「そんなもの学んで何の役に立つの?」
この本を読み、後悔と自己嫌悪で心が重苦しくなりました。
「それ、どこの外国語?」という言語の翻訳者さんたちのエッセイ集です。
日本でほとんど需要のない言語でありながら学び続け、日本に紹介したい物語を見つけて翻訳しておられるそうです。
「そんな国の物語だの伝説だの誰が読みたがる? どこに需要がある?」と言われるものであっても。
翻訳原稿を出版してもらえる見込みがなくても。
私も学生時代は、日本でほとんど需要のない言語を専攻していました。
一般的に知られていないものを学んでみたい、との好奇心からでした。
先生にお借りした現地語の絵本をコピーし、児童翻訳の真似事もしてみたものです。
けれども、この言語を活かしてあんなことをやってみようか、こんなことに挑んでみようかと夢見ているうちに、就職氷河期に突入してしまったのです。
採用面接では必ずこう嘲笑されました。
「なんでそんな役に立たない言語を専攻したの? そんなもの勉強して何の意味があるの?」
「これからの時代は何が必要とされるか、ニーズを読んだ学校選びをしなかったことが、そもそもの失敗だったね」
英検やTOEICなど、履歴書選考で強みとなる資格は取得していたのですが、就活戦略が不十分な私ではダメでした。
卒業後、専攻言語とは何の接点もない職種のパート従業員になりました。
授業で使った一切はダンボールに詰めました。
「私は役に立たないものに時間と授業料を費やした。世間知らずの甘ちゃんだった」という恥意識ごと封印し、
児童翻訳の真似事で使った現地語絵本のコピーは捨てました。
ですから、上記の本を読んだときは心が押し潰されそうになったのです。
目先のことに囚われず、自分の選ぶ道を進もうという信念があったなら。
どこの誰とも知らない、私の人生に何の責任も持たない面接担当者の言葉なんかに揺さぶられた私は馬鹿だった。
いや、あのときは家庭事情で、就職以外の選択肢はなかったじゃないか。
氷河期だったし圧倒的な買い手市場だったし、採用側の求める学生になるしかなかったじゃないか。
……と言い訳をしてみましたが、道なき道を歩いても何も得られないかもしれないと、打算的になった自分が弱かったのです。
人生はいつでもやり直せるとは言いますが、児童翻訳を夢見ていた頃に戻るのは不可能です。
けれども小説書きを目指し始めた頃に立ち返ることは、できましょう。
小説書きを目指し始めた頃の私には、ぶれない想いがあったはずでした。
「そんな題材やテーマなど誰が読みたがる? どこに需要がある?」と言われても、書籍化の見込みがなくても、「こういう人々の物語を伝えたい」という一念で書き続けていたはずでした。
それがいつしか、編集者さんの顔色を伺いながら書くようになり、読者反応や売上データに振り回されるばかりとなり……。
この本の出会いを機に一旦、小説書きとしてのスタート地点に立ち返ってみるとします。
そうすれば、新卒就活時には答えられなかった「そんな役に立たないものを学んで何の意味があるの?」への答えも、見えてくるかもしれません。
余談ながら。
専攻言語の先生が常々、こう仰っておられたのを思い出します。
国の豊かさはGDPやGNPで決まるのではありません。
『そんなものを勉強して何の役に立つの?』と言われるものを若い人がじっくりと学べる国こそが、本当の意味で『豊かな国』と言えるのです。
企業や国防のための勉強が重視されるようになったら、どれだけモノが溢れていても、その国は貧しくなったのです。
就活シーズンを迎え、リクルートスーツ姿の学生さんたちを見かけるようになりました。
今の日本はどの程度、豊かなのかなと思ったりします。
ただ、上記の本が多くの人に読まれているということは、まだ日本は完全には「貧しい国」にはなっていないのだろうと思うのです。
そう信じたいのです。