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【ショートショート】「その男の誕生を防げ!」(5,420字)

 俺の人生がめちゃくちゃになったのはあいつのせいだ。

 それまで俺の人生は順風満帆そのものといってよかった。必要なものが目の前に与えられるのを、俺はただ指をくわえて見ていればそれでよかった。
 それが、あいつが俺の前に現れてからはどうだ。誰も俺のことを構わなくなったし、なんならそれまで俺に甘い声をかけていたやつらが急に俺のことをぞんざいに扱うようになった。

 あいつさえ存在しなければ、あいつさえ産まれてきていなければ――。そんなことを考えない日はなかった。
 そして俺の願いは、唐突に叶えられるチャンスを与えられることになった。

   ※

「過去を変えられるって?」

 男のあまりに怪しい言葉に、俺は鼻で笑って言った。

「はい、そう言いました」

 男はあくまで冷静に答えた。
 平日の昼間、公園を歩いていた俺は、公園の端で、十五分間五百円で手相を見ていた占い師の男から急に話しかけられたのだった。あなた、過去を変えたくありませんか、と。
 普段ならそんな胡散臭い話は無視しているところだが、その日は、ちょうどあいつのせいで理不尽に怒られてむしゃくしゃしていた。

 俺は冗談半分で、男に向かって言った。

「じゃあ、例えば過去を変えて、ある男を産まれないようにすることだってできるんだろうな」

 遠くでは小さい子供をすべり台で遊ばせていた母親が意味ありげにこちらに視線を送っていた。心配されているのかもしれない。そう言えば男の風貌も紫のマントを羽織って相当怪しい。
 そんな反応を知る由もなく、占い師の男は悪そうな笑みを浮かべて言った。

「もちろんです。仮にそうした場合、その男はこの世に存在した証拠ごとこの世界から消えてなくなることでしょう」

 内容は荒唐無稽なことであるのだが、自信満々といった様子で言う男は、嘘を言っているようには見えなかった。

「じゃあ試してやるよ。どうすればいいんだ? 家に帰って机の引き出しの中に足を突っ込めばいいのか?」
「あそこに公衆電話が見えますよね」
「ああ」
「実は、あの公衆電話は過去と繋がっています。あの公衆電話から知っている番号をプッシュして、その次にシャープを押してから遡りたい時間をプッシュしてみてください。百時間なら♯一〇〇、五千時間なら♯五〇〇〇です。そうすればその時間だけ遡った時間軸に存在する相手と通話できます。
 そこで、電話に出た相手に対し、あなたが消したい男が産まれないようなアプローチをしてください。残念ながらそのアプローチの方法については、あなたに考えてもらう必要がありますが」

 なるほど、なんでも自由に過去を変えられるという訳ではないわけか。
 まあ当たり前といえば当たり前の話だろう。
 それでも、あの男をこの世から消せる可能性が少しでもあるのなら、俺はその可能性に賭けてみても良いと思った。

「分かった。言う通りにするよ。信じたわけじゃないが、どうせ退屈してたんだ」

 俺は芝居がかった口調で言うと、公衆電話まで歩いた。
 公衆電話は公園の入り口近くにひっそりとあった。最近ほとんど見かけなくなったという公衆電話の中には、これまた珍しく丸椅子が置かれていた。
 俺は丸椅子に腰かけ、黄緑色の公衆電話にポケットに入っていた一〇〇円玉を突っ込んだ。

 あの男の母親の電話番号は暗記していた。暗記力には自信がある。あとはどれくらい時間を遡ればよいかだが……、俺はしばらく考えてから♯ボタンを押し、五桁の数字をプッシュした。
 これで過去に繋がらなければ、どんな風にあの男を問い詰めてやろうか。そんなことを考えていると、受話器の向こうからコール音が聞こえてきた。

 ……………………カチャッ。

「はい」

 それは紛れもなく、いま家にいるはずのない、あいつの母親の声だった。俺の心臓がどくんと跳ねた。まさか本当に過去に電話が掛かったのか?
 あまりのことに俺が言い淀んでいると、電話口の声は続けた。

「どなた? ……あれ、おかしいわね、聞こえないわ」

 俺が知っている彼女の声よりも、数段若い声だった。本当にプッシュした時間分だけ、過去の時間軸と電話が繋がっているのだろうか。

「あ、お、俺だけど」

 俺は電話口でなんとか声を絞り出した。

「あら? はい、どちら様ですか?」

 彼女は知らない声の電話に対して、少し不審がりながらも、どこか楽しんでいるような雰囲気があった。

「その、ちょっと言いたいことがあって――」

 俺は当初の目的を思い出した。あいつにあの男を産まないように頼むのだ。だが、頼むってどうやって……?
 そのとき、電話口から赤ん坊らしき大きな泣き声が聞こえてきた。

「ごめんなさいね、子供がぐずってるから、またかけてきてくださる?」

 ガチャン! と電話を切られてしまった。

 俺は呆然としながら、自分が電話を掛ける時間軸を誤ってしまったことを知った。
 もし本当に過去に電話が繋がったのだとしたら、あの泣き声はきっとあの男のものだろう。すでに産まれてしまっている以上、あいつの存在を無くすことはできない。
 俺はポケットからさらにもう一個、一〇〇円玉を取り出した。残念ながらそれは俺が持ち合わせている最後の小銭だった。

 占い師の男の方を見やると、客としてやってきた小学生の女の子の手相を見ているようだった。
 通報されるぞ、と思いながらも、既に胡散臭い占い師のことを疑う気持ちは失せていた。
 先ほどと同じ電話番号をプッシュしてから#を押し、先ほど押した数字よりもさらに数年間遡る計算になる番号をプッシュする。これだけ遡れば、あいつも産まれてはいないだろう。

 コール音が鳴る。俺は女が受話器をあげる瞬間を待ちながら、女になんて言おうか考えていた。
 ただ、そんな言葉のどれも俺の口から発せられることはなかった。
 電話に出た女は泣いていた。すすり泣く声が、受話器越しに俺の耳に届いた。

 何があった? 俺は女のことが心配になった。

「お、おい、大丈夫か?」

 相手が俺のことを知らないことも忘れて、女に尋ねていた。

「くすん……すん、……誰?」
「俺は、その、お前の味方だ」

 気づけば恥ずかしげもなく、俺はそんなことを言っていた。

「私の味方?」俺の声を聞いて、女の少し笑ったような声が聞こえた。「そっか、私の味方か」
「ああ、だから安心していい」
「じゃあ、誰だか知らないけど、私の味方さんに、私の話、聞いてもらおうかな」

 女は思い切り鼻をすすると短い話を語りはじめた。

「私さ、好きな人がいたんだよね。いつか一緒になる約束もしてて、将来こういう家を建てたいとか、子供は絶対に二人ほしいとか、犬を飼いたいとか、いろんなことを話し合ってた。でも、私のお腹の中に赤ちゃんがいることが分かったらさ、急に別れようって。なんだったんだろうね、あの時間。
 あー、私、これからどうすればいいんだろ。ごめんね、せっかく電話してくれたのに、こんな話聞かせちゃって」

 それきり女は沈黙した。
 女は俺がなにかを言うのを待っているのかもしれなかった。そのとき俺はこう言うべきだったのだろう、「そんな男の子供なんて産むんじゃない」と。
 そうすればあいつも産まれてこず、俺は全てを取り戻すことができるのだ。ただ、俺の口から出たのはこんな言葉だった。

「お前ならお前のやりたいようにできるさ。赤ちゃんを産みたいなら産めるだろうし、また恋愛だってできる。いつか二人の子供に囲まれることだってあるかもしれない。お前はまだ若いんだから不安なのは当たり前だろうが、これまでそうやって生きてきた人たちなんて腐るほどいる。まずは自分がどうしたいかよく考えてみるんだな」
「……わかった」

 女はまた泣きそうな、それでいてまるで子供のような声で答えた。

「じゃあ、とりあえず顔でも洗ってくるんだな。産まれてくる子供だって母親の泣き顔なんて見たくないだろうし、そんな顔じゃいい出会いだって逃げていくぞ」

 女は笑った。
 次の瞬間、電話は切れてしまった。百円で通話できる時間が過ぎてしまったのだろう。
 俺は深くため息を吐くと、受話器を戻した。

 結局、俺はあいつが産まれてくることを阻止することはできなかった。 
 ただ、それも仕方がないのかもしれない。俺はいつもそうしているように、そのときしたいことをしたいようにしただけだ。そのせいで、いつも怒られてばかりいるのだが……。

 公衆電話から出ると、目に前には、先ほど、母親とすべり台で遊んでいた小さな男の子が立って俺のことを見ていた。
 俺は気まずくなって目を逸らした。俺がつい先ほど存在を消そうとした男の小さな瞳に見つめられて、罪悪感で男の顔をまともに見ることができなかった。

「にいに、いっちょに、あそぼ」

 男の子は小さな手で俺の手首をつかんだ。
 俺はその手を振りほどきたかったが、先ほどの女の声を思い出してやめておいた。
 俺は弟の手を握ると、すべり台のそばに立ってこちらを見ていた母親がいる方へと向かった。

「あら、珍しく兄弟で仲良さそうじゃない」

 男の母親は俺たちを見て言った。
 女は先ほどまで電話口で泣いていたとは思えない、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
 いや、泣いていたのはこの女ではなく、過去の時間軸にいた女になるのか。

「ふん、こいつがかわいそうだったから相手をしてやってただけだ」
「あら、また大人ごっこしてるの? それ感じ悪いからやめなって言ってるでしょ」

 女――ママは手でげんこつを作ってみせた。げんこつを落とされては困るので、俺は「はい、ママ」と声を落とした。

 弟が産まれてからというもの、俺はいつだって後回しにされてきた。
 パパは仕事で忙しいし、ママはやれ弟が熱を出しただうんちを漏らしただ騒いでいて、俺が寂しがっていることなんて気づいてもいないのかもしれなかった。
 親戚が集まったときだって一緒だ。今まではいつだって俺が話題の中心で、常に俺にスポットライトが当たっているようなものだった。
 それが、今では弟がスポットライトの中心で、俺はなんとかライトを当ててもらおうと騒ぎを起こしたりするだけの道化だった。

 それでも、最初は「お兄ちゃんだから」「弟はまだ赤ちゃんだから」と言われて、そんなものかと我慢できていた。
 ただ、そんな時間がひと月、半年と続くうちに、俺はもう我慢できなくなっていた。

 いつからか、弟なんか産まれなきゃよかったと、そんな悪い考えを持つようになってしまっていた。
 だが、怪しい占い師に騙されてあんな電話を掛けてしまったとはいえ、やはり俺は弟を本気で消してしまおうなんて思ってはいなかったのだろう。それは昔のママと話をしたからじゃなく、俺自身、最初から心のどこかでは、俺と同じくらい弟のことを大切に思っていることを理解しているからだろう。

 俺と弟は、ママの右手と左手をそれぞれ取って家までの道のりを歩いた。
 俺は先ほどの体験を思い出していた。結局、あの占い師は、あの公衆電話はなんだったんだろうか。

「ママ、あの公園に公衆電話があるの知ってる? さっき、僕が電話を掛けた相手、誰だったと思う?」
「公衆電話なんて知ってるの? でも、おかしいわね。あの公園に公衆電話なんてなかったはずだけど」

 ママは頬に人差し指を当てて、思い出すようなしぐさをした。

「じゃあ今度電話を見かけたら、お仕事頑張ってるパパに電話してあげてね」

 ママは俺がごっこ遊びをしたと思っているようだった。

「えー。パパにはいいよー」俺が嫌そうな顔をするとママと弟は声を上げて笑った。

 それから少し空を見上げて、そういえば、とママは言った。

「昔、知らない子供から電話が掛かってきたことがあったなー。まだあなたがお腹にいるときのことだったけど、妙に大人ぶったことを言って、あれはおかしかったなー。なんだったんだろ、あれ」
「へー、そんな電話があったんだ」

 ママの言葉を聞いて、俺は「ん?」と思った。俺はひとつ、大きな勘違いをしていたのかもしれなかった。
 俺は占い師の話を聞いてから、過去のママに電話して、弟を産まないようにアプローチするつもりだった。
 だが、よくよく考えてみれば、俺だってママから産まれていたのだ。俺と弟は兄弟なのだから。

 ひょっとすると最初の電話で泣いていたのも、二回目の電話でお腹の中にいたのも、俺自身だったんじゃないだろうか。
 もしあの電話で「そんな男の子供なんて産むんじゃない」と言っていたら今ごろ俺は――。俺は背筋が冷たくなるのを感じた。

 ただ、同時に、あのとき俺がなんと言っていても、結局俺はここでこうしているんだろうな、という感じもあった。
 俺のママはそういう人だったし、それは俺が無数にあるママのことを好きな理由の一つでもあった。
 ママの手は温かくて、その手の向こう側にある弟の温もりまで、ママの手を通して感じられるようだった。その温もりは弟がいなければ決して味わうことのできなかった温もりだった。

 家に着く直前に、弟がうんちを漏らしたと言うので俺も負けじと家の玄関でおしっこを漏らしてみた。
 ママはかんかんに怒っていたけど、俺は怒られて泣きながらこの家に産まれてきて本当に良かったと思った。
 弟と一緒にちんちんを丸出しにしてシャワーのお湯を掛けられながら、俺は俺と弟が二人でこうして笑い合えていることに感謝した。
 弟がこうして産まれてきてくれた幸運に、心から感謝した。











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