見出し画像

硝子の蛙

わたしは蛙を飼っている。

それは硝子でできた半透明でサラサラした手触りの。

気持ちよくていつまでも撫でていたくなるようなひんやりとした感触の蛙。



ある日いつもの定位置であるマホガニーの飾り棚の上の蛙がいなくなっていた。

…何処に行った?

飾り棚の下の隙間や裏側、その周辺をあちこち探したけれど一向に見つからない。


私は毎朝この硝子の蛙を愛でないと心が落ち着かない。

手のひらにすっぽりと収まるほどの大きさで、ずしりとした重みはそこに確かにいるという安心感を与えてくれる。

絶対に落としてはいけない硝子の蛙は慎重に大切に扱う。すりガラスのようなそれは撫で回しているうちにスルリと手から滑り落ちてしまうかもしれないという危うさもまたわたしの食指をそそる。


一体何処へ行ったのだろう。


もしかしたらあの場所へ帰ったのかもしれない。

あの場所…



山手線の目黒駅から程近い、都会の真ん中にあるとは思えないような緑深き庭のある美術館。

皇族の旧邸である建物はアールデコ様式のモダンな作りでその建物内を見て回るだけでも一見の価値がある。

こじんまりとした部屋の数々、ベールを纏ったような手作りのガラスの窓から入る柔らかな陽の光はガラス細工の展示にはうってつけだ。


確か今、アールヌーボー展をやっているはず。あそこへ行けばきっといる。わたしの大切な硝子の蛙。


美術館の入り口でチケットを買い、建物までの道のりをゆっくりと歩く。さっきまでの無彩色なアスファルトと急ぎ行き交うたくさんの人々と排気ガスと都会の喧騒はもしかしたら夢だったのかもしれないと思うほどに静かに流れる時間。

大きく聳え立つ木々の間から降り注ぐ木漏れ日、鳥の声、何十年も前にタイムスリップしたかのような静寂の中の安堵感。この敷地に入って3度ほど気温が低く感じる。頬を撫でるそよ風が心地よい。

濃い緑の匂いを両の肺いっぱいに吸い込んではあ~~っと深く息を吐く。ここは現実の世界だ。さっきまでの忙しさが嘘のようなもう一つの現実。


すると前から三匹の柴犬を連れた男の人が歩いてきた。はて、ここは犬を連れて入れるのだったか…?

不思議に思ったけれど三匹の柴犬たちが余りにも可愛くて思わず頬が緩んだ。

画像1

「可愛いですね。兄弟ですか?」

「はい、三姉妹です」

「大人しくてお行儀がいいのね」

「人が好きなんですよ」

犬たちと同じ目線になるようにしゃがんで白と黒と茶色の三匹を各々順番に撫でてやるととても喜んで尻尾を勢いよく振った。よく見ると顔が本当によく似ている。やはり姉妹なのだなと感心していると茶色の人懐っこいコがわたしに向かって口を利いた。


「あなたの蛙はここにはいませんよ」


え? 何ですって?

わたしは反射的に飼い主の男の人の顔を見上げた。

男の人は知らん顔で遠く空を見上げている。かけているめがねに陽の光が反射してその表情が伺えない。


今の声、聞こえなかったのかしら…


もう一度茶色の人懐っこいコを見つめる。

しかしそれ以上は何も言ってはくれなかった。きゅっと口角をあげて舌を出し、にっこり笑って尻尾をブンブン振るだけだ。


わたしは気を取り直して男の人に「失礼します」とだけ言って足早に建物へと歩みを進めた。

 

画像2

美術館の中は人も少なく静かな時間が流れていた。1階の展示物を経路順に観て回るがこれと言って興味をそそられるものはなかった。


2階のフロアへ移動するとメインとなる大きな部屋には何度か見たことのあるエミール・ガレのガラス細工の花器やスケッチが並ぶ。パステルカラーとも違う、少し毒の入った妙薬のような色使いは一気にその独自の世界へとわたしを誘った。

そして部屋の奥の一角に、わたしの好きなドーム兄弟の作品群が飾られていた。

あの中にいるはずだ。

ゆっくりと近づいていく。柔らかな緑色の半透明は砂糖菓子のようで舐めるときっと甘い味がするに違いない。

ガラスの壁の向こう側に柔らかな自然光を浴びて佇む花器やオブジェ。装飾された昆虫や草花たちは今にも蠢きだすような錯覚に陥る。ひとつひとつじっくりと観察しその圧倒的な職人の仕事にしばらくの間目が離せない。

画像3

そうだ。こうしちゃいられない。わたしの蛙はどこにいるだろう。

隅々まで探してみるけれど見つからない。絶対ここにいるはずなのに…。


いや、いたとしても。

ここは公共の美術館だ。当たり前だがここから展示品を持ち帰るわけにはいかない。そんなことはハナから承知なのに、一体わたしはどうしようというのか。何故ここへ来たのだろう…。


ふと我に返ると急に悲しくなってきた。

蛙がいなくなったこと、現実に帰らなければいけないこと、茶色い人懐っこいコが言ったことが頭の中をぐるぐると回った。


「あなたの蛙はここにはいませんよ」


じゃあどこへ行ったの?わたしの大切な蛙。

緑色の半透明。すべすべとしたスリ硝子のような手触りの。

画像4


ガックリと肩を落として美術館を出ると、先ほどの三匹の姉妹を連れた男の人が立っていた。

「あなたミュシャはお嫌いですか?1階の展示室に飾ってあったでしょ?よく見もしないですぐに2階へ上がりましたね。ワタシは大好きなんだけどね 」


「 あぁ、別に嫌いという訳ではないのですけれど、他に探していたものがあったので… 」


男の人はフフンと笑って言った。


「 ああ、蛙ね。いなかったでしょ?だからこのコが言ったのに 」


「 やっぱり聞いてたんですね!そのコが喋ったの。でも…何故? 」


「 この庭園の奥にいますよ。よかったら一緒に行きましょうか?」


「 本当ですか?是非、連れて行ってください!」


三匹を連れた男の人の後をついて庭園の奥へと入って行った。

画像5

樹齢何十年だろうと思うような鬱蒼と茂る木立の中を分け入ると、こんなにも深い森がここにあったとは信じられない光景に出会した。


「 ここはこんなに大きな敷地でしたっけ?」


「まあ、時と場合によりますけどね。ホホホホ… 」


「 あなたはこの場所を知っていたのですか?」


「 ワタシの古い知り合いがここにずっと前からいるんですよ。なので聞いてみようと思ってね 」


「 古い知り合いが…  ここに…  」


「 ええ、あなたならわかるでしょ? もしかするとあなたの知り合いもいるかもしれませんよ。ほら、あの木立の向こう側。よく見てご覧なさい 」

画像6

目を凝らしてじっと見つめると森の奥に小さな人影らしきものが見えた。

何だか分からないが、ひどく懐かしい気持ちがする。

さらによく目を凝らして見つめると確かに見覚えのある顔が浮かび上がってきた。


「 あっ!キミちゃんだ!何でこんなところにいるの?」


そう叫んだ次の瞬間、キミちゃんがわたしの目の前に立っていた。

にっこりと笑ってあの日のままの姿で。


高校1年の夏休みの最終日。キミちゃんは不慮の事故で帰らぬ人になった。


わたしはどうしてあげることもできなかった。

きっと寂しい思いをしていただろう。

みんなと別れて辛かったろう。

もっと生きていたかっただろう…。

そう思うとキミちゃんにかける言葉が見つからず、ただただ涙が溢れた。


「 泣かなくてもいいよ。あなたのせいじゃないから。仕方なかったんだ。でも、あれから37年経つんだよね。どうりで歳取ったわね。ずいぶん老けちゃって。かわいそうに!」


「 何よ!当たり前じゃない。キミちゃんはいいよね、全然変わってない!高校1年のピチピチなままだもん。ずるいよ!」


「 あははは!そうだよ〜。わたしはこのままずっと若くいられるんだよ、ごめんね!」


そう言ってお互い笑い合った。


わたしは歳をとった。あの夏からずいぶん遠くまで歩いてきた。

たくさん苦労したしたくさん笑った。だから歳をとってシワやシミが増えたけど、それはそれでなかなか気に入っている顔なんだ。頑張ってきた証だからね。


キミちゃんはウンウンと頷いて「いいと思うよ」と言ってくれた。


「 ああ、そうだ。蛙でしょ?家に帰ったらいつものところにいるから。心配しなくてもいいよ」


「 本当に?よかった〜。でも、何故?」


「 うん、ちょっとね。久しぶりにあなたに会いたくなったからここへ来るように蛙に相談したんだ。あなたは毎朝あの蛙を愛でるでしょ?自分が姿を消せばあなたは必ずここへ来るだろうって 」


「 そうなんだ…。うん、ここに来れば会えると思ったんだよね。何故か分からないけど 」



「 ホホホホホ。作戦成功ですね!」


三匹と男の人は後ろで私たちの様子をずっと見ていた。


「 あなたは最初から知っていたんですか?彼女がわたしに会いたがっていたことも。わたしが蛙を無くしたことも。その蛙を探しにここへ来たことも 」


「 同じ体験をしたもんでね。仲間だということですよ 。ああ、一つ言えばワタシは蛙ではなくウサギに連れて来てもらいましたけどね。フフフ 」

そう言うと男の人は三匹を連れて元来た道を帰ろうとした。


「 ちょっと待って!わたしも行きます!

  キミちゃん、じゃあまたね、元気で!」


振り返るとキミちゃんは遥か彼方に遠ざかっていた。にっこりと微笑み手を振ってくれた。そしてそのまま緑の森の奥へと吸い込まれて行った。


「 キミちゃん…。さようなら。またいつの日か必ず会えるから。それまで気長に待っててね。わたしはもう少しやりたいことがあるんだ。精一杯やり遂げたら必ずそっちへ行くからね。まだまだ先の話だけれど。必ず行くから 」


わたしは泣いていた。その涙でびしょびしょになったシャツの冷たさで我に返りふと気付くと自宅のリビングのソファーで目が覚めた。


夢だったのか…。

あまりにもリアルな感触に夢か現実かを確かめたくてマホガニーの飾り棚に目をやると、そこには緑色の硝子の蛙がいつもの場所で窓から入る柔らかな西日に包まれていた。

その光景がとても暖かく幸せそうなオレンジ色に輝いているので、わたしは安心してもう一度目を閉じた。

そこにいてね。また会いたくなったら蛙を使っていいからね。そしてあの茶色の人懐っこいコにも話をつけて。きっとまたそこに案内してくれると思うから。


まぶたの裏に映る暖かな夕日の中で、キミちゃんは嬉しそうに静かに頷いた。


* ***** *


これは #めがね男子愛好会 に入会してくださった宇佐美真里さんへのプレミア小説です。この小説は真里さんの掌編小説『眠らぬ森』を読んで、わたしの中の妄想癖がウズウズと蠢き出してできた物語です。

私の物語に出てくるキミちゃん(仮名)は私の同級生で、高校1年の夏休みに事故で亡くなりました。あれから37年の月日がたち、遠い記憶の中にありましたが、この真理さんの『眠らぬ森』を読んでキミちゃんを思い出し、久しぶりに会いたくなりました。きっとキミちゃんも喜んでくれているのではないかと思います。真理さん、この機会を与えて下さってありがとうございました。

物語りの中に出てくる美術館のモデルは港区白金台にある東京都庭園美術館です。静かな庭園の中に佇む小さな洋館は1993年に建設されたアール・デコ様式の旧朝香宮邸。私の大好きな美術館で時々訪れてはその緑豊かな空間に身を置いて忙しい現実からしばし逃避することを楽しんでいます。


真里さんの独自のファンタジックでクリエイティブな世界観はいつも私を妄想列車の特等席へと誘います。


真里さんありがとうございます。これからもたくさんの物語をファイリングさせてくださいね!


#めがね男子愛好会はこちらから

















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?