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Cafe SARI . 8 「 青空の下で 」

今年のゴールデンウィークは最長10日間らしい。

ウイークデーが就業日の一般企業は、間に入る月曜日と金曜日の平日の2日間に有給などを取れば10日間という、文字通りの大型連休になる。沙璃は日曜祝日を定休日にしている CafeSARI のお休みをどうしようかと迷っていた。一人で家に籠っても仕方がないし、特に旅行したい場所もない。月曜日からは店を開けることにしようか。

ゴールデンウィークと言っても皆が皆、家族で何処かへ出掛けるわけではない。ここ東京で、いつもと変わらず一人で静かに過ごす人もいるだろう。仕事の人だっているはずだ。夜になってフラッと外へ出て、お酒を飲みたくなる人もいるに違いない。そんな都会で暮らす孤独な大人たちの止まり木のような存在でありたい。そして案の定、実際にそんな孤独な大人の一人に懇願されてもいた。


「沙璃さん、連休どうするの?お店、一週間ずっと閉めちゃうの?」

「う~ん、考え中。暦通りにするかどうか。」

「え~、中3日も休んじゃう?おねがーい、お店開けてよぉ」

「なに、麻里子さん10日間お休みでしょ?ゴールデンウィーク何処へも行かないの?」

「そうよ。だって…彼は家族と一緒だもん。どうせ会えないわよ…。だからねぇ、お願い!あたし毎晩来るから開けて!この通り」

麻里子は両手を合わせて頼み込んだ。

「そっかぁ、じゃあ開けようかな。私もどうせひとりで暇だしね。麻里子さんのために美味しいもの作って待ってるわよ」

「やったぁ!沙璃さん、大好き!」


園田麻里子は沙璃と同い年の40才。アパレルの商社で海外ブランドをいくつか担当するバイヤーの仕事をしている。才色兼備を絵に描いたような麻里子は身長168cm、モデルのような小さな顔に主張ある眉と少しつり上がったアーモンド型の目がキリリとして彼女の強い意思を感じさせる。メイクはいつもナチュラルでファンデーションはほとんど使っていないようだ。素肌の美しさを際立たせるように、印象的なその目元を強調するマスカラと真っ赤なルージュが、コケットな彼女の魅力を上手く引き立てている。

仕事柄麻里子はいつもお洒落だか、華美とは対極のシンプルなファッションが好みのようだ。今日もダークネイビーのミニマムなパンツスーツがとても似合っている。インナーのシルクシャツの胸元を大胆に開けているが決していやらしくない。まるでニューヨーカーのようにこなれた印象だ。背中の中程まである漆黒のストレートヘアは艶やかで、常にトリートメントが行き届いているのがわかる。英語が堪能で美人、その上スタイルの良さを活かした洗練された着こなしが自然と人目を引き付ける。ここ CafeSARI の常連客の中にも麻里子の隠れファンは何人もいた。中には沙璃に麻里子を紹介してほしいとお願いしてくる男性客もいたが、沙璃はやんわりと誤魔化していた。ここで偶然出会い、お客同士が自然な会話の中で仲良くなるのは大いに結構だが、うまくいかなくなった時にどちらかの足が遠のいてしまったり、トラブルの原因をオーナー自ら作ることは避けたかった。今夜も麻里子の美しい姿を、チラチラと遠目に気にかけている男が数人いることは、カウンター越しの沙璃の場所からはよく見える。


そんな「無敵」とも言える麻里子にも、唯一のアキレス腱があった。それは、現在麻里子が「道ならぬ恋」をしていることだった。歪な恋には悩みも多いらしく、同い年の沙璃によく相談や愚痴を持ちかけてくる。沙璃はこれまでの人生、不倫というものをしたことがなかったので、麻里子の気持ちに同情することは難しかった。だが人を好きになることは悪いことではないので、各々の考えを尊重しながら、いつも沙璃なりのアドバイスができればいいと思っている。



連休中日、5月3日火曜日。午後8時半。

毎日来るという約束はどうしたのか、連休に入ってから毎日麻里子の好物を作っていたにもかかわらず、一度も顔を出さなかった張本人がようやく CafeSARI のドアを開けて入ってきた。今夜の茄子のラザニアはどうやら無駄にはならなかったようだ。ちょうど焼き上がってチーズに程よく焼き色がついた。

「いらっしゃい。麻里子さん、連休入っても来なかったじゃないの。毎日開けて待ってたのに。何かあったの?」

「沙璃さんごめんなさい。実は、もしかすると彼から連絡があるかもしれなくて、動けなかったの」

「と言うと?」

「連休前に会った時、彼の奥さんがこのゴールデンウイークは実家に帰るかもしれないって言われて。もしそうなれば私と伊豆の温泉に行こうって言ってくれてたの。だから私、いつでも出られるように4月29日からスタンバイして待ってたのよ。でも、結局ダメだった。さっき彼からメールが来て、奥さんの体調が悪くて実家行きは結局無くなったって。この5日間の期待と不安の無駄な時間、返してって言いたいわ」

麻里子は怒りの余り今にも泣き出しそうだ。沙璃はとりあえず麻里子がいつもオーダーするハーパーソーダを手早く作って出した。

「これ飲んで。とにかく落ち着こう」

「ありがと。沙璃さん、ほんと、ごめんね。毎日来るなんて調子のいい事言っておいて」

麻里子は申し訳なさそうに俯いた。いつもの颯爽とした自信満々の姿は微塵もなかった。髪もパサついて艶がなく、ブローしていないのが一目瞭然だ。普段の麻里子には考えられないことに目の下に青いクマができている。この5日間、きっとあまり寝ていなかったのだろう。四十路の女が無理をするとこうなる。常に頑張ってコンディションを整えている人は尚更その高低差が現れやすい。いつもキラキラした麻里子も、年齢なりに普段は頑張ってメンテナンスしているということなのだろう。精神的に不安定になったり落ち込んだりすることがいかにダメージが大きいか、この歳になると身をもって実感する。

ただならぬ麻里子の様子に沙璃はいてもたってもいられず、いつもなら絶対に口にしないような言葉を思わずぶつけてしまった。

「ねぇ麻里子さん、どうして彼じゃなきゃいけないの?」

麻里子は目の前のグラスの中に生まれては消えてゆく小さな泡をじっと見つめながら、必死に涙を堪えている。しばらくの沈黙のあと、ようやく落ち着きを取り戻したのか、静かに語り始めた。

麻里子の話を促すようなビルのピアノは今夜は少しナーバスな響きだ。

「あたしね、ものすごく頑張ってきたの。自分の価値を上げるために。仕事も男に負けないぐらい常にスキルアップの為の勉強も頑張ってきたし、外見だって少しでも衰えを防いで若々しく見えるように努力してきた。常に自分をアップグレードしなきゃって頑張ってきたの。でも、そんな女は男から見たらちっとも可愛くないのよ。気がつけば周りの同僚たちはみんな幸せな結婚をして仕事を辞めていったわ。でもあたしは諦めたくなかった。仕事も恋愛も、どちらも自分が納得できるまで頑張って、最高のパートナーを見つけようと思ってたし、見つかるはずだって思ってた。だってこんなに努力しているのに報われないなんて酷くない?」

「そうよね。麻里子さん、いつも頑張ってる。仕事はバリバリだし、見た目にもとても気を遣ってるのは私にも分かるわ。ほんと、同じ女性として尊敬してる」

「ありがと。そう言ってくれるのは沙璃さんも頑張ってるからよ。そうじゃない人から見たら、妬み嫉みの対象になることもあるわ。今まで何回足を引っ張られたりいじめられたりしたか。男も女も限らず、自分より目立つ人間や頑張って上を目指す人間は煙たがられるし敵視されることの方が多いのよ」

「そうなんだ。大変なのね。そんな厳しい中でよく頑張って来られたわね。私にはとても無理だわ」

「そんな中で、彼だけは私のことを褒めてくれたの。いつもよく頑張ってるねって。初めて私のことを認めてくれのが彼だった。唯一、私の味方になってくれたの」


麻里子が付き合っているのは同じ商社に勤める麻里子の上司、吉澤和也だ。一度だけ、仕事帰りに二人でここへ来たことがあった。吉澤はいかにもデキる商社マンという感じではなく、どちらかというと小柄で、とても穏やかで柔らかい印象の紳士だった。年は50過ぎくらいだろうか。こめかみの辺りに白い筋がちらほら見えたが決して疲れた中年という感じではなく、懐の深さを感じる穏やかな雰囲気が沙璃の目にも好印象に映った。二人は長年寄り添った夫婦のようにしっくりと落ち着いていて、決してベタベタするわけではないのにその信頼関係のような絆は側から見ていても自然と伝わって来るものがあった。それはいつも一人で来る時とは別人のような麻里子の様子にも表れていた。

一人で飲んでいる時の麻里子は、いつも何か見えないバリアが張られているような緊張感があった。周りの人間を寄せ付けないようなオーラとでも言うのか、背筋ををピンと伸ばし、何杯飲んでも決して乱れる事はなかった。それが吉澤と並んで飲んでいる時はとても女らしく、ハーパーソーダ2杯目でもう目がトロンとなるのだった。気を許す相手と飲んでいると、女はいつもより早く酔いが回るものだ。吉澤の優しそうな横顔に熱い視線を投げ掛ける麻里子はとても可愛い女の子になっていた。そんな様子を沙璃は少し心配しながら眺めていたのだった。


「でも、彼には家庭があるのよね。それって決して報われない恋だということ、分かってるわよね?」

「夫婦関係はもう何年も前から冷めきってるって言ってるわ。離婚話も出てるらしいの。でも、それがいつなのかは分からない。あたし、待ってていいのかな?沙璃さん、あたしどうすればいいの?」

とうとう堪えていた涙が溢れだした。自分磨きも仕事のスキルアップも、こんなにも一生懸命頑張っているのに普通の恋愛ができない麻里子。頑張っている自分を少し緩めて解放できる相手は、本当に吉澤しかいないのだろうか。


その時、店のドアが開いて客が入ってきた。以前から麻里子に好意を寄せているフリーカメラマンの成瀬時男だ。時男は仕事で主にファッション雑誌やアパレルメーカーのカタログなどを手掛けている。今日は仕事帰りなのか、機材の入った黒い大きなバッグを肩から下げ、顔は真っ赤に日焼けしていた。白いビッグTシャツにダメージデニム。足元はナイキのスニーカーというのが時男の定番ファッション。フリーのアーティストらしく、肩にかかるウエーブヘアがいかにも今どきでワイルドな印象だ。カメラマンは力仕事だと時男がいつも言う通り、Tシャツの上からでもはっきりと分かる厚い胸板と太い二の腕が逞しい。身長は180以上ありそうだ。ガタイのいい、見るからにパワフルな青年は、確か年は30代の半ばだったと記憶している。


「時男くん、おかえりなさい。仕事だったの?」

「こんばんは、沙璃さん。今日は一日撮影で伊豆に行ってたんだ。あぁ疲れた、ビールください」

時男は重そうな荷物を床にドサッと置くと、カウンターに座る麻里子から一つ間をあけたスツールに腰かけた。

ちらりと横を見て、いつもと違う様子の麻里子を察した時男は、小さな声でこんばんはと挨拶した。

「あ、時男くん、お久しぶり。ごめんね、あたし今日はお休みモードで冴えないでしょ。今ね、沙璃さんにくだらない愚痴を聞いてもらってたの」

「へぇ、いつもポジティブな麻里子さんが珍しいね。まぁ、人間いつもいつも上向きではいられないから。たまには愚痴もいいんじゃない?ここなら思いっきり吐けるでしょ。ね、沙璃さん」

時男は涙目の麻里子を気遣って、わざと明るく沙璃に会話をトスした。

「まあね、生きていればいろいろあるわよね。それにしても時男くん、ずいぶん日焼けしたのね。夏休みの小学生みたい。鼻の頭が真っ赤よww」

「そうなんだよ。伊豆の海で撮影してたものだから、日陰が全くなくてこんなになっちゃったww」

「伊豆に行ったんだ…。あたしもホントは今頃…」

麻里子は吉澤との伊豆旅行がダメになったことを思い出して、またウルウルし始めた。

時男はグラスビールを一気に飲み干し、一瞬思い詰めるような顔をした。そして身体を捻って麻里子の方に向き直し、しっかりと麻里子を見つめて言った。

「麻里子さん、明日、俺と伊豆に行きませんか?」

「へ?」

麻里子は泣き顔のまま驚いて時男を見た。沙璃は時男のただならぬ様子に、何か重大な決意のようなものを感じて黙って二人を見守った。

「伊豆に?あたし…と?」

「そう。今日行った伊豆の海がとてもキレイで。空は真っ青でデカくて、めちゃくちゃ気持ち良かったんだよね。あの海と空、麻里子さんに見せてあげたい!」

「……時男くん、ありがとう。そんな風に言ってもらって。心配してくれてるんだよね。今日のあたしはホントだめ。心も見た目もボロボロなの」

「いや、そういうんじゃなくてさ。俺、多分麻里子さんや沙璃さんから見たら年下の頼りないガキかもしれないけど、好きな人を泣かせるようなことは絶対しない。麻里子さんにはいつもステキに笑っててほしいんだ。俺、一応カメラ一本でメシ食っていけるようになったし、これからもっと力付けて頑張るし、だから絶対大丈夫です!……って、なに言ってんだろ。えーっと、その……、だから、」

沙璃と麻里子は顔を見合わせて吹き出してしまった。なんというストレートな。でも、そういうのも今の麻里子にはかえっていいんじゃないかと沙璃は微笑ましく感じた。

「ステキなのはあたしじゃなくて時男くんよ。そんな風に真っ直ぐに想いを言葉で伝えられるなんて、とってもステキなことだと思うわ。沙璃さんもあたしも、時男くんのことガキだなんて思ってないわよ。あなたは立派な大人だし、自分の仕事に誇りを持つカッコいい大人の男よ。ねぇ、沙璃さん」

沙璃はウンウンと笑顔で頷いた。時男から見たら高嶺の花のような麻里子だが、年齢など関係ない。今自分が持っているものを全てさらけ出すようにして話す時男を、沙璃はとても眩しく見つめた。麻里子の良さを分かっているのは吉澤だけじゃない。これからもっともっと麻里子の良さを知ろうとして必死にアプローチしている時男を、沙璃はとても応援したくなった。

「行ってらっしゃいよ、麻里子さん。私、いいと思う!」

「……そうね。伊豆の海、青くてデカい空、見たいわ。あたし」

「ぃヤッタァ!」

時男はとてもわかりやすく、ガッツポーズをして全身で喜んだ。



次の日、早速二人は伊豆へ出かけた。浜辺で波と戯れる麻里子を、時男は夢中でカメラに収めた。たくさん笑ってたくさん太陽の光を浴びた。麻里子はこんな風に陽の光を浴びながらデートしたのはいったい何年ぶりだろうと思いを馳せた。

吉澤とのデートは決まって夜の数時間のみ。どんなに離れ難くとも、朝の光を浴びる前に吉澤は麻里子の前からいなくなる。そのことが当たり前すぎて何も感じなくなっている自分に、麻里子はこのごろ嫌悪感を抱き始めていた。吉澤の煮え切らない態度を幾度となく見過ごしてきた自分への嫌悪。それは頑張ってきた自分に対しての申し訳ない気持ちと重なり、出口のない迷路に入り込んでいるような、ぐるぐるとトグロを巻く蛇に睨まれているような、なんとも言えない居心地の悪さだった。こんな自分が嫌だ。こんな感情を持ちながら、人を愛することなんてできない。でも、そんな麻里子に優しくしてくれるのはこれまでは吉澤しかいなかった。いないと思っていた。


それから数日後、CafeSARI に時男が現れた。沙璃は逸る心を押さえつつ、麻里子との伊豆デートのことをやんわりと尋ねた。

「どうだった?楽しかった?」

「沙璃さん、これ、見て」

時男が差し出したのは、伊豆の海で撮影した麻里子のポートレートだった。

「現像に時間がかかっちゃって。でも、納得いくものができたよ」


時間が止まったのかと思った。写真の中の麻里子は、いつもCafeSARI で見せるクールな大人の女の佇まいとは全く違っていた。青空の下、波打ち際で遊ぶ麻里子は、まるで少女のように無防備な満面の笑みを湛えていた。こちらに向かって大きく笑う弾けんばかりのその笑顔は、間違いなくカメラのレンズを覗く時男に向けられたものだ。こんなにかわいい顔で笑うんだ。こんなに愛しい表情で見つめるんだ。麻里子という人はこんなに透明な、こんなにピュアな輝きに満ち溢れているんだ。そう思ったら嬉しくて自然と涙が溢れてきた。そこには本当の姿の麻里子が写し出されていた。


「時男くん、ありがとう。私からもお礼を言わせて。あなたなら、麻里子さんを救えると思う。あなたなら、本当の麻里子さんを愛せると思うわ」

「沙璃さんにそう言ってもらえると思ってたよ。俺の方こそ、ありがとう。もうすぐ麻里子さんも来るよ。この写真をここで見てもらおうと思って」

「先に見せてもらって大丈夫だったの?麻里子さん、気を悪くしないかしら」

「大丈夫。麻里子さんが言ったんだよ。先に沙璃さんに見てもらってって。そしてその反応をしっかり見ておいてって」

「それって、どういうこと?」

「俺に撮られた自分がどんな表情をしているか、それを見た沙璃さんがどんな顔をするかで麻里子さんは何かを決めるそうだよ」

「そっか。ならこの涙は無駄じゃなかったってことね」

時男が力強く頷いた。


こんな風な出会いがあってもいいじゃないか。世の中、どこでどんな風に出会うかによって、男と女は幾通りもの運命を歩む。全く無駄のない、寄り道のない人生もあるだろう。同じ場所で暗闇の中をぐるぐると回り続ける人生もあるだろう。どんな道でも、どこに迷い込んでも。ここではないと感じて、この人ではないと気付いて、また新たな道を歩き出せるなら。本当の笑顔を取り戻すことができるなら。

何度だってやり直せる。そう思える時が、真の人生のスタートの日なのだ。


「もうそろそろ来るかな」

時男が嬉しそうにポートレートを眺めながら呟いた。

沙璃はワクワクしながら、麻里子のためにハーパーのボトルに手を伸ばした。



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