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一度出会ったから大丈夫

←Vol.06を思い出す

2014.4.10

ニャチャン駅の簡易トイレで、人生で2回目となる、なかなかの精神的ダメージを負いながらも、実はまだこの時点で朝の7時30分。ホテルのチェックインまでまだ5時間もある。不安定なお腹を抱える身としては、果てしなく遠い。まずは、ダナン行きのチケットの確保だ。ニャチャン駅のチケット売り場に行く。チケットを取るときには、必要事項を紙に書いて渡すのが一番手っ取り早いし、確実。あいまいな英語で話すよりも、英語で書いて渡して、質問に答えるほうがスムーズだ。手帳の切れ端に次のように書いて、窓口に持っていった。

"2014.4.11  13:42  DA NANG  Soft Sleep Air-con  Level:2"

「明日の昼の列車で、ダナンまで、軟らかくて、エアコンが付いた寝台車の二段ベッドの上の席、ください」という意味だ。要は、一番快適な席にした。ニャチャンまでのバスの一件で、長距離移動に対する心が折れていたのだ。なんか文句ある?
ちなみにニャチャンからダナンまでで575,000ドン(約2,875円)。
もっとちなむと、中国旅行のときは、寝台車の二段ベッドの下の席になると、ほぼ必ず先客として見知らぬ人がベッドで腰掛けていて、申し訳ないような気持ちで、自分の席にお邪魔していた(基本、どいてくれない。「指定席」の意味を改めて考えたくなる)。しばらくすると、その見知らぬ人と周りの客が意気投合し始めて、ますます井戸端と化すわがベッド周辺。ますます肩身の狭い僕。自分の席なのに……。寝台車の下の段の席はそういうイメージだった。
さらにちなむと、今回の旅行中は小遣い帳をつけていて、それを見ながら前述の列車の料金などを書いている。小遣い帳の4/10の欄には、次のように記されている。

【4/10】
列車代 575000ドン
朝飯 45000ドン
トイレ代 2000ドン
昼食パン代 42000ドン

「トイレ代 2000ドン」……。屈辱の2000ドン(約10円)。

「紙に書く」戦法が功を奏し、思いのほかスムーズにチケットが取れた。スムーズすぎて、まだ8時30分。駅にいても仕方ないし、かといって、あまり遠くまで歩いて、またお腹の雲行きが怪しくなってきたら、もうベトナム自体が嫌いになりかねない。ベトナムには何の罪もないのに。日本だと駅やコンビニ、大き目の建物に入れば大体トイレはあって苦労しない。ここはベトナムだ。きれいな建物は割とあるのだけれど、そういう建物の前には、ちょっと無愛想な男が腰掛けてコーヒーを飲んだり、バイクで寝そべったりしていることが多い。建物の関係者なのか、部外者なのかもよくわからない。誰なの? でも、気後れするには十分な存在感だ。

そうだ。ホテルやカフェ、ショッピングセンターが並んでいる海岸のほうへ行けば、有事の際もトイレに駆け込めるではないか。海岸へ行って、時間を潰そう。すでに行動の指針が「トイレ」になっている。おびえているのだ。

そして海岸へ。

海はすごい。気持ちに深刻なダメージを受けた直後であっても、見るだけでテンションが上がるところがすごい。

1時間後。
海はすごい。青くて、広くて、暑くて、1時間くらいでは、何も変化がなく、もう飽きてしまうところがすごい。

まだずいぶん早いけれど、ホテルに向かった。交渉してみて、チェックインさせてもらえなかったら、また考えよう。

ホテルに到着。予約している旨を伝えると、驚くほどあっさりチェックイン完了。ホテルの「チェックイン時間」とは、いったいなんなのか。いや、それよりも、僕だ。もっと自由に振る舞って、だめならだめで、そのときに考える姿勢が必要なのではないか……などと、自らの性格の根本的な問題について考えながら、部屋へ。

部屋は2階。道路に面したバルコニー付き個室。シャワー、トイレ、冷房、冷蔵庫、テレビ、Wi-fi完備。小さなアリがチラホラ歩いているけれど、気にしない。ベッドの縁に沿って虫除けスプレーをかけておけばたぶん大丈夫。1泊300,000ドン(約1,500円)。格安の上に清潔で、いい。とてもいい。『地球の歩き方』によると、このホテル、日本人が経営しているらしい。

何はなくとも、シャワーと洗濯だ。洗濯物を干し終えた頃には、なんだかとても疲れてしまって、海岸近くで買ったパンを食べて、もう寝ることにした。まだ昼過ぎくらいだった。

明日は、12時にチェックアウトして、昼飯を食べた後、駅に行く。明日にはお腹が落ち着いていますように。

2014.4.11

朝6時、空腹で目が覚めた。そういえば昨日のお昼から何も食べていない。お腹は空いているが、お腹の機嫌はまだわからない。なんとなく朝食でも、と階下へ。フロントに鍵を預けに行くと、「あ、あなた、仁尾さん?」と男性が声をかけてきた。この「Tommy Hotel」のオーナー、通称「Tommyさん」(66歳)だ。
「いや、昨日声をかけようと思ったんだけど」とTommyさん。
「申し訳ありません。ちょっとお腹を壊して寝込んでいました」と僕。
「言ってくれればいいのに。ちょっと待っててよ」と言いながら、奥に引っ込んだかと思うと「はい、こっちが下痢止めで、こっちが便秘薬」と薬をくれた。なんとフレンドリー! 泣きそう!

Tommyさんに促されるまま、ホテルの入口にあるイスに座っていると、ちょっと無愛想な謎の男がどこかからベトナムコーヒー(氷入り)を買ってきてくれた。

さて、ここで逡巡することになる。
(氷……。腹は大丈夫だろうか)
(いや、せっかく買ってきてくれたコーヒーを飲まないなんて、あり得ないだろう)

昨日の友人とのFacebookでのやり取りを思い出していた。

仁尾:いやー、すげー腹壊したわ。やばそうな物、なにも食ってないのに。
友人:そりゃ、身体にしたら出会ったことのない細菌ばっかりだから、一度はびっくりするよ。一度出会えば、次からは大丈夫だと思うよ。序盤にお腹壊しておいてよかったよ!

やり取りしているときは、「人の気も知らないで……」と思ったけれど、この言葉でふっ切れた。

(一度出会ったから大丈夫!)と、飲んだベトナムコーヒーは、冷たくて甘くて苦くて濃くて、抜群に旨かった。こんなに旨いんだ。小さいスプーンで、氷をつついたり混ぜたりしながら飲むのが、なんだか楽しかった。謎の男が、コーヒーの口休めに温かいお茶を持ってきてくれた。誰なの?

これ以後、(一度出会ったから大丈夫)と呪文のように唱えながら、なんでも食べた。実際、大丈夫だった。あの言葉がなかったら、ずっと腹痛の再発におびえて食べたいものも食べられなかったかもしれない。友人には感謝している。

Tommyさんに「朝食は?」と聞かれたので「まだです」と答えた。「そこのバインミー、旨いんだよ」と、嬉しそうに言ったあと、謎の男にバインミーを買ってくるように頼んだ。
「彼は誰なのですか?」と聞くと、「このホテルのガードマンだよ。ベトナム人は割と勝手に建物に入ってきたりしちゃうから」と教えてくれた。なるほど。きれいな建物の前にいる無愛想な男たちは、ガードマンだったのか。
謎の男改めガードマンが、ビニール袋に入ったバインミーをぶら下げて戻ってきた。ひとつ12,000ドン(約60円)。

一口ほおばる。なんだろう、きゅうり、パクチー、肉団子、ハム? 塗ってあるのはレバーペーストだろうか。その他にもたぶんいろいろ入っていて、複雑で、得体が知れなくて旨い。フランスパンも旨い。何より安い。これは朝食にいい。

「旨いでしょ?」と、得意げに言うTommyさんが、ちょっとかわいかった。

Vol.08へ続く→

そんなそんな。