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ハンバーガーとソース

XのTLを眺めておりましたら、千葉県の某有名ハンバーガーショップで店員さんがお客さんにブチ切れるという、ある意味衝撃的なニュースが流れてきました。
元記事やコメント欄を見ていますと、
・お客さん(ご老人)が注文したかったメニューが品切れとなっていて、「品切れとメニューに貼っておきなさい」ということを言ったら突然店員が切れた。
・切れた店員は障害者雇用枠で採用された人材である。
ということが書かれていましたが、どこにもその裏付けとなる情報(いわゆるソース)は明示されていませんでした(あくまでポストした人の情報でしかない)。

それにもかかわらず、コメント欄は「そんな程度で切れるとは…」「障害者なんだから仕方ない(にしてもそんな人材をレジに出すな、いやレジに出してるんだから障害者のはずがない)」などなど、あたかもこれらの情報がすべて真実であるかのような前提で書かれているコメントで溢れていました。
挙げ句は「切れた店員を止めた女性店員の対応が素晴らしい」などという見事すぎる議論の誤誘導まで起こっていて、その誤誘導された論点に食いつく人もいたりして、まさしく混沌のるつぼでした(当然収集のつかない状態になっていました)。

匿名であることと、読み手によってどうとでも解釈できるような短文の応酬に辟易しながら記事をそっと閉じました。
「とりあえず店員さんがお客さん相手に切れた」ということ以外は何にもわからなかったからです。

ハンバーガー屋さんにまつわる内容だからというわけではありませんが「ソースはどうなってる?」ということは誰も触れない、触れたにせよ先述の内容を盾に下手をすれば叩かれかねないような文字のやり取りを見ながら、暗澹たる気持ちになりました。
日本人のメディアリテラシーはここまで低いのか、と。

現代社会に溢れている情報は、すでに人間の脳の処理能力を大幅に超え、大半(一説によれば9割以上)を忘れ去らねばならないほどなのだそうです。
その大量の情報を処理するためには敢えて見ない、確認しない情報というのも出てきて然るべきですが、それにしても短絡的すぎやしないかと怒りとも呆れともつかぬ絶望に近い気分になりました。
こりゃメディアは「書いたもん勝ち」になるよな、と。

各種メディアが拝金主義となって久しいように思いますが、メディア側もしっかり読み手を育てる意識で情報を発信しなければ、巡り巡って自分の首を絞める結果に繋がりかねませんよ、と。

と同時に受け手である我々も情報への接し方についてはもっと考えねばならないのではないでしょうか。
いわゆる意識高い系の方々は1日のうち30分程度、瞑想やヨガなど「情報に触れない時間」を意図的に作るのだそうです。そういう時間を作ることで、それまで得た情報を脳内で整理している(らしいです)。

全国民がヨガや瞑想、日本人的には読経でも良いでしょうが、そういう時間を設けるようにしないと、本当に情報に飲み込まれ、真偽の分からない情報に振り回され、飲み込まれてしまう日が来るのではないかと危機感を覚えました。

ちなみに情報の整理にはこういうnoteのような形で良いので受信するだけでなく発信をする、というのも有効のようなので、誰に見せるでなくとも、その日得た情報を整理する時間や空間は持っておいて損はないのではないかと思われます。

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