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三中全会 消えた新華社記事の謎

中国共産党の重要会議として知られる三中全会(さんちゅうぜんかい)が7月15日から18日まで北京で開催されました。正確には第20期三中全会でした。

その重要会議をめぐっては、先日、色々と変調がみられたことを記事でお伝えしました。まずこちらに目を通していただいた方が、今回の記事は分かりやすいかと思います。

そして、さらなる変調がありました。

中国国営新華社通信が、三中全会初日の15日、「改革家としての習近平」というタイトルで習近平主席は「鄧小平(とう・しょうへい)氏に続くもう一人の卓越した改革家」と礼賛する長文記事を配信しました。

ところが、17日にはその記事を取り下げたのです。「なかったこと」にしたわけです。

極めて異例の事態です。何が起きたのか読み解きます。


消えた記事とは

新華社が記事を消してしまったので、今はネット上でみつけることができないのですが、私は新華社の日本語版記事はコピーしていました。まさか取り下げられると予想したわけではなく、単に読みやすくするためコピーしただけだったのですが、それが幸いしました。

一部を抜粋してご紹介します。

「改革家としての習近平」

                  (新華社北京7月15日)

 中国共産党の第20期中央委員会第3回全体会議(3中全会)が15日、北京で始まり、習近平(しゅう・きんぺい)中央委員会総書記が全党・全国を率いて改革を一段と全面的に深化させる新たな征途に踏み出した。
 
 習総書記は鄧小平(とう・しょうへい)氏に続くもう一人の卓越した改革家と言われる。両者は同じく「中国の現代化実現」の使命を担ったが、直面する情勢は全く異なった。鄧小平氏が改革開放を始めた1978年、中国の1人当たり国内総生産(GDP)は200ドルに満たず、改革はほぼゼロからのスタートだった。習近平氏が総書記に就任した2012年、中国は既に世界第2位の経済大国であり、1人当たりGDPも6千ドルを超えていたが、同時に低廉な労働力など発展ボーナスの多くも消えつつあった。
 習総書記は「簡単な、皆が喜ぶ改革は既に完了した。やわらかい肉は食べ終わり、残っているのは噛むのに苦労する硬い骨ばかりである」と述べ、先人の業績の上にあぐらをかくことを拒み、走り続けた。10年余りの間に中国は2千以上の改革案を打ち出し、経済総量は2倍以上となった。世界の経済成長の「第1エンジン」の地位も維持した。
 しかし、より良い生活を求める人々の期待に応える中で新型コロナウイルス感染症後の経済回復を維持し、さまざまなリスクを防ぐには、さらに大きな努力を払わなければならない。
 総書記からすれば、現代化を将来実現し、中国の奇跡を書き続けるために改革開放という重要な切り札をうまく使う必要があった。
 
 習総書記の改革への思いは一貫している。1960年代末に16歳を待たずに生産隊に参加し、陝西省の貧村、梁家河村で7年間働いた際には常に腹を空かせていたが、その時の願いは村人に腹いっぱい食べさせることだった。中国を「貧しいままにしておけない」という鄧小平氏の改革の初心には深く賛同した。
 過去に赴任したどの場所でも改革の先鋒だった。河北省正定県では農家経営請負制を強く主張し、貧困県だった同県を省内初の農家経営請負制モデル県にした。
 正定県の後に赴任した経済特区の福建省アモイ市では、中国初の中外合弁銀行、アモイ国際銀行の設立を推進。福建省長時代には集団所有林の使用権を明確にする集団林権制度改革を全省に広めた。同改革は後に全国に普及し「家庭聯産承包責任制」(農家請負制)に続く中国農村のもう一つの革命と呼ばれた。
 浙江省への転任後は、鳥籠の鳥を入れ替えるように特定地域のローエンド産業を周辺に移してハイエンド産業を誘致する「騰籠換鳥(とうろうかんちょう)」改革構想を提起したほか、浙江省の企業家活動に参加した最初の省党委員会書記として、民間企業家が彼のオフィスを訪ねて重要事項を直接相談できるようにした。彼は浙江省の改革を経済、政治分野から文化、社会、生態の各方面へ広げた。
 上海では、改革を通じてイノベーション主導型の発展を実現し、国際金融センターの構築を進め、改革開放の先頭に立つよう求めた。
 2012年の総書記就任後に選んだ最初の視察地は広東省深圳市だった。蓮花山公園の鄧小平像に花籠をささげ「改革は中断せず、開放の歩みは止めない」という確固たる決意を表明した。
 鄧小平氏は1978年の第11期3中全会で改革開放と社会主義現代化建設の新時代を切り開いた。2013年に習氏が主導した第18期3中全会も同様に里程標としての意義を持ち、全面的改革深化と系統的全体設計により改革を推進する新時代を切り開いた。

新華社通信日本語版より抜粋

習氏が本当に好きなのは毛沢東

一部だけを紹介しましたが、長文の記事を通じて「習近平≒鄧小平」という具合に、いかに習主席は改革志向が強い指導者か、と繰り返しアピールする内容となっています。

しかし、習氏が本音では鄧小平の改革開放政策をそれほど好きではなく、尊敬している、あるいは目標としているのは毛沢東であることは広く知られています。
実際、新華社を通じて流れてくる習氏礼賛記事の多くに毛沢東時代へのノスタルジーが露骨なほどに含まれているのに対して、鄧小平と改革開放はいたって冷淡な扱いです。

それだけに、今回の「習近平≒鄧小平」記事は珍しかったですし、それが配信後に取り下げられたのは、さらに驚きでした。

消された理由は?

新華社通信の記事というのは、すなわち中国共産党の公式見解です。最高指導者に関する内容なら、指導部内で複数のチェックを受けてから配信されます。
ましてや、今回のような目を引くものなら、習氏自身が最終的にOKを出したと思われます

それほどの記事が消された理由は何だったのでしょうか。

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