」
「かすり傷です。最後は真子ちゃん、樹子ちゃん、慶吾くんの3人で話をして、解決していましたよ」
「そうなんですか」
「聞いてませんか」
「えぇ。もう大丈夫だから、の一点張りで。3人とも。いつも、俺には何も話してくれないんですよ」
 朔也は苦しそうに笑った。

「樹子が暴れたことも。真子が夜遅く帰ってくる日があることも。慶吾が俺に気を使うことも。凛のトイレトレーニングが進まないことも。昌のおねしょのことも。子育て、うまくいかないことが多すぎて。何から進めたらいいのやら。俺、寝たら大抵のことは忘れるんですが、そういうわけにもいかなくて」

 津麦に聞いてほしいというより、もう自分の胃の中には留めておけなかったものを、衝動的に吐き出してしまったような言い方だった。朔也はいつまでも津麦を見ない。
 そんな朔也を見て、津麦は似ていると思った。悩みは違うけれど、織野家を追い出されて、朔也に痛いところを指摘されて、ぐるぐると考え込んでいた自分と朔也の姿が重なって見えた。あの時自分はどうやって、その迷路から出てきたんだっけ。ザーンザーンと響く波音が、蘇ってくる。

「あ」
 津麦はその時、唐突にわかった。
 あの日安富さんと、海辺で無茶な待ち合わせをしたかった理由を。私は誰かに、見つけてほしかったんだ。もう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも自分のことがわからなくなりそうだったのを、誰かに必死になって探してほしかったんだなあ。

「海に…行ってみたらどうですか」
 津麦は、ポツンと言っていた。

「私もこの間、どうしようもなく考えがまとまらないって時があって、海に行ったんです。そしたら、いろいろ、うーん。なんだろ。なんていうか…見つけた!って、気がしました」

 なんだよそれ、と朔也は笑う。笑うと一瞬、目の下のクマが見えなくなって、目尻にギュッと皺がよる。

「まあでも…確かに。わりと近いけどなかなか行ってなかったな。海。家と仕事場の往復ばっかで」

 リビングでテレビを見ている樹子と慶吾を見ながら、呟くように言う。
「行ってみようかなあ、海」

 そして、津麦に問う。
「そしたら、カジダイさんも一緒に行ってくれます?」
「えぇ?!いや、でも、それは……出来かねます。家事代行の仕事ではありません」

 行きたくないわけじゃない。どちらかと言うと行きたい。いや、本当はすごく行きたい。自分だって、安富さんがいなければ見つけられなかったから。誰か話を聞ける人が必要だと思う。けれど、仕事という口実がないまま突き進むのは、今の津麦には難しい。

「はは。やっぱ真面目だな。うーん、どうしようかな。行くって決めたって、自分と家族だけだといつもの休みみたいに寝ちゃって、起きられない気がするんすよね。誰かと約束してれば、起きられそうなんだけど…」

 朔也は、しばらく考えてから言った。
「じゃあ、海岸公園でチビ達の子守りをお願いする、ということでどうでしょ。ちゃんと正式にお仕事として、依頼します」

 朔也が、別の日にも家事代行の依頼をしてくれる。思ってもみなかった提案に、津麦の気持ちは上を向いた。
「わが社は育児支援にも、力を入れています。保護者同伴で公園でのお子様の保育は、家事代行のメニューにあります。私もご一緒可能ですっ!」
 津麦は、張り切って答えた。


10.

 夏の訪れを感じさせるよく晴れた日曜日。朝から織野家のベルを鳴らすと、子ども達が賑やかに出迎えてくれた。

「いらっしゃい〜」
 笑顔でドアを開けてくれたのは、樹子だ。

「わぁい、ちゅむぎしゃん〜、だっこぉ」
 樹子の足元から飛び出してきて、両腕を差し出しているのは、凛。

「凛。津麦さんは今からお仕事だから、あとで海の公園行った時に遊んでもらいなよ?」
 凛を後ろから諌めているのは、真子。

「つむぎ、おはよ」
 女子達の奥で控えめに立っていたのは昌。いつの間にやら呼び捨てになっている。

「津麦さん、今日は晴れて良かったですね。よろしくお願いします」
 慶吾は、今日も実に丁寧。
 朔也はまだ寝ているようだ。結局、津麦が来たからと言って、早起きできるほど、浅い疲れではない。

「樹子ちゃん、凛ちゃん、真子ちゃん、昌くん、慶吾くん、おはよう!みんな今日はよろしくお願いします」
 津麦はにっこり微笑んだ。

 エプロンをしめ、買ってきた食材を、台所の床に置く。
 一昨日、朔也から電話があった。朔也は電話がかかってくるのは嫌だが、自分からかけるのは良いらしい。自分勝手だよなぁ、と思いつつそういう細かな好みにも慣れつつあった。今ちょうど、施工が大詰めで買い物に行く暇がないと言う。
 スーパーでの買い出しも、立派な家事代行のメニューである。津麦は買い出しを快く引き受けた。買い物の内容を確認し合ってから、電話を置く。
 はじめの頃は、全部汲み取れ!と言っていた朔也だが、最近は少しずつ、相談したり、作業のすり合わせもしてくれるようになっていた。津麦が朔也の好みに慣れてきたように、朔也の方も津麦の考えを徐々に認めてくれてきているようだ。

 今日の家事代行メニューは、
 買い出し。
 台所片付け。
 昼食のお弁当作り。
 それらが終わり次第、夕日ヶ浜海岸公園にお弁当を持って行って保育、となる。

 片付けが終わると、買ってきた食パン3斤と大きなキャベツなどを、カウンターに置いた。ドンっと大きな音がする。材料だけでもすごい量だ。作る方の気合いも入る。子供たちは、時々カウンター越しに台所を眺めつつ、水着を探したり、タオルを荷物に詰めたりして楽しそうに出掛ける準備をしている。
 お弁当のメニューは考えておいた。

キャベツたっぷりサンドイッチ
(ツナサンド、ハムサンド、卵サンド)

 キャベツはもう春キャベツではなく、パリッとかための葉に変わっている。春の間にどれだけたくさん使ったとしても、季節の食材が終わってしまうのは、少し寂しい。家事では来るたびに同じことを繰り返すけれど、季節は確実に移ろって行く。

 ただ、柔らかすぎるよりこれくらいのかたさの方がスライスはしやすい。台所にシャッシャと小気味よい音が響く。ボウル一杯の千切りキャベツを作る。塩をかけたら、少し置く。
 その間に、ツナとハムと卵を準備する。小さな子がいるから、マスタードはやめておこう。味付けはマヨネーズと少しのお酢、そして塩胡椒。夏のお弁当だから、お酢は殺菌のために欠かせない。キャベツはギュッと水気を搾って、同じように味付けをする。
 食パンは、軽くトースターで焦げ目をつけておく。その間にゆで卵をペーストにする。

 テレビで見るような見た目にもインパクトのある分厚いサンドイッチがいい!という樹子のために、たっぷりの具材をのせてラップで巻き、少し馴染ませてからラップの上から切る。
 昌と凛の分は、もう少し食べやすい薄さと大きさに。
 そんな6人家族に合わせた気遣いが、いつの間にか少しできるようになっている。朔也の汲み取れ!がなくなってきた一方で、こうやっていつの間にか6人を思いやれるようになってきたのは不思議なものだ。

 夏の海に行くのだから、クーラーボックスや保冷剤を戸棚の上の方から出して、準備しておいた。年季の入ったクーラーボックスに、平仮名で書かれた「おりの」という文字を見つける。指先でなぞりながら、家族の過去に思いを馳せる。昔、奥さんが生きていた頃、皆でピクニックに行くときに使ったのかもしれない。お弁当や冷たい飲み物を詰めて、海に、山に、川にだって行ったのかもしれない。大事に使おう、と思う。


 津麦は朔也と、夕日ヶ浜海岸の浜辺に、膝をかかえて座っていた。すぐそばの波打ち際で、慶吾と昌と凛が遊んでいる。太陽は高く、砂浜に短い影を作っている。

 昌ははじめ、打ち寄せる波が怖くて半べそをかいていた。けれど、海は初めての凛が座り込んで波とキャッキャと戯れているのに刺激されたのか、慶吾が優しく手を取ってくれたからか、津麦にカッコ悪いところは見せられないと思ったからか、一緒に遊び始めた。
 そして、はじめこそ珍しく津麦がいて、いくらでも遊んでくれるというのだから、「つむぎつむぎ」と呼んで皆で一緒に遊んでいたが、途中から子ども同士でしか分からないごっこ遊びをはじめた。結局は子ども同志の方が楽しそうに遊ぶのだった。そりゃあそうか。この子達は毎日毎日、朝も夕も、大人にはほとんど構ってもらえない中で、子供たち同士で工夫して遊び、成長しているのだから。

 津麦は、少し離れたところから見守ることにする。朔也はその隣に腰を下ろす。前に来たときは淡かった海の上の空は、濃い青へ変わっていた。空に散らばるわたのような雲は、夏の日差しにも負けぬほど、陰影も輪郭も力強い。真子は樹子に、腰ほどの深さの浅瀬でクロールの仕方を教えていた。

「可愛いですね。子供たち」
「可愛いでしょう?俺の子ですから」
 朔也がニンマリと誇らしげに笑ってみせる。初めて会った時も思ったけれど、この根拠のない自信みたいなものはどこから湧いてくるのだろう。少しだけ、その自信を針でつついてみたくなる。

「こんな可愛い子たちを置いて、死んじゃったりしたら絶対ダメですからね」
「えぇ?死にませんよ。死にそうに見えますか?」
「うーん。奥さんの後を追ったりはしないと思いますけど。でも、慶吾くんが心配していました。パパもママみたいに、死んじゃうんじゃ無いかって」

「慶吾は心配性なんですよ」
「目の下にこーーんな濃いクマ作ってたら、誰だって心配になりますよ。忙し過ぎ。家事のやり過ぎ。です」
 津麦は、人差し指で、両目の周りに円を描く仕草をする。くるくるくるくる。朔也は頬杖をついて、津麦の様子を面白くなさそうに見て言う。

「家事のプロから見ても、俺って、家事のしすぎだと思います?」
「家事のプロって私のことですか?」
「そりゃあ。他に誰がいるんだよ」
 朔也は呆れている。朔也の口から、家事のプロという言葉が聞けて、津麦の心は浮かれた。織野家を追い出されたあの日から、自分にはその資格はないと思っていたのだから。

「家事のし過ぎかって聞きました?」
「うん」
「本当のこと言ってもいいですか?」
「うん」
「し過ぎです。べらぼうに」

 見学した夜の、朔也の動きは脳裏に焼きついている。あんな忙しく走り回っていて、し過ぎでなければ、何をし過ぎだと言うのだろう。

 朔也は細めていた目を一瞬見開き、そして言った。
「そっかぁあ。良かったぁ…」
 心底ほっとしたという様子だ。

「正直、まだまだ足りてないんじゃないかって思ってたんですよ。俺。部屋だってあんなだし。料理だって、決まったものしか作れないし。子ども達のことだって…」

 朔也の言葉を聞いて、あぁ、と津麦は思う。
 家事代行をはじめた時、家事なんて世の中の多くの人ができていると思っていた。けれど、それがまずもって、思い込みだったのかもしれない。
 本当はできてる人なんて、そんなに多くないんじゃないか。限られた時間の中で、 床にはゴミが落ちていなくて、洗濯機を回して干して畳んで箪笥にしまって、一汁三菜の料理を出して、子供たちと風呂場で今日あったことを話して。そんなこと1つ1つを全部きちんとできる人の方が、本当は少ないんじゃないのか。家庭って、普段、壁に囲われて、外からは見えないものだから。勝手にみんな、他の家はできていると思い込んでいるだけで。
 外からはきちんと生活してるように見えたって、内に入ってみたら、実は目を疑うような光景が広がってるのかもしれない。織野家みたいに。いつも乗っている電車から見える、あの家もあの家も。本当は家事が回らなくて、外には聞こえない悲鳴をあげているのかもしれない。
 開けてみないと分からない。それならもう、他人の家の中を想像して、こうだろうっていう幻想に振り回されるのはよそう。

「あれだけ動いてて、し過ぎじゃなかったら、どうなっちゃうんですか。他人の家の様子と比べる必要なんてないですよ。隣の家の中でさえ、本当は誰にも分からないんですから」

「んーー、でも。自分の家でもさ。
 もし死んだのが俺で、生きていたのが妻だとしたら、もっとちゃんと出来てたんじゃないかって、考えちゃうんですよね。部屋は綺麗で、料理は美味しくて、子ども達にはなんの問題もなくて」

 津麦は、朔也の顔をまじまじと見た。視線が、目の下のクマに吸い寄せられる。この人は、自信満々そうなふりを演じながら、裏ではそんな風に考えていたのか。死んでしまった奥さんに少しでも劣らないように、毎日をあんな必死に過ごしていたのか。

 朔也のまわりに漂う靄を振り払うように、津麦はきっぱりと言う。
「奥さんはすごかった」
 津麦は、一つ頷く。
「もう、それでいいじゃないですか。すごかったと認めて、それで、また明日は自分なりに生きていけばいいと思う。生きているのはあなたです。奥さんじゃない。あの家で、暮らして行くのもあなた。子供たちと一緒に、これからの人生を歩んでいくのもあなたです。
 ちゃんとしてる妻。きちんとしてる母。そういう先人の姿を追いかけて、溺れかけるのはやめませんか」

 朔也は、そうか、先人か…と呟き、ハハハと乾いた声で笑った。そうして目を細める。

「こないだの雨の日の話の続きだけど…俺が振り回されてるのって、本当は子供たちじゃなくて、妻。というか、妻が生きてた頃ちゃんとやってくれていた家事なのかもしれないです。
 子供たちが遊んでいる顔、今日久しぶりに見ました。毎日、朝も夕方も、見てたはずなんですけど、記憶に残ってなくて。そのくらい家事に振り回されてたんだなぁって、ここに来て気づきましたよ。余裕なかったんだなって」
 朔也は、小さなため息をつく。

「そう…ですね」
「家事かぁ。家事、かじ」
 朔也は、放り投げた言葉をいろんな角度から見回すように、上を見上げたり、首を傾けたりしながら呟いた。

「家事ってほんと、なんなんすかね。永遠に、前にも後ろにも進まないで。犬が自分の尻尾を追いかけてるみたいに、同じところをくるくるくるくる回ってる感じなんですよね。
 片付けても、数分で汚されて。また片付けて、汚されて。この片付けた時間はいったい何の意味があったんだろうって。
 料理だってそうですよ。作っても、作っても、すぐに子供らの腹は減る。食べてる最中から次の食事は何にしようか、って考えなきゃいけない」

 津麦は思う。大工という仕事とは正反対なのが、家事なのかもしれない。彼が作る建物は、一つ一つの成果が目に見えるし、何十年も残り続けるものだ。そんな人が、家事をそう感じるのも無理はないのかもしれない。

 けれど、と津麦は思う。
 すぐそばで、静かに打ち寄せる波のいく末に目を向ける。凛にせがまれて、慶吾と昌が砂浜に木の枝で絵を描いてやっている。波が来ては引いていくたびに、その絵はなだらかになり、やがて消えていく。その穏やかなさまが好きだと思う。

「私はたぶん好きです、家事」
 引いていく波は家事に似ている。繰り返しやってきては、寄せた時に撒き散らした砂や、砂浜に描いたでこぼこを、そのたびに鏡の様に滑らかに引いて、消し去る波。

「へえ。たぶん、なんだ」
「私もしばらく、先人の姿を追いかけて溺れてましたから。なんか分からなくなっていました。自分は本当は何が好きなのか、とか」
「ふーん」
 そのまま、朔也はぼんやりと海を見つめた。


「パパ―、津麦さんー!お腹すいたーーー!」
 真子と樹子が、裸足で砂浜を駆けてくる。
「お弁当にしましょうか」
「わぁい!!おべんとー!!」
 凛もおぼつかない足取りで、砂浜をとてとてと走り出した。その後ろを、慌てて昌と慶吾が追いかける。

 海岸公園で日陰を探すと、大きな木の陰を見つけた。7人が座ってもすっぽり覆われるくらいの陰。ひんやりと涼しい。そこにシートを敷き、津麦が作ったサンドイッチ弁当を広げる。
「わぁー!おはなばたけみたい!!」
 広げたお弁当を見て、凛が手を叩く。
 ハム、キャベツ、卵、キャベツ、ツナ、キャベツ、ハム…なるほど。ハムのピンクと、キャベツの緑、卵の黄色が花のように色合いがいい。

「おいしいねえ」
 小さなハムサンドを抱えて、幸せそうに凛が言う。こんなに小さいのに、食べる時の仕草はおばあちゃんみたいに和やかで笑ってしまう。

「僕はふわふわたまご~」と手を伸ばすのは昌。
「はい、どうぞ」と取ってあげるのは、慶吾。
「このパンのかりっとしたとこが好き」と一口かじって、評論家みたいなことを言う真子。
「うにゃー、おいしいーー!津麦さん、天才っ!」と騒ぐのは樹子。
「天才は言い過ぎだよ」津麦は照れる。
「じゃあ、プロみたいー!」
「まあ、プロっちゃプロだねえ。料理人ではないけど。家事のね」
「ああ、そうだった!!!」
 言って、皆で笑い合う。

「どれどれ」
 朔也がツナサンドに、手を伸ばす。
「ああ、うまい。やっぱりキャベツがうまいんだなあ」
 朔也はしみじみと言う。
 キャベツをこれでもかというほどギュッと詰めた甲斐があった。

 そうか。そうだ、こういうとこ。こういうところが好きなんだ。

「分かりました」
「何が?」
「たとえば、サンドイッチに好きなだけ好物のキャベツを詰め込んで、それをふうっと一息つきながら食べる。みたいな感じで。家事すると、生きやすくなると思うんですよね」

 生きやすさと言っていたのは、安富さんだったろうか。今やっとその言葉の意味が、津麦にもわかった気がする。

「へえ。生きやすいときましたか」
「私も前に人から言われた時は、ピンとこなくて。でも少し分かりました。生きづらい時代とかって言われるけど、外の世界は、自分の力ではそう簡単に変えていけないじゃないですか。
 けど、自分の家の中だけは、自分が生きやすいように、好きにすることができるんですよ。住みやすく、過ごしやすく、眠りやすく、どんな風にもできる。その手段が、家事だよなって思うんです」
「ふん」
 朔也は、分かったとも分からんとも言えない返事をする。

 子ども達は、大人とちょっとだけ距離をとり、自分たちだけで昼食の後の遊びについてあれこれ話をしている。真子と慶吾が気を遣ってくれているのだろう、と頭の端の方で思い、津麦は感謝する。
「家の中だけって言いましたけど、家事した自分の家の一部を、カバンに入れたり、お弁当に詰めたり。そうやって持ち歩くことだってできます。そしたら、外でも少し息をつくことができますよね。
 そんな風に、ふうっと息をつけるものを家で自分なりにつくることが家事だと思うし、そういうところを作ったり整えたりするのが、好きです。私は」

「なるほどねえ」
「でも、あくまで自分が生きやすいように、ですよ。
 家で、ただ眠れたらいい人もいますし、
 食事だけはきちんととりたい人もいます。
 塵1つとして、許せない人だっています。
 毎日、キャベツをたっぷり食べたい人もいます。
 どこかの家や、先人の家と、
 自分の生きやすい家を比べる必要なんてないんですよ」

「そうか。まぁでも、俺一人だけの家じゃないし。家族がね。俺は良くても、きっと、毎朝毎朝、靴下の片割れを探して回るような生活はやっぱりちょっと…生きにくいですよね。家族みんながふうっと息がつける家にしたいんですけどね」
 朔也は、ちょっと悲しそうに言う。

「けど、どうやったって、俺に全部はできない。今まで、できないなんて、絶対言ってやるものかと思ってたけど。できないはずはないって、言い聞かせてやってきたけど。妻にも約束したけど。
 でももう、無視できないとこまできちゃったんだ。
 どうやったって、こぼれて行ってしまうんです」

「そうですよね…」
 初めて会った時に、全部できますから!と言われたことを思い出す。一瞬、クリームイエローの海が津麦の前に現れた気がした。

「だから、それをすくうのが私たちの仕事です。
 生きやすくなるようにする。そのための家事のはずなのに、家事をやって、もしくはやらなきゃって思って、逆に苦しくなっちゃったら、ダメなんですよ。
 こーんなに、クマを作っちゃうのもダメです。
 うん。そうだ。
 だから、そういう時は、誰かに頼らないと。
 周りに誰もいないと思っても、家事代行はココにいますからね」

 津麦は言った。瞳は波間の光を取り込んでキラキラと輝いていた。その視線の先を、サンドイッチでお腹を満たした子供たちがキャーッと声をあげ、駆けていった。


11.

 津麦は、窓という窓を、目いっぱい開けた。
 いつか、と思っていた日がやってきた。掃除日和に、カラリと晴れ、気持ちの良い風が吹いている。やるぞと決めてくれたこと、それが何よりも嬉しくて、外の空気を吸い込んで津麦の胸は膨らむ。

「まずは、大きな持ち手つきのカゴを、7つ用意して下さい。プラスチック製で重ねられるものがいいです。あとメッシュで、外から中が見えるとなお良しです」

 織野家に着くと、事前に伝えておいた通り、真っ白な四角いメッシュの洗濯カゴが7つ用意されていた。


 この日が来るずっと前から、津麦は社内の研修を受けたり、整理整頓術の本を読んだりして、備えていた。生まれてからずっと母によって整えられた環境で育った自分には、整理整頓のスキルが足りない。その自覚はあった。でも織野家を片づけるなら、一番織野家のことを知る自分が、という思いは強かった。だから、必死に勉強した。
 安富さんが朔也から「家を片付けたいんです」と電話を受けた時「整理整頓のプロの者を派遣しますか?」と聞いたみたいだけど、津麦で、という指名があった。そのことを後から聞いて、津麦はほっとし、やる気をより一層高めていた。
 とはいえ、パリパリの真っさらきれいな家にする気はない。あの家族6人にはそれは合わない。どうしたら、少しでも生きやすい家になるだろうかと、あれこれ頭をひねって考えた。

「7つのカゴは、家族6人それぞれの洗濯ものを入れる分と、タオルなど共用のものを入れる分です。これからは、洗濯を取り込んだ時、もしくはハンガーから外すタイミングで、洗濯ものは全部このカゴに”人ごとに分けて”入れてください。分かりやすいように、各自自分のカゴには名前を書いてください。シールなど貼ってもいいですよ」

 習慣づけには、低い目標からはじめて行くのが基本だと学んだ。だから、今までと同じ動作プラスαくらいで簡単に作業できるところから始める。今までは洗濯物は床に縦に落とすだけだったから、その動作のまま、人別に仕分けするところまで。横向きに入れる収納に変えたり、取り込んですぐ畳んだり、そんなに一気に難しくはしない。でないと、ただでさえ時間のない毎日のことだ。すぐに元の海に戻ってしまうだろう。

 それぞれがカゴに自分の名前を書いて行く。昌は、鏡文字で「まさ」と書いた後、戦隊ものの大きなシールを貼る。凛は朔也に「りん」と書いてもらった周りにキラキラとしたシールをたくさん貼り付けている。慶吾と樹子は流行りのゆるキャラのシールを「そのシール可愛いね」「交換する?」と話し合いながら、貼っていた。朔也は、「パパ」という文字をいかに極太にできるかひたすらマジックペンを動かしている。真子は細く「マコ」とだけ書き、いたってシンプル。

「カゴに名前が書けたら、この床を覆っている洗濯ものを、さっそくカゴに分けて入れて行っちゃいましょう」

 皆でやれば、仕分けはどんどん進む。床が少しずつ見えていくのが嬉しい。

 途中でちょっとした事件が起きた。「このパンツは樹子のか真子のかどっちだ?」と、黒にピンクの縁取りがされたパンツをヒラつかせて、朔也が言ったのだ。デリカシーのカケラも無くて、呆れる。樹子と真子は、キャーと叫び、大いに怒った。
「なんだよ。これまで、毎日その辺に落ちてたやつじゃないか」
 朔也は言ったけれど、まあこれが正常な反応だ。これまでその反応も鈍ってしまうほど、洗濯が溢れてしまっていただけで。
 けれど、樹子と真子は背格好が似てきているので、服も下着も、本人じゃないと見分けがつかないものが多い。
「名前書く?」
「えー、パンツに名前ー?ダサいー、ハズいー」
「でも、そしたら毎回樹子のパンツだけ、リビングに置き去りになっちゃうかもよ」
「それはヤダ!そっちの方がヤダ!」
「じゃあ、書こう」
 そう言って2人は、パンツと、パンツだけじゃなくて全部の服に名前を書いた。今日も子供たちで解決している。やはり織野家の子供たちは、たくましいと思う。朔也は子供たちは、問題だらけだと心配していたけれど、それもきっと少しずつ解決していくに違いない、と津麦は思う。

「カゴ7つを平置きに並べておくと、洗濯ものを入れる時は便利なんですが、すごくスペースをとります。掃除の時、床で遊ぶ時などは重ねて置くといいです」
 そう言って、カゴを3つと4つに重ねて見せる。広くなった床を見て、6人は「おぉ」と歓声をあげた。

 洗濯ものの下からは、あらゆるものが出てきた。ゴミとまだ使うものに分ける。たとえば、ボールペンや薬やクリップはまだ使う。袋の切れ端などはゴミへ。
 ぜんぶ拾えたら、掃除機がけ。ゆっくり念入りに2周かける。ほこりも、塵もなくなって、ずいぶんスッキリとした。窓から入る風に乗って、澄んだ空気が部屋の中を通り抜ける。こうやって大掃除すると、心の中まで掃除されたみたいに気分もスッキリするのだから、不思議だ。

「真子ちゃん、樹子ちゃん、慶吾くん」3人に向かって言う。
「もし余裕があれば、学校から帰ってきたら、自分のカゴは自分の部屋へ持っていって、服を部屋に収納できるといいね。吊るしたり、見やすく畳んで入れて置いたり。お店みたいにディスプレイしてみるのもいいかも。そうしたら朝、洋服を選ぶのが、きっと楽しくなりますよ」

「つむぎ!僕も、保育園でお洋服のたたみ方習ったから。自分の分はしまえるよ。保育園でもやってるし」
 昌が口をはさんだ。津麦は驚きながら、ふふ、と微笑んだ。
「そうですか!それは失礼いたしました。では、昌くんもよろしくお願いしますね」
 それから、腕を組んで様子を眺めていた朔也の顔を見る。

「子どもに子どものお世話をさせるのはダメでも、自分のものを自分で片づけるのはいいですよね。保育園でもやっているようですし」
「…まあ。はい」
 朔也は素直に頷いた。


 昨日までとまるで違う部屋のように、広々とした部屋で、今日は皆で晩御飯を作る。

ニラとキャベツたっぷり野菜餃子

 この間、戸棚の中でクーラーボックスを見つけた時、隣にあったホットプレートを見て思いついた。せっかくだから、部屋がこんなに広くないとできないことをやってみたかった。

 キャベツを1玉まるまる使って、100個の餃子を作る。
 キャベツとニラは少し大きめのみじん切りに。塩を振って、水気をしぼる。そこに、豚ひき肉と調味料を加える。小さい子供たちのために、ニンニクと生姜は少なめに。手早く捏ねて、餡は全員で包む。
 凛と昌はぺったんこと半分に折って、折り紙のように楽しんでいる。真子と慶吾はセンスがいい。親指を上手に使い、ヒダを器用につけて、形良い餃子を作っている。朔也も手先が器用だ。物を作る人の手だなぁと思う。真子と慶吾は朔也に似たのかもしれない。樹子は少し慣れるのが遅く、よく餡がはみ出していたのだけれど、「のせる量はこれくらい。ちょっと少な目で。あと左端からギュッと押しながらヒダを付けていくとこんな感じでできるよ」と見せてあげると、次からは上手に包めて嬉しそうに笑った。

 餃子のレシピは、津麦の母のレシピを少しだけアレンジしたものだった。特別なものは何もない。それでも、餃子の味は実は家の数だけあるのではないか、と最近津麦は思う。母を手伝って餃子を包む姿を思い出すとき、記憶の中の津麦はもう大きかったし、家族3人分では、こんなふうにワイワイとした雰囲気にはならなかった。夕方、西日の差し込むリビングで、黙々と母と餃子を包んでいた。けれど、それでも餃子を包むのは好きだったなと思う。淡々と包む作業そのものも好きだったし、何より、母の餃子が大好物だった。美味しい餃子を少しでも早く食べたかった。黙って待っているより、手を動かしたかった。そんな風に自分から進んでやったからか、餃子を包んでいる時は、母は「きちんとしなさい」と津麦に言ったことはなかった。焼けた餃子はパリッと羽根がついていて、野菜のうまみと肉のジューシーさのバランスが絶妙で。いくつでも食べられると、年頃の津麦は困ったほどだった。
 餃子のヒダを整えながら、ふと思う。母に伝えてもいいのかな。家事代行をやっていると。初めはうちの家の常識が通じなくて、暗闇を灯りを持たずに進むようで怖かった、と。それでも、私なりにその家の人達と向き合ってみたと。そこで、母に習ったレシピで皆で餃子を作ったよ、自分なりにアレンジしてね、と。母はどんな顔をするだろう。笑うのか、泣くのか、怒るのか。津麦には、まだその顔は見えない。

 100個の餃子は、食卓には乗り切らず、皿にのせられて、床にそのまま置かれている。先ほど、どんどん服を片づけた場所を、今度はどんどん餃子が埋め尽くしていく。やっぱり波に似ているなと思う。この後、きっとその餃子はどんどん焼かれ、どんどん皆の胃袋に収まっていくんだろう。残った皿を朔也と津麦がどんどん洗って、波が引くように綺麗さっぱりもとに戻って、夜風が部屋を吹き抜ける。そして、また朝が始まるんだろう。

 慶吾の言っていた家中のあたたかなもの、は戻ってきただろうか。
 毎日繰り返される生活の中で、この日の思い出が、少しでも彼らの中に残ればいいと思う。


「さあ、焼くぞー!者ども、皿の準備はいいかあ!」

 朔也の張り切った声が聞こえる。

 その声は、開いた窓から隣の201号室にも聞こえているのだろうか。餃子の焼ける匂いが届いているのだろうか。その部屋には、どんな光景が広がっているだろう。と津麦は想像する。
 家の数だけ形がある。今ここの常識はもう、隣では通用しないかもしれない。それでも、もう怖がらない。助けを求められれば、向き合いたい。真剣に。その家と、そこに住む人々に。家事代行として。

「はい、津麦さん」
 真子が、津麦の前に、焼き上がった餃子と缶ビールを置く。
「いけませんっ!業務中に飲酒など!」
「あはは、だから言っただろ〜真子!」
「大丈夫ですよ。ノンアルコールです」
「そういう問題では…!」

 織野家には、7人分の大きな笑い声が響いている。


(完)

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