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山内家土佐入り 前章      掛川城・油山寺

日本各地に残るお城。地域のおすすめ観光地として各メディアで取り上げられています。江戸時代(以前のモノもあり)に築かれた現存天守のあるお城は12城。お城好きにとっては別格扱いのお城で、国宝か重要文化財指定されています。だいたいハシゴのような階段を上るコトになります。
明治以降に多くの天守が取り壊されますが、太平洋戦争で焼失してしまった残念なお城(名古屋、和歌山、岡山、広島等)もあります。
そして戦後に地域のシンボルを再び的なカンジでコンクリート造りのお城が量産されました(資料館や展望台として機能しています)。
一方、残された古図や写真をベースに、木造で当時の天守を忠実に復元したお城があります。今回は木造の復元天守を持つ掛川城の記録です。




掛川城のある掛川市は静岡県の西部、かつての遠江(遠州)と呼ばれた国。人口は115,000人。遠州には自動車関連の工場が集積し、スズキ(浜松市中央区)やヤマハ発動機(磐田市)の本社があります。バイク好きなら竜洋(スズキ)や袋井(ヤマハ)のテストコースといえば反応するでしょう。
掛川には新幹線の駅がありますが、停車するのはこだまのみ。新幹線が停まる駅では唯一の木造駅舎です(新幹線のホームは木造ではありません)。


近代城郭築城までの経緯


1590年の小田原征伐の後、豊臣秀吉とよとみ ひでよし(1537-1598)は東海道筋に所領を持っていた徳川家康とくがわ いえやす(1543-1616)を関東へ移封し、天下統一事業の仕上げにかかります。そして対徳川戦略の一環として東海道の家康の旧領には、秀吉を支えてきた面々をズラリと配置します。西から田中吉政(岡崎:57,000石)、池田輝政(豊橋:152,000石)、堀尾善晴(浜松:120,000石)、山内一豊(掛川:51,000石)、中村一氏(駿府:140,000石)。
結果的に関ヶ原の戦いでは、彼ら全員が徳川家康に味方する事になります。当時の秀吉にそんな未来は想像できなかったでしょう。山内一豊やまうち かずとよ(1545-1605)はそんな流れの中で新たな領地の中心・掛川城を整備していきます。


掛川城


1995年に復元された大手門
奥に見える大手門番所は江戸時代の遺構
 

静岡県掛川市掛川1138-24


掛川城は室町時代に駿河守護・今川氏の家臣だった朝比奈泰煕あさひな やすひろによって築かれます。その後も城代を務めたのは朝比奈氏。1560年に今川義元いまがわ よしもと(1519-1560)が織田信長おだ のぶなが(1534-1582)に桶狭間(尾張)で討たれると、今川氏は衰退していきます。1568年今川家との同盟を破棄した武田信玄たけだ しんげん(1521-1573)が今川氏真いまがわ うじざね(1538-1615)のいる駿府に攻め込むと、氏真は守り切れず掛川城へと逃げ込んで籠城します。
武田信玄と密約を結んでいた徳川家康は、遠州へ西側から攻め込んで掛川城を囲みます。籠城が続きましたが交渉の末に氏真は開城し、掛川城は徳川方となり、大名としての今川家は滅亡します。そして上記の経緯で一豊が入城します。


奥に見える太鼓櫓は遺構 三の丸から現在地に移築
 
天守は高知城に似ています
 
復元ですが階段がそれほど急ではありません
現存天守の階段はほぼハシゴが多い

一豊の建てた天守は江戸時代に地震で倒壊しています。その後再建されますが、再び地震で倒壊したまま明治を迎えます。
現在の掛川城天守は1994年に日本初の木造復元天守として再建されました。天守は古絵図や高知城を参考にして、一豊時代の天守を再現しています(高知城は一豊自身が建てた掛川城をベースにしています)。

山内一豊騎馬像 本山白雲作
山内豊秋氏寄贈
 
土佐山内家2代 山内忠義 兜
山内豊秋氏寄贈
 
軍配&軍扇 山内豊秋氏寄贈
 
十文字槍 二の丸美術館蔵
山内豊秋氏寄贈
 
復元された鯱

山内家18代当主・山内豊秋やまうち とよあき(1912-2003)さんに寄贈された山内家由来の品々が、掛川で展示されています。

天守から眺めていると、忍者の格好をした人がテケテケと忍者走り
その先で観光客に出会い、立ち止まって深々とお辞儀していた
礼儀正しいけど、忍者ならドロンと隠れてほしい(笑)
 
浜松方面のながめ 外堀代わりの逆川
正面に見える三角形が掛川市役所
 
掛川駅方面 掛川市の中心部
 
現存の御殿(右)と二の丸美術館(左)


二の丸御殿


家紋は最後の藩主太田氏と何故か徳川家?
 

掛川城二の丸御殿は、現存する数少ない御殿の1つです。最初は本丸に御殿があったそうですが、1707年の地震で倒壊したため二の丸に。はじめは高知城と同じく天守と一体型スタイルだったのでしょうか? 1854年に再び地震で倒壊してしまいますが、当時の藩主・太田氏が再建し現在に至ります。もちろん重要文化財。

御書院 上の間
結婚式もしくは講座スタイル
 

掛川グランドホテル(静岡県内を中心にホテル事業を展開している呉竹荘グループが運営)には、御殿で結婚式を挙げるプランがあります。建物はそれほど高級感は感じられず微妙。


こちらは上の間の裏側にある小書院
 
 
松平忠喬所用(左)と太田資俊所用の具足(右)
共に旧藩主の具足ですが寄贈したのは・・・
 

寄贈したのはまさかの杉良太郎さん。災害地での被災者支援にも力を入れられてる人。寄贈の経緯はパネルを。


掛川城の遺構は掛川市のお隣、袋井市にも残っています。


大手二の門 油山寺


静岡県袋井市村松1


鎌倉時代に起源を持ち、行基さんによって開かれた油山寺ゆさんじです。目の神様として知られています。



めの字は古銭で作られています


源頼朝により建立 安土桃山時代頃に再建(重要文化財)


現存の大手二の門(油山寺:重要文化財)

明治の廃藩時に最後の藩主家・太田氏が油山寺に寄進。二の門は1659年に当時の藩主井伊直好いい なおよし(1618-1672:井伊直政の孫、彦根藩とは別系統)が掛川城玄関前に建立し、江戸期から昭和期にかけ何度か修理されています。


鯱(重要文化財)

江戸初期に作られ掛川城大手門に飾られていた鯱。


復元された大手門(左) 江戸初期の大手二の門(油山寺:右)

よく似ていますが高さのバランスが違って見えます。二の門の方が低い。こういう門が2つもある意味は不明。


復元天守の鯱(左) 大手門に飾られていた鯱(油山寺:右)
 

複製の鯱は形は油山寺のモノを参考に、素材は高知城天守の鯱にならった青銅製のハイブリッド。

古いモノと復元されたモノがほどよくミックスされた掛川城は、掘り起こしていくと意外と広がります。


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