『人間機械(原題:Machines)』(2016) レビュー -覗きによる美と我々の応答について-

 この映画のテーマは言わずもがな労働問題であり、ドキュメンタリー映画として、劣悪な労働環境とその労働者たちを切り取る。この映画の現場である、まるで1つの有機体のような巨大のな繊維工場では、1つ1つの細胞としての労働者が現場における単純な1つの目的をもとに機能し、有機体にとっての壊死と再生を繰り返しながら、様々な模様をつけた布が出来上がっていく。そして、またその有機体からの排泄物にも小さな細胞が群がり、命のガラクタを探し出す。その細胞たち1つ1つの表情や動きを丁寧に映像で切り取り、配置していくことで彼らの苦痛や諦めが刻み込まれた肌を浮き彫りにさせる。

 一方でこの映画が映し出す、目的と行為が完全に一致している、原始的で秩序ある繰り返しの作業を生み出す身体や鮮やかな色の繰返される模様の布が軽やかに画面上に流れる様、そして労働者とモノの効果的な配置に美しさを覚えた。 だがその映像の裏には、冒頭のシーンのこの映画のカメラに対する彼ら目線が刺さり続けている。布の山積みの前に立ち、その横を通り過ぎるように向けられているカメラに、目線だけを動かし鋭利ににらみつけ続ける青年。作業を続けながら、横切るカメラをただじっと見つめる男。カメラはその写し取る対象との関係を断ち切ろうとする。まさに「覗き」を企んでいる。この映画から感じ取る美しさは、覗きの行為ゆえの美しさだと考える。写し取られる対象は現実的で身体的で退屈である。覗き見ることによってその現実性や身体性から逃れられる。

 言ってしまえば、美には完備な他者性が必要といえるのではないか。覗きという行為による関係することへの拒否。そして、労働者による小さな秩序・作業の繰り返しによって、その身体を映像に浮遊させることで、映像から見る者への身体性の回路を断っている。そこには他者性の切り出しがある。それゆえ、ただ単に美しいと感じとることができる。

 ただ、社会性に目を向けるとたちまち目の前の現実への対応を迫られる。
ラスト寸前の労働者から求められる救いを求める声。だがあくまで、覗くものとしての立場を守るかのようにその「眼」差しをカメラに収め続ける。

 この映画には物語はなく、人生がある。それを「覗いている」という行為を映像の美により際立出せることが、我々の日常における問題、ーニュースで日々配信される世界中の問題から、身の回りの小さな問題までー、への応答がいかに自分と切りはなされているかを浮き彫りにする。それは自己防衛的な応答である。それらの問題を一瞬でも自己に取り込むと、途方もなく、際限なく、絶え間なく、自分を脅かしてしまうものであるからだ。様々な情報の可視化と流通がとめどなくされる現代だからこそ、その情報を単なる情報として受け取ることに慣れ切った現代だからこそ、我々が常に問い続けなければいけない応答の問題がこの映画の美として映し出されているのだ。

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