潔く諦める
ここ数日間、ある一人の人に数人が振り回されて疲弊し、職場が混乱に陥った。
とてもとても疲れた。
毎度のことなのでもう慣れていることとはいえ、どうにも理解できないその人の思考回路について色々と考えてみた。
その人は、「人を思いやる」ということができない。なぜできないのだろうと考えた。
まず、人の痛みわからない。痛みといっても色々あるが、ここでいうのは身体的な痛みだ。心の痛みではない。いや、心の痛みはそれ以上に理解できないのでそれはもはや諦めている。
その人は痛みに対して鈍感だ。「痛みに強い」というのとも違う。あまり感じないのか気にしないのかわからないが、とにかく少々のことは平気なのだ。
なので他人にもそれを強要する。「それくらい大丈夫だろ」という。人を心配したり慮ったりということがない。
当たり前に様々な仕事を人に押し付ける。そして労いの言葉はない。
一応「おつかれさま」とは言うけれど、「それぐらい当たり前だからな」という強要を伴う上から目線の感情がありありと声や表情に現れる、心の籠らない「おつかれさま」だ。
思いもよらない意外な過去があったりして、何か心に深い傷を負ったことがあるのかもしれない。辛いトラウマを抱えているのかもしれない。などと考えるのは少し人が良すぎるだろうか。もしもそうだからといって、人に対して非情であることが許される訳もないのだけれど。
「人を思いやる」ができない人がいる。それを非情だとすれば悪いことだと思いがちだが、もしかしたら、そもそも「人に対する思いやり」自体がその人の中に思いつかない分野の心情と考えると、その人と私や他の人との「思いやり」の定義が全く違うのかもしれない。
いや、そうとでも思わなければやってられない。自分の中でその人に対して「なぜ?」という疑問ばかりが大きく膨らんでしまうからだ。しかしそれは私にとっての「なぜ?」であって、その人にとっては全く当たり前のことだったりしたらそれ以上どうすることもできない。
また、そのことについて話し合ってもきっと埒はあかない。長い年月をかけてその思考に至ったことを、今更他人が覆すことは不可能だと思う。
他人は変えられない。と常々思っている私は、自分を変えるしかないことをよくわかっている。でも、無理はしたくない。ストレスはなるべく少なくしたい。
なのでこう考えた。
きっと、人に対して「思いやる」ということを知らない人なのだろう。
知らないから気づきもない。気づきのない人にはかける言葉はない。
だから潔く諦める。その人に関しては「思いやり」ということを諦める。
その感情がない人なのだから仕方がない。そう考えると腹も立たない。仕方がないのだ。
感情とは人それぞれだから一概に「悲しい」も「嬉しい」も「辛い」も「楽しい」も、自分の尺度で話すことはできないのだ。だけれど、お互いに歩み寄るという気持ちがあれば、その相手の感情を「想像する」ことはできる。しかしその想像することを強要はできない。お互いに相手のことをもっと知りたい、仲良くなりたいという気持ちがあれば自然とできることなのだけれど。残念ながら私はその人と議論を重ねて理解し合いたいという気持ちは微塵もない。
だから、「そういう人もいるんだな」ぐらいに受け止めて、あまり深刻に考えないことにする。そうすることで自分の心を守ることの方がずっと大切なことだから。
潔く諦める。前向きに心を保つために。
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