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またね

私の職場は長い坂の上にある。出勤日の朝は電動自転車だというのに年甲斐もなく立ち漕ぎをして坂に挑む。挑むと書いてはいるが、ぐんぐん昇る感覚はなかなか気分が良く、実は嫌いじゃない。

ただ、そう広くない歩道を立ち漕ぎで「ぐんぐん」やるのは危ないし、何より恥ずかしい。よって車道の端っこで控えめに「ぐんぐん」することにしている。

定位置となった車道の左端に、その日は大きな観光バスが停まっていた。
そういえば近所の3年生の子たちが社会科見学って言ってたっけ。

追い越しざま車内を覗き見ようにも、座高が高くよくわからない。だが、バスの上から見下す視界には覚えがあった。15年前のあの日の景色。
ちょうど出てきたバスの運転手は長旅に備えてか、路肩で出発前の一服を始めた。

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大学2年生の春。私はニュージーランドへのホームステイのため、バイトと勉強漬けの日々を過ごしていた。

ニュージーランドという国に興味があったわけでも、英語が好きだったわけでもない。たしかに嫌いではなかったけど、根底にあるのは知的好奇心より何か意味のあることをしなければという焦りだった。
それが海外で自分を高めることならカッコイイじゃん!そんなノリ。

ハリボテの向上心と一丁前のプライド。
それは家族に対しては「大人として認めてほしい」という形で現れた。
昔からうちの両親は過保護なところがあって、付き合っている男の子と出かけようとすると、露骨に嫌な顔をすることもあった。
外泊なんてとんでもない。
彼氏と北海道だ、グアムだ、なんてはしゃぐ友人達が妙に大人っぽく見え、そのフラットや親子関係がうらやましかった。
ハタチを超えた娘への執着をみっともないと思っていた。

「ホームステイは自分の勉強のために行くんだから、お金も自分で用意するから。」

だから放っておいて、と心の中で呟く。私はバイトに明け暮れた。

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私が用意できる金額だと、留学エージェントの提供する一番短い2週間のホームステイしか選ぶことはできなかった。
ワーキングホリデーならもっと選びようがあったはずだが、異国で働くなんてそんなガッツはない。
私の2週間ステイは語学学校への通学もなく、郊外に住むホストファミリー宅でのんびり過ごすだけ。たまにペットのネコと戯れ、ニワトリにエサをやるのみ。つまりほとんど遊びである。
それでも費用を振り込んだときには大きな達成感があったし、何かが変わる予感があった。

ただ、当然一括で振り込んだお金だけで済むわけはなく、現地で過ごすための費用もあれこれ掛かる。
私はもうすっからかんだったから、両親が負担してくれることになった。
また、日本の夏はニュージーの冬〜春。季節外れの冬服が必要になり、結局防寒具や衣類も結局買ってもらったよう記憶している。

だけど都合の悪いことは見ないことにして「いまだにお小遣いをもらっている同級生より、私は自立している!」なんて心の中でふんぞり返った。欺瞞である。

崇高な知的好奇心は何処へやら。
ホームステイなんて大層なこと言ってるけど、自分の大人であることを証明するための盛大なパフォーマンスだったのだと今ならわかる。

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出発の日。私は友人に借りた大きなトランクを押しながら、空港行きのリムジンバスに乗るため、バス停に向かった。

寂しさは全くなかった。
それなのに、母が見送ると言って付いてきた。

「来なくていいよ。今日も仕事だし、朝は忙しいでしょ?」
「ホームステイって言ってもたった2週間なんだし」
「バス停まで10分だよ?見送りなんて大袈裟だよ」


精一杯大人ぶって、見送りは不要だと主張する私に対し、母は「でも、一応ね」と言って付いてきた。今思えば当然なのだけど。
生意気な私は「過保護だなぁ」くらい言ったかもしれない。

ゆとりを持って家を出たせいで、ずいぶん早くバス停に着いた。
「寂しいな」とか「頑張るね」とか大切なことは全く言わず、まるで日帰りバスツアーでも行くような何でもないテンションで、大した意味を持たない会話を交わし時間をやり過ごす。
スカスカな時間の後、やって来た白とオレンジ色のバスに乗り込んだ。

***

独特のバスの匂いが漂う座席に腰を下ろし、窓を見ると、母がこちらを見ていた。目が合うと母は顎のあたりで小さく手を振った。

え、バスってこんなに高いんだ、と思った。
母がずいぶん低いところにいたから。

母は出発までの数分間、一度も目を逸らさず、困ったように笑ってこちらを見上げていた。
言葉が届かぬ状況で相手を見つめるのは恥ずかしいもので、どうして良いかわからなかった。
だから、足元のネットにペットボトルを入れたり、鞄からガイドブックを出したりして、わざと母から目線を外した。

だって、そのまま母を見つめ続けたら母が目を潤ませそうな気がした。
そんな母を見たらどうしたらいいかわからないし、なぜだか私まで泣いてしまいそうな気がして怖かった。

母はバスが出た後も、ずっとこっちを見ていた。

***

20歳の私は早く大人になりたくて必死だった。

そのくせ「母の愛」と聞けば、頭に浮かぶのはバス停で見下ろした母の姿。たった2週間の別離だというのに、大袈裟なのはどっちだって言うんだ。

自立心と甘えがせめぎ合い、私は暖かい火の灯る軒下で自由を主張する子どもだった。一歩踏み出せば雨も雪も降ることを知っていたから、出してもらえないことにして、親を責めた。
そんな反抗期をずいぶん長く送っていたように思う。

結婚して家を出た夜や、出産のため分娩室へ向かう病院の廊下など、人生の帰路で母とはいろんな「またね」を交わした。
だけど、あのバス停の「またね」より印象的な別れはまだない。


今だって、母の愛が何たるものなのかはわからない。
だけど確実に言えることは、きっと私も母とおなじ顔で子どもを送り出す日が来るだろうということだ。
そのときはかつて母がしたように、子どもの色んな感情をまるっと引き受け、目を逸らさず彼らを見つめられることだろう。

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