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花街に帰りたかったあの頃は

見てくださっている方もいるかもしれないが、最近、2015年頃から撮り溜めた花街跡巡りの写真を載せたインスタグラムをやっている。

とはいってもこの10年近くずっと続けてきたわけではなく、病的な熱意を持っていたのはせいぜい2018年頃までで、最近は旅行のついでに時折立ち寄る程度になっていた。
ここ半年ほどでその熱が再燃したのは、かんなみ新地の取り壊しに伴い現地を訪問したことがきっかけで、同時にインスタグラムを始めたためでもあったが、それが過去の自分を振り返る良い契機ともなった。

* * *

私が20歳前後の頃(もう10年以上前になるが)、あの頃はまだ今ほど「昭和レトロ」にはまる人もいなければ、「花魁コーデ」なんて言葉もなく、もちろん鬼滅の刃の遊郭編も存在しなかった。そもそもスマホもない時代、ネットが今よりも遠くにあったので、花街色街の存在は官能小説や、ディープなサブカルの世界にしか見られなかった。

20歳前の小娘だった私はそんな、今より狭いネットの海で出会った「花魁」「遊廓」の概念にどっぷりハマったのである。

水商売的なものはもちろん、エロティックなもの・男女を匂わせるものが一切タブーだった厳しい家に育った私が、なぜそんなにハマり込んでしまったのかは当時は全くわからなかった。ただただ頭から埋没するように、ネットや、吉原を舞台にした作品(当時発売された「さくらん」はもちろん、「花宵道中」や「吉原十二月」などが好きだった記憶がある)を読み漁り、花街全般というよりとにかく「吉原」を追いかけた。
赤線やスナック・ソープや援助交際的なものにはあまり興味がなく、あくまで吉原遊廓の、「家族から身売りされる」「世間に認められている(公的な遊廓)」「塀に囲まれて出られない」「衣食住は保証される」「体を売るが、豪華な暮らしができる(売れっ子に限るが)」という特徴に、異常に惹かれていたと思う。

惹かれていた、同時に心底恐ろしかった。
10代の頃には「昔の話」だと思っていた吉原が、今もその地にあり、しかもソープ街になっていることを20歳過ぎて知って、25歳頃に見に行ったことがある。
本で読んだ地名(通りの名前や大門、神社など)がそのまま残っているのを見て、心を動かされたりワクワクするどころか、恐怖で震えて涙を流し、走って逃げ出した。
その時明らかに自分が「おかしい」ことに気が付いた。

* * *

カウンセリングを重ねて、その原因として「思い出した」のは、祖母の記憶だった。
前の記事で軽く触れたことがあるが、私は祖母から何度か虐待を受けている。

単純な暴力・暴言もあったが、特殊だったのは性被害……というより祖母の性観念だった。


転勤族だった我が家が、母方の祖母の家に半ば同居する形で引っ越したのが、私が小学校に上がった年だった。
母は私が小学校2年頃から、趣味のワインの勉強(?)のため、週に1度くらい、1つ階下の祖母の家に私と弟を預けて、夜遅くまで出かけるようになった。父は多忙で帰りはもっと遅い。

祖母はいくつかアパートを持ち、比較的裕福だったはずだが、心根は貧しかった。いつも近所の人を妬み、噂し、貶め、「他人の不幸で飯がうまい」を憚らずに公言する人間だった。実家がさらに裕福な地主だったせいか、祖父も頭が上がらず、祖父の目の前で本人を貶す言葉を吐く。優しい祖父が好きな私はそれがとても嫌だった。

祖母は和室で私と遊ぶとき、よく私を転がして脚を開かせ、股を足で踏んだ。小学生ならではの綿のパンツの上から、祖母が皺だらけの扁平足で私の恥部を踏む。「やわらかくしてやるんだ」というようなことを言っていた。
痛くてなんとなく恥ずかしいが、「遊び」だと思って笑って流した。というか意識もしていなかった。

また、夜に預けられ一緒に風呂に入るときには、祖母は念入りに私の体をあらためた。
傷がないか、発育しているか、よくよく眺め、触られる。まさに検品のよう。そして泡立てたスポンジで私の体をよく洗う。痛いほどにゴシゴシ洗う。
小学校3年生に上がる頃には、私が発育したせいだろうか、性器を洗われるようになる。未熟な性器は強く擦られれば痛い、泡もしみる。ほとんど開いていない性器内に指を入れられればとても痛いが、泡で滑って転びそうな風呂場では、身を捩って耐えるくらいしかできない。抗議の声を上げると、

「こんなのこれからいくらでも体験するんだから、情けないこと言うんじゃないよ」

というようなことを言われた、記憶がある(もちろんセックスを知らない年頃の私には意味はわからなかったが)。
小学生なりに近所の男の子と付き合うようになれば「色気づきやがって」と満足そうに笑う。

そして祖母はよく話していた。「女の幸せ」について。曰く。

「女はね、どれほどいい男を捕まえるかなんだよ。そこらの金持ち程度じゃダメだ。結婚なんてしなくてもいい。とにかくいい男を捕まえて、その金でお姫様みたいに暮らすのが最高なんだ。あたしは爺さんみたいなただのサラリーマンとお見合い結婚しかできなくて不幸だった。あんたのお母さん(祖母の娘)も失敗だった、医者とか言ったってあんな田舎出の男(父のこと)と結婚してもう先はない。ほんとにバカなことしたよ。
あんたが頼りなんだ。あたしが色々教えてやるからさ、いい女になって、色気使って、バカで金持ちな男と結婚して、あたしたちを楽にさせてくれ」

こんなことをしばしば言っていた。
同時に、近所で暮らす代議士のお妾さんだと有名な人を指して、妬ましそうにこう言う。

「あの人はうまくやったね。元パンパンだかなんだからしいけど、こんないい場所に家一軒買ってもらって、しかも結婚してないから毎日男の世話する必要もない。時々男の世話して満足させて、金もらって……いいかい、あんな女になるんだよ」

まとめると、「”バカな金持ち”である男に惚れられ」「際限なく貢いでもらい」「衣食住与えてもらい」「自分は何もせずに体だけ開く」「お洒落ができて色気もある」……そんな女に私をさせるために、上記のようなわけのわからない性的な扱いをするのだと言うのだ。
今となっては「何言ってんだこいつ」で一蹴できるような思想が、当時は私を支配していた。
母の目の届かぬ場所で、正義ヅラして語られる幸福論。いじくり回される未発達な体。
料理や裁縫(お手玉を作ってくれたことがある)など、好きな部分もある祖母の言うことを、私は無碍にすることはできなかった。今でいう「毒親」ならぬ「毒祖母」だったのだろう。
そうして祖母の歪んだ思想は私の深い部分に染みつき、私自身の性に関する思想を、「吉原」を追いかけるような形に歪めていった。

(ちなみにこの祖母からは小学校4年生の寒い冬に、一度殺されかけている。話が逸れるので詳細は割愛するが、その恐怖もあって、私の中で祖母の思想は「絶対」に近いものとして固着した。
それでも私が大きな危険に遭うことなくここまで成長できたのは、ひとえに性病(とHIV)に感染するのが怖いという、祖母の支配を上回る恐怖のおかげだった。これに関してはまたいつか語ることもあるかもしれない。)


25歳になって、自身の遊廓への渇望と恐怖を自覚し、カウンセリングを受ける過程で、初めて「意識」できた体験と思想の異常性。
それを自覚してからは、よく遊廓の夢を見るようになった。
ゆらゆらと赤い夜の光、床板を踏む素足の冷たさ、やたらと豪華な友禅の着物、前で結んだもさもさした帯、出られない格子窓……感覚ばかりがリアルすぎて吐き気がした。その中に出てくる座敷はたいてい、股座を踏まれていたあの和室だ。祖母はいつも、遣り手婆や妓楼の女将の役で出てくる。
その類の夢を見ると、諦め、閉塞感、愛着、満足、そして異常な寒さに震え、いつも早朝に飛び起きたものだった。

経験したこともないのに、身売りの経験が、その感覚が蓄積されていくのは恐ろしかった。この頃、私は常に性器に痛みや痒みを感じて苦しんでいた。精神的なもの(トラウマ)が原因のため、病院であらゆる検査をしても何も出てこない。薬もきかない。電車の中で陰部が痛くて座り込んでしまったことも数回ある。
頻繁に見る夢のせいで、いつも頭の中には雪が降っていて、目を閉じれば赤い光が見えた。自分の人生が二重にぶれていくような危うさに駆り立てられた私は、「なぜ祖母はあんな思想に取り憑かれたのか」を日々考えるようになった。


祖母には姉妹が多くいたが、近縁者に水商売をした人間は、私の知る限りいなかった(「そんな人間」がいたら、あの陰口好きの祖母が話さないわけがない)。それなら、そういった思想は一体どこから生まれたのか。

記憶の中、唯一祖母が言及した家族は、祖母より5つ下の妹だった。その妹は大変可愛らしく家族皆から愛されていたそうで、小さい頃からあまり器量の良くなかった祖母は、常に比較されつまらなかったそうだ。その妹は終戦の年に、小学生の祖母と二人で河原で遊んでいる最中に熱中症で死亡し、そのせいか末っ子となった祖母はやたらと家族に可愛がられるようになったらしい。
ファザコンでもあった祖母の外見へのこだわりはこの辺りから生まれたものだとは思うが、身体を売る云々とは遠く結びつかない。


アルバムを見て、昔の自分の日記や母の残した日記を読んで、記憶を書き出して、お手上げになった私は業者に頼んで、祖母の家系図を調べてもらうことにした。戸籍などを辿って、家系図を作ってくれるサービスがあったのだ。

数週間で、家系図が届いた。祖母の実家は埼玉の大地主で、姉妹や分家も多いと聞いていたが、それを裏付ける調査結果。
そして祖母の代の数代前(明治頃)に、ちょっと変わった記述があった。

正妻の後添えだろうか、見慣れない(さすがに具体名は伏せるが、当時よく本で読んでいたような花街の女郎によくある、ちょっと変わった漢字とひらがなの混ざった)名前の女性が、祖母の数代前の男性と、二度目の結婚をしているような表記があったのだ。
しかもそれ以外の女性は大抵、「どこどこの家の/どこ町から来た〇〇さん」というような書かれ方だったのに対し、その女性は出身に関わる情報が何も書いていなかった。
もしかしたら単純に身寄りのない女性だったのかもしれないが、そこそこ立派な家と縁を維持してきたらしい祖母方の家系図を見る限り、その女性だけがポツンと、異質な存在である。

ここからは想像になるが、その女性は芸妓か娼妓かーーいわゆる商売女だったのではないか。
正妻が亡くなったことをきっかけに、水揚げされたのか元々妾だったのかはわからないが、そうして裕福な農家の後妻に収まったのではないか。
そしてその話はいわゆる「女性の成功譚」として、祖母の親や祖父母の間で語り継がれていたのではないだろうか。
吉原に限らず、売防法以前の日本には、色を売る女性の町が多かったと聞く。そのいずれかの出身にしろ、素人であった祖母の家系の人間には、わかりやすい「吉原」の名前や「遊廓」「遊女」の、ある種偏見に塗れたイメージが伝わっていて、その女性の遍歴と合せて語られていたのではないだろうか。
祖母の幼少期は太平洋戦争の時代である。祖母が小学校の時に日本は敗戦し、貧しい時代を餓えと憧れと共に過ごしたらしい話は、色々と聞いたことがあった。
そんな時代に、幼い頃から5人姉妹の中で最も器量の良くなかったらしい祖母が、華やかだった明治の時代や、美しい女性として「成功」した女性の話を聞き、強い憧れや嫉妬を抱いた可能性は十分にある……。

調査結果を見た当時、私はそう考えた。そしてそれが真実か否かはともかく、それまでの祖母の言動全てをしっくり説明し得るものであることに満足した。
本当の真実はわからない。
祖母の家は大きかったとはいえ、所詮田舎の農家だ。当時の資料などもない。
だが、少なくともそれで私の頭は「納得」した。
それ以降はあの雪の夢も見なくなり、花街巡りへの渇望や性器の痛みも癒え、やがて忘れてしまった。
私にとって縁深い「花街」の物語は、そうしてひっそりと終わった。

* * *

そうして終わったはずの花街巡りの趣味が、最近復活した。
とはいえ、何か病的なものが目覚めたわけではない。花街を巡るときの私の心身が、当時とはもう全く違うのだ。

当時はあの、色を匂わせる街並みを歩くと、動悸がして恐怖で震え、目も上げられなかった(そのため、当時は写真もろくに撮れていない)。調べ物をする時も、寝るのも忘れて血走った目で調べていたりしたので、当時の私を見る人がいたら妖怪か何かに見えただろう。

今は普通に調べ物をして、普通に訪問し、その残滓を撮影している。じっくり見ていても、恐怖で逃げ出してしまうことはない。
胸の高鳴りが激減したことには、もしかしたらがっかりすべきなのかもしれないが、健康でなければ目の前のものを見ることも満足にできないのだから、これでいいのだと思う。

病的なものがないのであれば、ではなぜまた花街跡を巡っているのか……と言われれば、それは「一般的なノスタルジー」に近いもののためだろう。
終わっていく時代、残されたものに思い馳せるのは、現在多くの人が惹かれる「昭和レトロ」への懐古に近しいものでしかない。
ただそこにひと匙ぶんだけ、「個人的な」経験への懐古を含んで、私はまだしばらく、エゴのためでしかない花街巡りを続けていくのだろうと思う。

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