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ある女の決断 / 麻美の場合

私は聞き分けのいい女だ。
昔からそうだった。小さい頃から人の顔色を見て育ってきたせいで、コミュニケーションは言葉よりもノンバーバルな、相手の表情や息遣いや目の動きで判断できる。
人との関係性において、相手に「気まずいな」「しんどいな」と思う感情を少しでも見つけると、自分からスッと身を引くのがデフォルトだった。
いくら自分が相手のことを好きでも、向こうにその気がないと察知した瞬間に冷める。いや、冷めるというか、「あ、これ以上はムリなんですね。はい、わかりました」という具合に、気持ちのシフトチェンジを強制的に自分に課してしまう。人から嫌がられることは何よりも自分のプライドを傷つける。
普段はポジ思考の私だが、そういった人からのほんの少しの拒否反応が、極端に自分を卑下する要因の最たるものだと自覚している。

そんな私が、唯一、半ば強引に相手との時間の共有を欲したことが、過去に一度だけある。
それは私が私であるための、いわば決断するために必要な時間だった。


「今日、オレ風邪気味なんだよね」
「なに?そうなの?じゃあ日にち変えればよかったね」
「う、ん、いや、まぁ大丈夫だけどね。この後って……どうしたい?」

麻美は洋一の顔色をじっと伺った。
少し熱っぽいと言うけれど、洋一の様子はいつもと変わらない。

なに?帰りたいわけ?

月に一度のデートが多いのか少ないのかは麻美には分からない。
ただ、普通の恋人同士がするような、休日の明るい昼間の時間には会ったことがない。いつも仕事終わりの待ち合わせ。時間は20時から21時に五反田か目黒あたりの居酒屋やイタリアン。たまに高級な串カツや鉄板焼きを食べる時もあるけれど、食事の後は決まってホテルへ。次の日が休みならまったりと気怠い午前を共に過ごし、ホテルを出て駅近くのカフェで軽いブランチをとってJR五反田駅のホームでお互いの帰路へと反対方向へ別れる。
そんな関係が半年ほど前から続いている。

洋一のことは好きだ。好きだからこそまた会いたいと思うし自分のことももっと知って欲しいと思う。
でも何故か、洋一は自分の話ばかりして麻美のことは何一つ尋ねようとはしないのだった。
麻美は初めの頃はそんなことにも気づかず、自分のことを一生懸命に語って、自分という人間を少しでも理解して欲しいという彼のアピールが好ましいと思った。

私にもっと好きになって欲しいんだな。

そう思うと余計に洋一が愛しく思えて、麻美は彼の話に聞き入った。
元々受け身の性格で、相手がよく話す人だととても楽で、自分のことを多く語るのは得意ではない。だから余計に麻美は洋一のことを気に入ったし、きっと自分たちは相性がいいのだろうと思っていた。

いつも会う時は洋一から連絡が来た。そして食事の時間ももったいないと思うほど、洋一は麻美のことを欲した。しかしそれでは大人としてみっともないし、余裕のあるところを見せたいがために、洋一は毎回食事の場所を吟味した。
時間をかけて食事をし、お酒を嗜み、その間たくさん話をした。
ほぼ、洋一が自分の身の上話や仕事のことや友人との関係性などを一方的に麻美に話している状態だが、その話がとても面白く、麻美を飽きさせないし、いつも笑いが絶えない楽しい時間だった。

洋一との相性はとてもよかったのだと思う。
いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
今となっては何が答えなのかは分からないけれど、いつもなら少しでも翳りの見える態度を相手から受け取ると、さっさと見切りをつけてこちらからフェードアウトするはずの麻美が、洋一にだけはいつになく執着してしまうのだった。

先月のデートの約束を反故にされた時、麻美はいつもと違う何か不穏な空気を感じた。
突然のキャンセルの理由は仕事の付き合いだと言ったので、それ以上ツッコミようがなかった。駄々をこねるような若さも可愛げもなく、聞き分けのいい大人の女を装うことで、麻美は自分のプライドをなんとか保つことができた。


今夜は2ヶ月ぶりのデートだった。
麻美はいつも以上に隅々まで自分磨きに勤しんだ。
昨晩はバスタイムを利用して、踵や肘の角質ケアを入念にし、デパコスの中でも特にハイグレードなスイスのラ・プレリーの保湿パックを顔とデコルテに施した。30代も後半になると以前に比べて胸も張りを失う。もったいないと思いながらも今夜は保湿パックに美容液のスキンキャビアを混ぜて、デコルテから胸までたっぷりと塗り込んだ。

麻美にとっては決して簡単な出費ではないけれど、毎回食事やホテル代を出してくれる洋一の気遣いに対するせめてもの礼儀、とでも言おうか、少しでも自分を磨いて、洋一の気に入る女でいたかった。

洋一はベッドの中の甘い時間、麻美をいつも褒め称えた。
まるで高校生並みだと言われた時にはおかしくて吹き出してしまったけれど、もしかしたら人に比べて自分は緩いのではないかと内心懸念していた5歳年上の女としての自尊心を巧みにくすぐられるのは、決して嫌な気持ちはしなかった。そして麻美も洋一の全てが自分にとてもフィットしていると感じていた。心もからだもこれ以上相性の良い相手を見つけるのはこの先ないかもしれないと思って、あらゆる方法を試したり工夫したりしながら、毎回お互いの満足度を上げる努力を怠らなかった。
何より、女として必要とされているという自負が、麻美をますます美しく輝かせていった。

ネイルもペディキュアも2日前にサロンに行ったので完璧だ。半透明の桜貝のような薄ピンクは洋一がこれまでで最も好きだと褒めてくれた色。髪も色艶良く、指通りもサラサラでしっとり。これ以上ないコンディションで今夜のデートに臨んだ。

それなのに。


洋一はどう見ても具合が悪いとは思えない。
一体何が言いたいの?

「今夜は泊まれないの?」
「いや、ん、まぁ、大丈夫だけど……」
「帰ったほうがいい?」
「あ、うん、いや、いいよ、別にどっちでも」

なんなのそれ。別にって。どっちでも、って。

私は“別にどっちでもいい“女なの?
今夜は私のことを欲しくないの?

それとも、この先ずっと、どっちでもいい女なの?

猛烈に腹が立った。
他にいい相手ができたのならはっきり言って欲しい。
何も言わずに、まさかこれっきりフェードアウトしようなんて思ってる?


「今夜は一緒にいたい」
「あ、うん、わかった……」

じっと洋一の目を見つめた。
それでも、その目は何も語ろうとはしなかった。



洋一の愛撫はいつもと変わらなかった。
熱っぽいと言いながら、洋一の身体はひんやりとしていた。
反対に麻美の身体は普段以上に熱く燃えていた。そしてそれとは対照的に頭の芯は冷めていた。

麻美はどうしても洋一の冷静な身体を熱く燃え上がらせたくて、いつも以上に激しく愛した。密着したお互いの身体はどこからが自分でどこからが相手のものなのかが分からないぐらいに溶け合っていた。
あまりの心地よさに、洋一はいつになく切ない声を漏らした。
その声を聞いて、麻美は更に洋一を攻め立てた。

なぜこんなにお互い欲し合えているのに“どっちでもいい”なんて言うの?
私以外にあなたをここまで愛せる人がいるっていうの?
絶対に私の方がいいに決まってる。だってほら、こんなにあなたは私を求めているじゃない。
なのになぜ?どうして?

麻美は半分意地になって洋一を執拗に愛し続けた。
最後には、もうこれ以上はかん弁してよと泣きが入って正気に戻った。

次の朝、JR五反田駅のホームで二人は向かい合った。

「また連絡する」
洋一は麻美に告げた。

「風邪は治ったの?」
「あ、うん、どうかな? 多分大丈夫だと、思う……」

「そっか。よかった」


スルスルと音もなく、麻美の乗る内回り線の電車が入ってきた。
車輌が巻き上げる風に麻美の長く艶やかな髪が流れた。

「じゃ、またね」

麻美は洋一の頬を軽く指先でなぞり、口元だけで少し微笑んで言った。



私はわかっていた。それが最後だと。
彼は揺れていたのだ。私と誰かの間で。
いや、もしかしたら何か他の理由があったのかもしれない、けれど。
私と何かで、揺れていた。

私でなきゃダメなら、そんな目はしないでしょう。
揺れているから、流されようと思ったんでしょう。

それじゃあダメなの。
私が、ダメなの。

私でなきゃダメなあなたしか、私はいらない。
だからもう。

これで最後。
選択権は、私にあるの。


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