【読書メモ】メキシコ先住民女性の夜明け
『メキシコ先住民女性の夜明け』ギオマル・ロビラ著、柴田修子訳、日本経済評論社、2005年。
本書は、スペインのジャーナリストのギオマル・ロビラ(Guiomar Rovira)さんの邦訳書です。この本を「伝統と束縛」に着目して読書メモを書いてみたいと思います。着目するきっかけとなったのは、本書の訳者あとがきで言及される次の一文です。
先住民というと『伝統社会に生きる人々』というイメージを持たれがちですが、伝統は不変的なものとは限りません(p. 289)。
本書では、メキシコの先住民コミュニティの女性たちが、口々に「よい慣わし」と「悪い慣わし」について言及する場面があります。例えば、ある女性は次のように話します。
慣わしのすべてがいいわけではないわ! 悪いのもある……『チョポル』というのは、幼い女の子を泣くのもかまわずにお嫁にやるという意味で、尊重すべき慣わしではないわ。私の村の『レク』という慣わしは、女性が大人になったときに結婚するかどうかを決められるというもの。これは尊重すべきです(pp. 280-281)。
コミュニティで続いてきた「慣わし」という不文律のもと、虐げられてきた女性たちが、知識を得て、学ぶことで目覚め、自分たちがおかれている状況について再考し始め、権利を求めるようになります。いわゆる「伝統的な」社会においては、それが慣わしである、伝統である、という理由のもとで、その伝統が果たして本当に守られるべきなのかどうか、その伝統によって誰かが苦しむことになっていないのか、そうした伝統を批判や検証するに至らないことがあります。
そもそも「伝統」というものが、固定化された不変なものであるという考えは間違っているのかもしれません。祖先の時代から受け継がれてきた伝統は、その時代ごとの状況や世相に影響を受け、大きく変化することもあれば、そうではなくてもマイナーチェンジしていることは十分にあります。こうした「伝統は不変である」という考え方は、特定の人物やコミュニティへの「束縛」を生み出すことがあります。この束縛は、コミュニティのメンバー間だけでなく、外部の者が「伝統的な」コミュニティを見るときにも起こりうるし、それはまた先住民に限られたことではありません。
ここで少し、僕が、アメリカ合衆国と国交を回復した直後のキューバを訪れた時のことに触れたいと思います。
よく観光客がキューバに対して投げかける言葉に、「キューバが変わってしまうのが寂しい」というのがあります。アメリカ合衆国と国交を回復したことによって、国内にアメリカ資本が流入し、キューバの街中にマクドナルドの店舗が並ぶようになるのではないか、といった危惧から、ハバナの「古き良き」街並みが失われてしまう前に、キューバを訪れないといけない、と言う人を当時は見かけました。
でも、実際に訪れて僕が感じたことは、ハバナは「古き良き」街並みと言えば聞こえはいいけれども、路地に入れば道路は穴ぼこだらけの、要するに「汚い」街並みだと感じました。通過者でしかない観光客がほんの一瞬訪れたときに感じる「古き良き」街並みと、現地でこれまでも、そしてこれからも日常を生活する人びとにとっての「汚い」路地、両者の間には、その認識に大きな隔たりがあります。現地の人びとが生活の向上を望むのであれば、そのために必要なインフラを整えることを含めて、街並みの変化は必ずしも寂しいことではないとも言えます。そして実際に、そうした発展を望む人もいます。
外部者からのまなざしの、「古き良きものは残しておいて欲しい」という、ある種の「束縛」の感情は多かれ少なかれ、いろんなところで存在しているような気がします。
「先住民」であれ、「開発途上国」であれ、実際に現地で生活するわけではない「先進国」をはじめとする外部者による「伝統」「慣わし」「古き良き」などの言葉によって、実際にそこで日常生活をしている現地の人びとを、物理的にも精神的にも「束縛」しうることがあるんじゃないだろうか。そんなことを読みながら思いました。
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