短歌とフィルムカメラとロビンソン
最近ちょっと短歌にハマっていて、いろんな歌集を買って読んでいる。短歌は基本五七五七七の三十一音で作るもので、その中に思っていることや伝えたいことがぎゅっとつまっている。そのぎゅっと詰め方が歌人ごとに特徴があってとてもおもしろいし素敵。
いろいろ読んでいるうちに、自分で作って詠みたいな、と思って、木下龍也の「天才による凡人のための短歌教室」とか穂村弘の「はじめての短歌」とかを読んだ。どちらも良かったのだけれど、ちょっと穂村弘の「はじめての短歌」が良すぎたので、そっちについて書こうと思う。
この本は、まず最初にいい短歌を紹介し、その後に「改善例」ならぬ「改悪例」を載せている。この短歌をこういうふうに変えるとよくなくなるよね、という感じ。
読んでいく中で一番刺さったのは「家がわからなくなったことに美しさを見出す感受性」という章で、そこにはこう書いてある。
この章だけじゃなくて、この本に一貫して書かれていることは、「不完全に美しさを見出す」「社会的に価値がないものを見る」「欠点を愛する」ということ。
社会的に価値のあるものとかきれいなものはみんな常に当たり前に評価するんだけど、わたしたちがいいなとか美しいなって感じるのって、もっと細部にも宿ってると思う。
宇宙まで行ったすごい人がいずれぼけてしまって自宅への道がわからなくなる。でも切り捨てて「あいつはぼけちまってダメだな」とは思えない、どこか切ない輝きがある。そのほのかな輝きを逃さないようにするのが短歌である、と、そんなことがずっと書いてある。
わたしはこれを読んだときにかなり衝撃を受けたんだけれど、というのも、これは自分にとってのフィルムカメラと一緒だな、と思ったから。短歌とフィルムカメラは似ている。
わたしはフィルムで写真を撮るとき、価値のあるものや光より、価値のないものや影を撮りたいなと思っている。外食に行って、食べ終わったあとの机とか。外食のメインはご飯だからそっちをとったほうが価値あるし、まあだからご飯も撮るんだけれど、じゃあ食べたあと、価値がなくなったあとは無視していいのか?と思うと、無視しちゃダメだなと思う。そこにも何かがあるんだと思う。
ちなみにそんなようなこともこの本に書いてあります。
今日わたしは喫茶店に行ってコーヒーを飲んだんだけれど、飲み終わったあとグラスの底を見ていたら、底に溜まった氷とそこに映る手がいいなあと思って写真撮った。氷の縁がまるくなってるせいで氷の輪郭が曖昧で、しかも氷によってグラスの底を持っている手がゆらゆら歪んでたんだよね、なんかそれを見て、きれいだなあって思った。
わたしがシャッターを切るとき、これをフィルムで撮るなんてもったいない、と言われることがあるかもしれないけれど、全然そんなことない。わたしたちの人生や生活は、全く整っていないし、価値のないものばかりで、でもそこにだって輝きが絶対にある。その輝きをなかったことにしたくはないなあって思う。
そういえば、最近は曲を聴いていても、ああこれは短歌みたいだな、と思うことがある。好きな短歌を読んだときの胸の苦しさと、この曲を聴いたときの胸の苦しさが一緒だなと思う時がある。それは例えばスピッツのロビンソン。「片隅に捨てられて呼吸をやめない猫」という歌詞、これは、ぼけた宇宙飛行士と一緒だと思う。きっとこの猫はちょっと痩せていて、ボサボサで、目つきも悪い。ネットで愛されるような愛くるしい猫の姿とは違うと思う。でもじゃあ、片隅に捨てられている猫は醜いのか?ダメなのか?と言われたら違っていて、きっとその猫はすごく輝いているんだと思う。それはいのちの輝きで、その輝きに惹かれる人がたくさんいるから、ロビンソンはたくさんの人に聴かれているんだと思う。
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自分が好きだなあ、と思ったものに少しずつ手を出していくと、思いもよらないことでそれがつながることがあって、そのたびに自分の好きは間違ってなかったんだなあって思う。それがすごくすごくうれしい。そういうものがこれからも増えていったらいいな〜。
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