『利己的な遺伝子』とはどういうことか【進化論】
皆さまはリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』をご存じでしょうか。あと数年も経てば出版50周年を迎える現代の古典です。
この本は、「人間は利己的な遺伝子の操り人形である」という内容
……ではありません。
むしろ私の見る限り、この本の主要なメッセージの中には次のものが含まれます。
● 遺伝子はすごい。
● でも生き物は遺伝子ではない。
● もちろん遺伝子の操り人形でもない。
● 気のいい奴は生き残る。
● 文化はすごい。すごい文化をもつ人間って特殊だ。
生物学や進化論の知見を全面的に展開しながら、このメッセージが発せられるのですから、心強いものです。
もちろんドーキンスは利己主義を喧伝するつもりなどさらさらないですし、それどころか「幸福の最大化」という利他的な理由に基づいてほぼベジタリアンとして生きているようです。
ただしタイトルと内容の一部のせいでこの本は未だに誤解され続けており、内容よりも誤解だけが広まっているようにもみえます。
■ 「利己的な遺伝子」という表現について
『利己的な遺伝子』は字面通りにとるとナンセンス表現です。
これはドーキンス自身も理解しています。後にも書きますが、こんなに誤解を誘発するくらいなら別のタイトルにしておけば良かったかもしれないと書いているくらいです。
まずは、『利己的な遺伝子』というタイトルがどうしてナンセンスなのかを説明しておきましょう。
そもそも遺伝子とは何か? 『利己的な遺伝子』内では、G・C・ウィリアムズによる定義を採用し、「自然淘汰の単位として機能するに十分な期間にわたって維持される可能性がある、染色体の任意の部分」とされています(40周年記念版、78頁)。ドーキンスは、これを縮めて「遺伝子」と呼んでいるのです。ゆえに、タイトルを正確に書くならば、『利己的な遺伝子』ではなく、『いくぶん利己的な染色体の大きな小片とさらに利己的な染色体の小さな小片』になるだろうと書いています(84頁)。
「利己的な遺伝子」のおかしさはもうこの段階でわかります。染色体の任意の部分が、いわゆる「利己性」をもつことはできません。だって、自我がないので。ましてや自己利益を目的として人間を操ることなど不可能です。だいたい染色体の小片には脳の欠片もないではありませんか。喜怒哀楽の感情もなく、1+1=2などというような高度な思考は到底できません。
感情もなく思考もできない「遺伝子」を「利己的」と形容する表現は、「利己的な素粒子」「利己的な岩石」「利己的な消しゴム」という表現と同じくナンセンスなのです。このことはドーキンスも認めています。
■ なぜ「利己的」という比喩を用いたか?
では、ナンセンス表現であることを承知で「利己的」という形容を用いたのはなぜか?
簡潔に言うと、ドーキンスが「自然淘汰の基本単位として適当なのは遺伝子だ」「そして遺伝子は自己追及的だ」と考えているからです。
ただ、これだけだと意味不明なのでここも解説します。
自然淘汰というのは進化の主要なプロセスです。前提条件である「変異、遺伝、生存闘争」がそろったときに、「最適者生存、累積進化、種の分化」という帰結をもたらします。
ただし、この説明だけだと、自然淘汰においては何の変異が問題なのか? 何の遺伝が問題なのか? 何が生存闘争しているのか? という疑問がでてくるでしょう。
ドーキンスに言わせれば問題の答えはすべて「遺伝子」でよいのです。変異するのも、遺伝するのも、生存闘争するのも遺伝子なのです(429頁など)。
地上を観察すると、表面的には生き物の個体が争っています。しかし個体なんて短ければ数週間、長くても数百年で朽ち果てる。人間だって数十年で死んでしまう。でも遺伝子は違う。例えば、「しかじかの条件の下で人間の眼を青くする遺伝子」ならば、100万年単位で生き残ることもありえます。進化を大局的に捉えるには、遺伝子に着目した方がいいというわけです。
トランプでたとえると、たまたま一時に揃った手札が生物個体、個々のカードが遺伝子に相当します。個々のカードの生き残りに着目することで色々と見えてくる景色があるのです。
というわけで、遺伝子が自然淘汰の基本単位であると。
しかし遺伝子自体には自我も感情も思考もありません。ただ多様な種類の遺伝子が存在していて、各々が自己複製していて、環境のせいで知らんうちに淘汰されている。たまーにランダムな突然変異が起きる。それだけで見事な進化が発生したり、種が分化したりしているのです。単純なプロセスがこんな豊かさをもたらす。スゴイではありませんか!
ここまでの説明を経て、ようやく遺伝子を「利己的」と形容する理由がみえてきます。
自然淘汰の基本単位は遺伝子でした。ではこの遺伝子が変異、遺伝、生存闘争という主要な進化のプロセスにおいて、していることといえば何なのか?
――自己複製。以上。
遺伝子が結果として生物の身体に影響を及ぼしているとしても、やっていることは自己複製だけです。
そもそも生き物に対して本当に何もしない遺伝子もいっぱいあります。遺伝子はタンパク質を合成することで身体に作用するのですが、かなりの数の遺伝子は、タンパク質を合成しないのです。個体にとってさえ無益・無害。ただそこにいて、ただ自己複製するだけの遺伝子です(101頁)。
それどころか、老衰死を引き起こす遺伝子は、個体にとっては不利でしかないのに、単に「淘汰されるきっかけがない」というだけで生き残り続けている疑いがあります(95頁以下)。
遺伝子はあくまで「自己追及的な生命の因子」(91頁)。個体の利益なんて知らぬ存ぜぬ。遺伝子として長生き・多産・複製が正確であるなら、それだけで生物中に広がっていきます。
このようなさまを擬人化すると、遺伝子連中は正確な自画像を描くことにしか興味のないナルシストにみえないこともない。しかもそんな奴らに着目すると進化の謎が解けていく。この点をとらえて「利己的な遺伝子」というわけです。
しかしながら、こうして内実を見ていく限りでは、遺伝子を「利己的」とみるかどうかはその人のそのときの感性次第だと思えてなりません。「なんか一途だね」とか他にも色々と捉えようはあるわけですので。
だいたいから物質としての染色体はその持ち主の身体とともに朽ち果てます。継承されるのはコピーです。継承されたコピーもそのまたコピーを残して朽ち果てます。以下同様……。
時間を超えて継承していくのは、その遺伝子がもつ「情報」だけです。遺伝子が継承させていくのは染色体としての己でさえなく、たかだか同一の情報。遺伝子が残しているのが物体でさえない代物だとすれば、遺伝子の悪者感はさらに減るのではないでしょうか(もとより悪者ではないですが)。
※ いま「たかだか情報」みたいな話を書いたわけですが、人間の意識も結局は複雑な情報の集積とちゃうんか? と思ったり。情報蔑視よくないかも。いずれにせよ遺伝子は別に悪気のある奴ではないってわけですね。
■ ドーキンスの反省
ドーキンスは利己主義を喧伝するつもりこそなかったのですが、『利己的な遺伝子』の初版執筆時点では、「遺伝子の利己性という比喩」と「人間という個体の利己性」を混同し、人間は利己的に生まれついているという趣旨の文章を書いていました。
もちろん、この頃のドーキンスも「人間は利己的であるべきだ」とか、「利己性からは逃れられない」などとは書いていません。
利己的に生まれついているからこそ、教育によって利他性と寛大さを与えていこうというわけです。むしろ、ドーキンスは「なんでみんな遺伝子の影響を過大評価してるの?」と驚いてみせます。
『利己的な遺伝子』以外の著書からも窺われるのですが、ドーキンスは人類の文化や理性を強く信頼しているようで、人間は遺伝子に反逆できるのだとか、人間は利他的になれるのだとか、さまざまなところで檄を飛ばしています。私は「ひょっとして、ドーキンスは人間のことだけが大好きで、その他の生物は嫌いなのかな?」と思ったほどです(十中八九勘違い)。
しかしながら、人間だろうがその他の生物だろうが、利己的に生まれつくとは限りません。利他性を身につけるためには、わざわざ遺伝子に反逆する必要さえないかもしれないのです。
この点は、どうやら初版と第2版以降ではドーキンスの見解が変わったようです。私は40周年記念版を読んだわけですが、この版におけるドーキンスの論旨からすれば、遺伝子(自己複製子という単位)と個体(乗り物=ヴィークルという単位)は種類が完全に異なります。仮に遺伝子が利己的であったとしても、そこから人間の生得的な利己性を導くことはできないのです。
その上、ドーキンスは「利他性」が進化において適応的でありうることを論じています(第12章)。つまり、「利他性」は条件さえ揃えば自然に生じ、繁栄しうるものだと言っているのです。第12章末尾では、血縁が異なる同種に対して利他的行動をとるチスイコウモリの例を挙げつつ、「利己的な遺伝子に支配されている世界でさえ、気のいい奴が一番になれるという慈悲深い考えの先駆者となるだろう」(396頁)などと書いています。
コウモリでも利他性が進化しているならば、人間は何をかいわんや。というわけで、「30周年記念版に寄せて」では、「人間は利己的に生まれついている」などの表現について撤回を行っています。
■ タイトルの代案
もともと進化論に詳しい人は別として、『利己的な遺伝子』というタイトルだけを見て、上記のような内容を予測できる人は少ないのではないでしょうか。いまだにかなり多くの人たちが、『人間は利己的な遺伝子の操り人形である』とか、『個体を利己的にする遺伝子しかこの世には存在し得ない』という内容が書かれていると勘違いした上で、「ああでもないこうでもない」と論争をしている気がします。
ドーキンス自身も、『利己的な遺伝子』がこんなに誤解されるくらいなら、別のタイトルの方が良かったかもしれないと書いています。
代案としては、『協力的な遺伝子』、『不滅の遺伝子』、または『利他的な乗り物(ヴィークル)』などをあげています。私としても、これらのタイトルはどれも本文の内容をよく表していてよいと思います。遺伝子は他の遺伝子と協同して働きますし、何百万年という単位で生きながらえますし、生物個体はちゃんと利他的でありうるためです。
個人的な案としては『自己追及的な遺伝子』あたりが程よいかなと思います。遺伝子には意図がないので、「追及」もまた比喩に過ぎませんが、「利己的」よりは誤解が少ないかと。
ただ、これらのタイトルで『利己的な遺伝子』ほどの爆発的な売上や知名度を得られたかどうか。誤解されたからこそ一般にも流行したんじゃないかとも思うところです。
あとドーキンス本人にも、挑発的にみえるタイトルを用いて、良識ぶってる人たちに対して冷や水を浴びせてやろうという意地悪な気持ちがちょっとはあったのではないか。中二心が抜けない私なんかは邪推しちゃいますね。
ともあれ『利己的な遺伝子 40周年記念版』
けっして読みやすくはなかったですが、大変おもしろい本でした!
【過去に書いた関連記事】
・自然選択説について
・進化論がトートロジーではないことについて
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