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【掌編】雨と緩慢

 雨音で目が覚めたのか、それとも目を覚まして最初に耳にしたのが雨音なのか。寝起きの頭で暫し考えるも結論は出ず、窓の向こうでは雨が降り続いている。ハルカは普段は部屋の換気を重要視する癖に雨の日には窓を開けたがらない。だから閉ざされた部屋の中、時折遠くから聞こえる踏切の警告音や電車の通過音がいつもよりも小さく響いて静かだと思った。雨音を始めとした様々な音を聞き取っている筈なのに、静けさを感じるのも不思議な話だ。
 明るさの度合いから昼前だと推測したけれど何時なのかまでは分からない。裸眼でベッドに寝転がったままでも時刻が分かるように大きな文字盤の時計を買おう、そう前々から言っているのに結局実現出来ていないせいだ。テレビの傍まで行って、テレビの隣に置いてあるブルーレイレコーダーの時刻表示を見る事が出来れば何時なのかはすぐに分かる。起き上がる事が出来ればそこまでなら行ける。だけどその行動を起こすためには、両腕を肩と腰に絡めてくるようにして、僕にしがみ付いて眠っているハルカを振り解いてその身体を跨がなければならない。寝る前に閉めてあった筈のカーテンが開いている。きっとハルカだけ先に起きた後に、僕が起きないからもう一度眠ったんだろう。
 起こすことは避けたいと思ったので再度目を閉じた。視覚を遮断して残ったのは、耳に届く微かで規則正しい寝息と雨音。自分以外の体温。目覚めた事で思い出した昨夜の眠りにつく前の会話。

「…雨、」
「ん?」
「やまないねぇ」

 無表情な呟きが隣から聞こえた。
 夕方からずっと途切れず続いている雨音に辟易したのか、或いは単純に深夜と呼べる時刻にまだ起きている影響なのか、判断がつきかねる静かな声。

「さっきやってた天気予報だと、明後日まで降るって言ってたよ」
「嘘。聞いてなかった、洗濯したいのに」
「まとめてやればいいんじゃない?」
「あんまり溜めたくないんだよなぁ」
「一気にやった方が節水にもなるよ」
「本当?」
「多分」
「多分?なにそれ。予想?」
「うん」
「雑」

 先程まで点けていたテレビを消して、照明も落とした室内は暗い。
 布団にくるまって眠りにつく事が一人きりの営為ではなくなった日のことを今も覚えている。傍らに他人の体温と寝息。知ってしまった事で戻れなくなった事や取り戻せないものがある事を知った、不可逆という言葉の意味を理解したとも言える体験だった。生きていく中で何度となく遭遇するそういった体験のうち、幾つかの特別なものを選りすぐって収めた宝箱のことを人生と呼ぶなら、その宝箱を時々開けて愛でるために取り出される中身は運命とか必然とか呼ばれる類のものになるんだろう。言葉にすれば知らない誰かのものと同列に一括りに表現される体験だとしても、それぞれ違う人間である以上全く同じものになどなり得ない。だからそれぞれの宝箱が特別で尊重されるべきものなんだ、と取り止めのない思いつきに対する結論を眠い頭で捻り出した。

「ハルカ」
「ん?」
「どっか行きたくならないの」
「どっかって?」
「どこでもいいから」
「どこに?」
「どこでも」
「ならないよ。カナタは?」
「僕?」
「うん」
「僕にそれを聞く?」

 月も無く星も遠く暗闇が満ちた室内。雨音と、時折踏切の音や電車の通過音だけが響く夜。
 閉ざされた窓の内側、布団の中、ここだけが世界だと思った日のことを今も覚えている。だけどそれは決して宝箱に収められるような輝かしいものではない。

「もしかして起きてる?」

 隣から問いかける呟きが聞こえて、思わず目を開けてそちらを見た。
 あっやっぱり起きてる、そう言って笑みを浮かべる様子は先程までの穏やかな寝顔から一転、一気に快活さを帯びている。寝起きが良いのが特徴だと、いつだったか聞いた話を、目覚めたばかりのハルカを目の当たりにする度に思い出しているような気がする。

「ハルカ」
「何?」
「やっぱり時計欲しいんだけど」
「部屋用の?」
「うん。大きな、」
「また言ってる。要らないよ」

 以前伝えた時と全く同じ、予想通りの返答。だからこの後に続く言葉も容易に想像がついたので、それ以上やり合う気になれず黙った。そういう沈黙を諦めではなく肯定だと解釈したのか、ハルカは機嫌良く笑って布団から出した手を伸ばし僕の頬に触れてくる。
 知ってしまった事で戻れなくなった事、取り戻せないものがある事。ハルカにもそんなものがあるのだろうか?
 遠くで踏切の音が聞こえる。
 警告音。
 聞いてみようと思ったのは気になったから、という率直な好奇心と、風穴となるような一矢たり得ないかという期待からだった。

「……ハルカ、」
「何」
「いつになったら外してくれる?」

 左足首をわざわざ示さずとも言おうとした事は伝わったらしく、頬を突つく指先の動きが止まった。朝なのかそれとも既に昼なのか、それすらも僕には分からない光に満ちた明るい部屋の中。笑みが引いた表情は不意を突かれたかのようで、ハルカのこういう顔を見たのはいつ以来だろうと呑気に思った。いくつ季節が巡ったのかもう覚えていないけれど、少なくともすぐに思い出せるほど最近の出来事ではない筈。
 けれどハルカは笑みを浮かべた。強張ったものが解ける柔らかさを伴っているにも関わらず、溢れ出て床に落ちた水を何事も無かったかの様に元に戻す、そんな印象を受ける笑い方だった。手を更に伸ばして、指先だけでなく手のひら全体で僕の頬に触れてくる。

「カナタがずっといるなら、いつでも外すよ」

 考える素振りすら見せず、笑顔を添えて呟かれた返答の響きは恋のように甘い。
 ハルカの宝箱に入っているものも、そういう甘い響きを帯びた燦めきばかりなんだろう。だけどそれはハルカだけの特別な眩さであって分かち合う事など出来ない。そしてその中身が充実する程にこちらの宝箱が軋み朽ちていく事をどう思っているのか。暫し考えるも結論は出ず、窓の向こうでは雨が降り続いている。


<了>