Peace Piece 〜初恋〜


「 あゝ、大人だなぁ… 」

最初の印象はそんな感じだったな。

僕は身長が181センチあるんだけれど、少し見上げる視線でジョーを見つめたんだ。その厚い胸の筋肉はシャツの上からでもしっかりとわかるぐらいに逞しかった。


「 決まりだな。今後週末の夜、ここに来れるかい? 」

好きな事をしながらお小遣い程度の稼ぎになればそれでいい。そう思って探したバイト先はこだわりの強い僕らしく『いつかはこんな店に出入りできたらいいなぁ』という憧れを抱いていたピアノバーだった。

店主のジョーは僕より二十も年上で、落ち着いた話し方と柔らかな物腰に大人の男を感じて少し緊張した。


「 週2回。金曜と土曜の夜だ。客からのチップは全て君のものだから、稼ぎたければ頑張ればそれなりに贔屓がつくはずだよ。ここはお酒はもとより、生演奏のピアノを聴きにくる常連さんが多いからね。その代わりみんな耳が肥えてる。その分、君の演奏が良ければいい稼ぎになるよ 」

「 はい、頑張ります 」


僕は音楽の専門学校に通うピアニストの卵。いや、本当は将来の夢はプロの演奏家なんかじゃなかった。昔から憧れていたのはこんな風に落ち着いた空間で耳の肥えた大人の観客の前で、好きなジャズを弾きながらお酒を楽しめる空間作り。バーの経営者というのともちょっと違う。まあ、こんな風に好きなことだけして緩やかな人生を機嫌よく生きていたいだけだ。実にいい加減でわがままで頼りない、大人になりきれない中途半端なヤツだ。取り柄はピアノだけという、要するにまだ子供なんだ。


「 名前は?何て呼べばいいかな 」

「 ビル 」

「 え? 」

「 ふふ。ビル・エヴァンスが好きなんですよ 」

「 ああ、そうか。最近の子達はそうやってハンドルネームで活動するんだよな。ま、いいよ、ビル。よろしく頼むね 」


そう言ってジョーは僕の前に右手を差し出した。実にスマートに。


大人だな…

僕は自分の右手を少し躊躇いがちに出しながら、初対面の人との挨拶はこんな風にスマートに握手することにしようと心の中で決めた。



金曜日と土曜日の夜はとても楽しい時間だ。

客たちは僕のピアノをとても気に入ってくれた。

優しく語りかけるように弾くビル・エヴァンスのナンバーは特に女性客に気に入られた。

僕の一番好きな曲は『 Peace Piece 』だ。だけどいつも弾く訳じゃない。リクエストされても滅多に弾かない。客からは「わがままビル」と揶揄されたけど、そんなに簡単には弾きたくないんだ。だってこれはバイトのオーディションの時にジョーの前で初めて弾いた曲で、彼がとても気に入ってくれたから。僕にとっては特別な曲。ジョーが僕を選んでくれた思い出の、大切なナンバーだから。 



「 今夜はあれを弾いてくれないか 」

その夜、珍しくタキシードを着て現れたジョーがリクエストしてきた。

「 『 Peace Piece 』 ですか? 」

「 ああ。そうだ。とても好きなんだ 」

僕は有頂天になった。今夜はジョーのためだけに演奏しよう。そう思うと心が弾んだ。少しアレンジを入れてみようか。ジョーに喜んでもらうために。今夜は特別な夜になりそうだ。


何故こんなにもジョーに惹かれるのか、自分でもわからない。どう説明すればいいのか。相手は年の離れた、しかも男だ。憧れ?親しみ?いや、そんなんじゃない。一体この気持ちの正体が何なのか、自分でも説明がつかないんだ。ただ、ジョーの側にいると心が落ち着いた。そしてドキドキした。気持ちが華やいだ。頭がクラクラした。何故か訳もなく涙が滲んだ。その答えを僕は導き出せない。僕はまだ愛というものの正体を知るには色んな人生経験が足りなすぎる。


ジョーはタバコの匂いがする。大人の男の匂い。ベチバーの香水と混じり合って甘く切なく香る。そしてその香りはいつもすれ違いざまに僕の頬を優しく撫でるように容赦なく絡み付いてくる。僕は目をギュッと閉じて深く息を吸い込む。そしてジョーの気配を五感をフルに使って全身に染み込ませる。いつもこの香りを感じていたい。いつでも思い出せるように脳内で香りのシュミレーションができるほどだ。

こんな気持ちは誰にも言えない。そしてジョーには気づかれないようにわざと素っ気ない態度を取る。気づいて欲しい気もするけれど、拒否される事を考えるといてもたっても居られない。だから気づかれないように素振りも見せない。本当は気づいて欲しいけれど。



今夜はやけにドレスアップした客が多いな。何かのパーティーなの?

僕は定位置のピアノに近づいて客たちの前に立った。

いつものように一礼し、顔を上げると客たちの真ん中のテーブルにジョーがいた。

何?どうして?

そしてジョーの傍に座る真っ白いドレスを着た美しい女の人が目に入った。

誰?綺麗なひと……


すると客の一人がおもむろに立ち上がった。

「 ジョー。結婚おめでとう!今夜はお祝いだ。ビル、二人のために一曲弾いてくれるかね? 」


一瞬、頭の中が真っ白になった。

そうか、そうだったのか。

ジョーはとなりに座る美しい女の人と目を合わせて微笑みあった。そんな顔するんだ…愛する人には。そんな風に見つめ合うんだ…愛する人とは。そんな風に甘い表情を見せるんだ。そんな風に……



そこには僕の知らないジョーがいた。

僕は胸の奥がギュッと掴まれたように苦しくなって息ができない。

何なんだ。どうしろと言うんだ。僕は一体どうなってしまうんだ……

軽い眩暈に動揺した僕はピアノに手をかけてのろのろと座った。目の前が真っ白で何も見えない。とにかく落ち着かなければと大きく深呼吸した。そして僕は静かに目を閉じた。

鍵盤に指を乗せる。ジョーが好きな、僕の特別な曲。


左手で単調な和音のリフレインをゆっくりと奏でる。右手のメロディーはガラス細工を散りばめたようにキラキラと躍動し、二人の頭上に光のシャワーとなって降り注いだ。

僕はしっかりと目を閉じて弾いた。少しでも瞼を開けると、僕の心を置き去りにして勝手に競り上がってくる透明な水滴を止めることは困難だと思ったから。

胸の苦しみはピアノの旋律と共に少しずつ和らいでいった。僕は自分が奏でる音で自分を癒した。突然襲った悲しみは、強制的に心の奥深くにねじ込めなければならなかった。なるべくフラットに、叙情的にならないように慎重に奏でていった。

不協和音は僕の心と共鳴する。その歪な調べが今の心情にしっくりくる。美しく、切なく、苦しい。なぜジョーはこの曲が好きなんだろう。まるで僕とジョーのようじゃないか。どこまで行っても交わらない。綺麗な平行線でもない。歪に重なり合いながら違う方向を向いている。なんて狂おしい響きなのか。めちゃくちゃにしたいのに、その調べは美しすぎて誰にも手がつけられないほどに甘く香り立つ。僕の頭の中でジョーの苦いタバコとベチバーが混ざり合って全身に絡みついて離れない。


僕の指先からあふれ出る音の粒たちが、キラキラと光を放ちながら弾けて鍵盤の上を転がり踊る。その時不覚にも僕の目から一粒の涙がこぼれて落ちた。でも誰も僕が泣いているなんて気づかない。気づくはずもない。涙のわけはこの僕にだってわからないのだから。


息を呑むようにして聴いていた客たちは、僕の演奏が終わると一瞬の沈黙の後、スタンディングオベーションで僕とジョーと美しい人を讃えた。


僕の奏でた音のシャワーを浴びた二人は、見つめ合い手を取り合って軽くキスをした。

そしてにこやかに客たちに礼を言い、ジョーは一人立ち上がって僕の方へと歩を進めた。

スローモーションでジョーが近づいてくる。その瞳は今まで見たことがないくらいにやさしい微笑みを称えていた。


そんな目で見つめないで。そんな幸せそうな顔をしないで……

目の前にきたジョーは、僕一人だけに特別な笑顔を見せた。

一瞬、僕の瞳に滲んだ涙に気がついたジョーは、物言いたげに目を細めた。言葉はなかった。誰にも気付かれないように、僕にだけわかる静かな微笑みをくれた。

そして初めて会ったあの日のようにスマートに右手を差し出した。


その瞬間、僕の心に密やかに育まれていた「 幸せのかけら 」は、光の粒となってジョーのてのひらへとこぼれ落ち、儚く消えていった。




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