02 杉本通信 ~言いおおせて何かある~
こんにちは
暦の上では春が来ているはずなのに、仙台はまだまだ寒いです❄️
さて、前回は研究についてのお話だったので、今回は日本美術らしい内容をお送りしたいと思います。
浮世絵
東洲斎写楽「二代大谷鬼次の奴江戸兵衛」
皆さんは浮世絵についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
浮世絵と言えば、
独特なタッチでアーティスティック、まさにクールジャパン!
と考える方も少なくないと思います。
浮世絵の独特な表現に注目するのもおもしろいですが、
今回は浮世絵を通して、江戸時代の価値観に触れてみたいと思います。
下品な浮世絵…?
初代歌川豊国の「○勢○百○図」というのは著名な作品のようだが、とにかく下品。なぜか。顔の隈取りの色が濃く、表情や姿態もオーバーで上品さがない。版本の春画もここまで下品ではない。ちなみに歌麿筆と言われているような肉筆の春画も多くは明治以降。濃いめの紫色など、使用される色に江戸時代には見ないものがあり、これを科学分析をすれば特異な結果があらわれるであろう。つまり天然絵の具ではないから、彩度が高く下品に見えるのである。(「杉本通信」5月15日号より)
「浜もの」や「大和みやげ」という言葉があります。
これらは幕末の横浜を中心とした土地で外国人相手の土産物としてつくられた工芸品などを指します。
浮世絵の分野でも、開国以来、海外受けを意識した作品が多くつくられるようになりました。
このような経緯で生まれた作品は、杉本に言わせれば「下品」。
「○勢○百○図」は初代歌川豊国の作ではなく、海外受けを意識した別人の手によって、後の時代につくられた作品なのかもしれません…
(一応伏字にしています、興味がある方はぜひ調べてみてください笑)
日本の美術作品はつくられた当時の人々の価値観を反映しています。
つまり、江戸時代につくられたとされる浮世絵は江戸時代の価値観を反映しているはずです。
それでは、江戸時代の価値観とはいったいどんなものだったのでしょう?
「言いおおせて何かある」
これは日本人の感性に関わる問題なので言い置いておくが、江戸時代の日本人は「いき」などの語で表現されるように、全てを言い切ったり、描き切ったりすることは下品という価値観のもとで生活していた。都会であればあるほどそうである。
松尾芭蕉は誹諧の精神について、「言い仰せて何かある」、つまり、すべてを言い尽くして何がのこるのか、といった。これは京都の「ぶぶ漬けでもどうですか」とも同じだ。
すべて言い切る、描き切って相手に伝えるのは、野暮であり、下品なのである。
言いたいことを比喩、隠喩、暗喩で伝えるのは、日常生活を快適に、もっと言えば些細な争いを起こさないために潤滑油として必要だからである。
これがすなわち日本人の文化性であり、逆に露骨な表現は下品とみなされる。(「杉本通信」5月15日号より)
松尾芭蕉の「言いおおせて何かある」という言葉からは
「五・七・五という限られた字数の中で無限に広がる世界を言葉にしきることはできないが、あえて言い切らないことで、句に無限の広がりを持たせることができる」
という考えがうかがえます。
余談ですが、俳諧の世界は美術史と密接に結びついています。
例えば、絵画においては俳画というジャンルが存在しますし、与謝蕪村など画家として活躍する俳人もいました。
与謝蕪村「新緑杜宇図」
江戸時代には俳諧の世界だけではなく社会全体に、「あえて言いきらないで含みを持たせる」という振る舞い方が浸透し、それが「粋」「上品」なものとして認識されていました。
あえて描かない
この価値観は美術作品にも見出せます。
こちらは歌川広重「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」という作品です。
描かれているのはお茶屋か遊郭の一室ですが、部屋にいるはずの人間の姿はどこにも見当たりません。
外を見ているのは飼い猫でしょうか。
時間帯は夕方。外には酉の市で買った熊手を担いで歩く人々が見えます。
畳の上には熊手の形をしたかんざしが。
画面の外で、これから客を迎える遊女が一息ついているのかもしれません。あるいは「私も酉の市に行きたいな~」と思っているのかも。
表現されていない部分があることで、自由に画面の外の世界を想像することができます。
このように、江戸時代では表さないことで広がりを持たせるということが「粋」だったのではないか、と私は思います。
ありがとうございました
今回は浮世絵を通して、「あえてすべてを言わない」という江戸時代の価値観に触れてみました。
一見派手なだけ、ユニークなだけに見える浮世絵にも、粋な表現が隠されているのです。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
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