非個人性を中心に個人の私を使っていくこと(目覚めたその先に)

自分は「人間」になり切っている霊的存在だと、うすうす、またはガッツリ気づいているみんなー! こーんーにーちーは! 
今回の話題は、今年(2019年)の2月に霊的な目覚めについて説明した記事◆「目覚め(解除)の段階と、創造のスタートライン」の、さらに先を語る内容だ(リンク先は私のブログ内にあり、全文読める)。記事では、3つの段階に分けて、目覚めの度合いを説明した。
ここでは、最終段階である第三段階に至ってから、起こることを語る。

目覚めについての理解を定着させることはもちろん、すでに目覚めを経験しながらも、その先を知りたい方へ捧げる内容だ。目覚めた後はどう生きるのか、何が違うのかという疑問への本質的答えにもなる。
また、目覚めた後は平和だが面白みのない「聖人」になるのではと誤解し、退屈さを想定している人は、その思い込みを解除する内容になるだろう。

エゴの観念をアンインストールしている間は、非個人性にこだわる傾向がある

私たちが眠っている間に見る「夢」を例に挙げると、自身の見ている夢だと気づきながら活動する明晰夢という現象がある。それと同様に、この現実についても「自身の意識の中で起こっている夢だ」と認識した後、夢(現実)そのものが終了するわけではない。
夢は続くが、あなたが無意識的にではなく自覚を持って、夢を創造するようになるのだ。

その過程で、自分自身をエゴ(地球上の、分離した、いちキャラクター)と思い込む「アイデンティティーの誤り」を正す期間があるが、これが完了するまでは非個人性を重視する傾向が出る。ひとりひとり切り離された「個」であるという幻想から、「すべて」である真の自己へと、自己認識の重心を移している最中のことだ。

私の経験から言ってもその期間は、自分の個性をあまり前面に表現したくはなくなる。それまでのものの見方という、色付きのフィルターを透明に戻していく作業をしているので、個々の色である個性をわざわざ主張することに興味が失われるのだ。透明であることを第一にしたい、という心持だ。自然とこぼれる個性はあるが、「あえて」そうする意図は生まれない。

一方で、普遍の真実や非個人的な概念を語ることは、まさに望んでいることとして快適に感じられ、そうした活動との蜜月期間にもなる。他者に伝えながら、自分自身の学びも強化されるのだ。

しかし、それで終わりではない。その時期が過ぎると、自身の内から「非個人性へのこだわり」を捨てる時が来たと告げられる。そこに安住することはゴールではないのだ。
これについて、「書く」ことと絡めながら簡潔にふれたのが、noteに挙げた◆「ひとり立ちせよと背中を押されているような昨今。あなたの表現で、Let it burn.」である。

逆説的なのだが、こういうことだ。
「非個人性にこだわる間は、エゴの影響をまだ恐れている。その段階を過ぎると、エゴ中心にでなく非個人性から『私という個人色』を利用できることがミッションとなる」

この人生で選んだ(設定した)、個人の私の活用。それは映画の中で配役をきっちり演じるようなものだ。エゴの管理下にある個人としてではなく、真の自己という土台から「今あるキャラクターを百パーセント活かす」ことを指す。(言う間でもないが、エゴを自己と同一視している間は、あなた自身を百パーセント生きることはできない。映画のたとえでいえば、自分の役をこなすこと以外に目が行って、他の役のまねをしてみたり、役割から逸れたことをしたりする状態だ。)

表層的には、この概念を理解している人は多いだろう。目新しくはない。私にとってもそうだった。
ところが、それが一体どういうことなのか、どういう感じがするものなのかを「実際に生きながら知る」ことはできていなかったと、今ならわかる。
これは非常に面白く、たとえば歴史に登場した先人たちについても別の見方が生まれてくる、新鮮な体験なのだ。

個人の目的は存在しない。全体性から示される配役を生きる者になる

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