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伝える、伝えられない。伝わる、伝わらない。

私が『言葉の力』というものに強く関心を持つようになったのは、2017年にメッセージという映画を見てからで、この映画と出会ってから、漠然と在った言葉に対しての興味が具体的な関心となったのがきっかけです。

めちゃくちゃ簡単に映画の内容を説明すると、宇宙人と言語学者が言語交流していくことよって起こる変化がテーマなんですが、なんのこっちゃかわからないと思うので、気になる人はぜひ映画を見てください。

実際に感じるのが一番早い。

この映画から5年経って、友人の木村圭志さんが、言語学者の伊藤雄馬先生とコラボセミナーをするらしいということで、告知を見た瞬間に申し込みました。
一切迷いなし。ノータイム。

2022年9月1日、言語学者伊藤雄馬先生と無職木村圭志さんのコラボセミナー

セミナー自体はずっと不思議体験というか、言葉にしづらい感じた何かによって自分の中に微妙に違和感がある状態が続くというか、簡単に言ってしまうと頭と心がバラバラなことがくっきりしてくるというかそんな感じ。

そしてこれは多分たまたま私にはそんな感じがしたというだけで、受講した人がそれぞれ違う感じ方をしただろうと思うし、あの不思議な空気感は実際に体感してみないとわからないと思う。

懇親会ではちゃっかり伊藤先生の隣に座らせていただき、以下のようなことを質問させていただきました。

「言語は思考に影響を与えると思いますか?」
「ムラブリ語を習得することで自分の思考は変化したと自分で実感することはありましたか?逆に実感は無いのに変わったと言われることはありましたか?」

セミナーと懇親会で1万5千円。
はっきりいってめちゃくちゃ利回りの良い投資でした。

ここから不思議なご縁が繋がって、私は怒涛の一週間を迎えることになり、今現在私はアウトプットしたい病にかかっている状態でこのnoteを書いています。

つまり、今は読みやすい文章構成とか、こう書いたほうが伝えやすいんだろうなというテクニックを一切使わずに出てきた言葉をそのまま文章にしている状態なので、読みにくかったり意味がわからない部分も大いにあると思います。

なので、この記事は読まなくて大丈夫です。
伝えたいから書いているのではなく、この1週間で私が体験したことが全て繋がっていて、それらが大きすぎて体に留めていられないから書いているだけのものです。

伝える、伝えられない。を考える。

自分の気持ちを言葉で伝えようと努力すれば相手に伝えられるものなのか?というのは誰もが一度は考えたことがあると思うし、そういう書籍を読んだことがある人も多いと思います。

私は10代20代の間は、相手と自分の間にある程度の関係性があって、その関係性に基づいて正しく伝える努力をすれば、100%伝わることはまずないにしても、50%ぐらいは伝えられるんじゃないか?と思って過ごしてきました。

言葉の力を漠然と信じていたし、感情を分析して言語化したり、考えたりすることが好きなので、うまく言葉に出来ている自負もそれなりにあったのだと今となれば思います。

ところが30代になり、どんなに言葉を尽くしても何も伝わっていないことの方が多いんじゃないか?と思うようになりました。
何も伝わっていないどころか、なんでこの発言がそんな受け取り方になんねん!意味わからん!ということも起こるようになったのです。

私の伝え方が悪かったんだろう、次はこういう角度で伝えてみよう、それでもダメならこういう例え話はどうだろう?こういう体験談を通してなら伝わりやすいだろうか?とどんどん私は「伝わらない人へなんとか伝えたい沼」に落ちていきました。

で、そんな試みも虚しく結果は当然伝えられない。
あぁそうか、言葉で何かを伝えるのは無理なんだな。伝わらないという前提で他者とは接しなきゃダメだ。という風にここ数年は思って過ごしていました。

自分の中から伝えたいという欲がどんどん失われ、noteも書かなくなったし、Twitterもほとんどつぶやかなくなりました。
誰かに聞いてほしいことが無くなったんですね。

でもこんな私にも社会の中での役割や立場があって、日々意見を求められ、誰かの代わりに選択したり、誰かに動いてもらったりしなければならないから、言葉を駆使しなくてはならない。

だからますますテクニックに偏ってツールとして言語を使うようになる。
どうせ伝わらないんだからとにかく意見を聞いて相手のパーソナルウィンに則って動いてもらうのが一番スムースだよね・・・とか。

でもまぁこれって根本的にコミュニケーションとしては成立していないんですよね。
どうすればより合理的に事が進むのかということを選択の第一義においていたんです。

そういったここ数年の特に意識もしていなかった諸々の事たちが、伊藤先生のこの一言でぶわーーーーーってつま先から頭のてっぺんまで駆け巡ったんですよ。

「伝える」は「伝えられない」しかない。でも、「伝わる」ものはある。

もうぐうの音も出ないというか、膝から崩れ落ちそうな衝撃でした。
これまでの私の小賢しいことったらないなぁ!恥ずかしい!やばい!ハズ過ぎる!!となりました。

結局そういうことですよ。
「伝えたい」と思ってあれこれ小賢しく話しながら頭でごちゃごちゃ何かをコネてることだけ「伝わって」、言葉なんか1ミリも「伝えられない」。

こんな独り相撲をしていたんですね。おバカとしか言いようがない。
でも、気づいてしまったのだから、ここからやり直すしかない。

そう思って、毎日色んな人と、色んな話をしました。
仕事・趣味・体調と健康・過去と未来・今やってること・好きなこと・嫌いなこと・興味を惹かれていること・自分のこと・相手のこと・家族のこと・他人のこと・子育てのこと・友人のこと・関係性のこと・立場と役割のこと・言葉と文化のこと・日本と四季のこと・森羅万象のこと・・・

どの話も、誰との話も、めちゃくちゃ楽しかったんです。
伝えたいという欲や、相手をコントロールしたいという欲を排除してすごく久しぶりに生身で会話をしたら、本当に楽しかった。

そして心なしか、相手の方も楽しかったんだなって漠然とこちらにも伝わっていて、別れた後もなんだかニヤニヤしちゃったり鼻歌なんて歌っちゃったりして。
今も思い出してニヤニヤしてて結構キモいことになっています。

伝えると伝えられないと伝わるを考えたらこうなった。

伝えるは伝えられないしかないけど伝わるものはあるという前提で今の自分を見直し、過去を振り返り、これからどう言葉を使っていこうか?ということを考えると、結局コミュニケーションとはなんぞや?を考えることは避けられない。

自分にとって心地よいコミュニケーションって結局どういうことなんだろう。
今回お話させていただいた人たちがみんなただ単に私が大好きな人たちだから楽しかったとかいうことじゃないよな。
とか考えるわけです。

それでここから『同化』と『異化』、『接続』と『切断』について考えていくことになったのですが、ひとまず今日はここまでにして、続きは次回のnoteで書きたいと思います。


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