A工区俯瞰

30回:そして、コザに帰る

ジェントリフィケーションの彼岸

 アーティストが住み込むと地価が上がるような世界が存在するらしい。東京から来た人が言っていたので東京にはそういうエリアがあるのかもしれない。那覇だとそういう場所が生まれる可能性はあるかもしれない。
 少なくともコザの銀天街はそういう場所にはならなかった。別になって欲しいとも思わないし、誰からも欲望の対象とならないのは清々しさがあって素敵なことだと思う。
 2000年代、地域活性とか場合によっては“浄化”と称してアーティストを招聘してはあれこれとイベント的なことを催すのが盛んだった。今でもそうなのかもしれない。リレーショナル・アート(関係性の芸術)のロジックを援用してその地域の細々を作品化しようという目論見が津々浦々で発生したらしい。
 銀天街はというと、ちょうど2000年に東京の美大から若い学生が何人かやってきてそのうち2人は住み込んだ。村芝居を企画したり街の人々の証言を記録したり、2人は細々としかし着実に活動し、街の中にオルタナティヴスペースをこさえたりもした。銀天街自体が資本主義において既にオルタナティヴな存在ではあるのだが。
 2007年、自分が初めて銀天街を訪ねた時もその後住み始めてからも2人はいた。やがて2人の間には子どもが生まれ、結婚もした。2人の評判を聞きつけて色んなアーティストがやってきたり、支援者が現れたり、銀天街全体を舞台にした展示も数度行われた。しかし街は一向にオシャレになったりはしない。街に移り住もうとする人間はジェントリフィケーションを引き起こすような中産階級や知識分子ではなくて食い詰め者やどうにも胡散臭い人が多かった。20歳そこそこの自分でも見て取れるレベルなのだから本当に仕様もない人間なのだろう。

ゲットーが見えないのか

 銀天街とその周辺が市内どころか県内の人たちからもどこか忌み嫌われている気がして、落ち込むことがあった。口では旧黒人街の正真正銘のゲットーと強がるが黒人街であった頃の面影は既に薄まっていた。それでも時折街はここが日本でも沖縄でもない異界だと言わんばかりの強烈な空気を作り出す。独り言おじさんは薄暗い路地を花道に見立てて闊歩する。じんかめーばばあは今日もタバコをせびってくる。その横で店主たちは何事もないように日常をこなしていく。聞くところによると市内でもこの地域一帯は生活保護受給世帯が際立って高いらしい。そりゃそうだろう、と妙に納得してしまう。学力や所得そして基地も含めたいわゆる沖縄問題を煮詰めたような場所だ。
 銀天街周辺で本格的なジェントリフィケーションが生じた時、それは「沖縄問題」が過去のものになった時だ。
 だから問題を過去のものにすべく2010年以降、街は着実に浄化されていったのだろう。まず向かいの区画の赤線が文字通り「浄化作戦」の名のもとに破壊された。時期を同じくして独り言おじさんは然るべき施設に“保護”され、じんかめーばばあは逮捕された。銀天街のアーケードは道路拡張とともに撤去され、2014年には商店街組合が解散した。代わりに街の表には巨大な壁画が施され、美術家たちはそれを置き土産に街を去った。ポルノ映画館も更地になった。当たり前だが浄化だけしても人は増えないし活性化もしない。数々の問題は解決を見ずにただただ消失しつつある。

 いまこうして郷愁に誘われるまま
 途方に暮れては
 また一行づつ
 この文章を綴るこのぼくを生んだ街
 いまではコザとはその名ばかりのように
 むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく
 島には島とおなじくらいの
 舗装道路が這っているという
 その舗装道路を歩いて
 コザよ
 銀天街よ
 こんどはどこへ行くというのだ

関連→「18回:塔の生活」 「4回:商店街、赤線」

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