その猫は全部を生きて死んだので悲しいけれど苦しくはない
2年前の猫の日に亡くなった猫の話です。
苦しくない話だけど、苦手な方は読まないで。
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以前、こんな短歌を作ったことがある。
《衰えた猫はやっぱり撮れなくてアラーキーにはなれそうもない》
これまで何匹も猫を看取ってきたけれど、「穏やかな最後」なんて嘘だと思っていた。看取った猫はみな辛そうだった。その辛そうな猫に、何もしてあげられないことも辛いのだ。「死」とはそういうものだ、と思っていた……が、違った。
十九歳を目前にして、長年我が家の最年長猫だった「くう」が亡くなった。
くうは、生涯、特に大きな病気をすることもなく、通院することもほとんどなかった。亡くなる二日前まで食欲もあり、よく食べていた。ただ、昨日できていたことが今日はできない、ということが徐々に増えていった。最終盤はおしめをしていたのだけれど、おしめ姿もなんだかユーモラスで、むしろ和んだ。亡くなる前日の写真が残っているほどだ。
そして、二〇二〇年二月二十二日、猫の日になるのを待っていたかのように、とても穏やかに逝った。
看取った僕らに思い残したことや後悔がまったくない。悲しいけれど苦しくない、という初めての不思議な体験だ。こんな「死」もあるのか。
絶対に忘れられない猫の日を命日に選んだくう、めちゃくちゃかっこいいよ。
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『ネコまる』(40号)「猫の短歌」より
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