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あのこはウサギで私は栗で

生まれて初めて、「いいなぁ、あのこは」「なんで私ばかりこんな目に」「私もあのこと同じようなものが良かった」という気持ちになった出来事を今でもよく覚えている。

秋になるとよく思い出すのである。
秋は栗が美味しい季節だ。

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年少のときだった。

保育園へ行くと、自分の下駄箱に靴を入れ、自分の割り当てられたフックにカバンやコートをかけ、自分の棚からお道具箱を出す。

年少はまだ文字がすらすらと読めないから、1人ずつ目印となるマークが与えられた。
つまり、自分のマークが付いているところが、自分の名前が書かれている位置であり、そこに自分のものを出し入れすればいい。
しかも、このマークシステムは年長まで続くものだった。


そのマークが私は栗だったのである。



別に栗は嫌いではないが、大好きかと聞かれればそうでもなく、栗を上回る好みの食べ物なんていくらでもあった。
どうせなら、いちごとかりんごとか、もっと人気で可愛げのある食べ物が良かった。

初めて自分のマークが栗だと分かったとき、このマークと年長さんまで付き合うのは嫌だなと、子供ながらに思ったのをよく覚えている。

他の子はどんなマークなんだろう。
仲のいいサヤカちゃんのマークを見たら、彼女はウサギだった。
しかも、単なるウサギの顔なんかではなく、左側を向いて、しゃんと立っているシルエットで、めちゃくちゃかっこよくておしゃれなウサギだった。
絵本に出てくるピーターラビットを彷彿とさせるその姿(マーク)に、私は心底いいなぁと思ったのである。

ちなみに、もう1人仲の良かったユウナちゃんはペンギンだった。
これまた同じく左側を向いて立っている凛々しいお姿。

あぁ、なんで私は栗なんだろう。
ウサギもペンギンもとてもかわいくて、マークはすごくかっこいい。
私もいちごとかだったら良かったのに。
(ちなみに、いちごのマークのこは別にいた)

羨ましさと同時に、私は子供ながらに、「人生思い通りにいかない」ということを学んだ。
このマークは自分の意思で決めるものではなく、先生たちが決めたものだった。

自分の努力だけではどうしようもない出来事もあるということをこの時悟ったのである。

羨ましいという単語を当時まだ知らなかった年少の私は、この気持ちをうまく説明することができず、ヤキモキしていた。
でも、羨ましい以外にも、多くの気持ちがあった。

あの時の気持ちを現在25歳の私が代弁するなら、「これが社会か」だろう。

あのこへの羨ましさと、可愛いマークへの憧れと、自分の意思でマークは決められない悔しさと、それでもこのマークを受け入れて、年長まで付き合うしかない諦めと、自分のマークは栗という運の悪さ。

そんな思いが延々とループし続け、結局私は卒園まで栗と付き合った。
いや、延々とは言い過ぎたかもしれないが。

年少である3歳の私は、自分の気持ちを言語化はできなかったものの、そんなことを思い、悟り、自分の中で消化したのである。

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大人になった今、栗は当時と変わらず、嫌いではないが、大好きかと聞かれればそうでもないというポジションにいる。
でも、モンブランは好きだ。栗ご飯も。

秋は栗が美味しい季節である。

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