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風林火山はココから:河内源氏の超名門2 武田氏館 茨城県ひたちなか市

武田氏館といえば、一般的には山梨県甲府市の躑躅ヶ崎つつじがさき館のコトを指すでしょう。全国的知名度は不明ですが、実は茨城県にも武田氏館はこっそり?とあります。しかも御三家・水戸徳川家の居城だった水戸城からは目と鼻の先のトコロに。
時代は平安時代にさかのぼります。そして平安時代のうちに常陸の国から甲斐の国へと旅立っていった武田さん。いろいろあったようです。


武田氏は鎌倉・室町時代には甲斐の守護を務め、戦国時代の主要キャストの1人武田信玄たけだ しんげん(1521-1573)を輩出しています。
信玄さんは晩年に織田信長おだ のぶなが(1534-1582)をブッ飛ばすべく出陣しましたが、残念ながら途上で病を得てお亡くなりに。無念です。

かつての躑躅ヶ崎館跡には武田神社(山梨県甲府市)

「人は城、人は石垣、人は堀」と信玄さんは言われましたが、フツーに結構なお城になっている躑躅ヶ崎館跡。石垣はいつ頃のモノでしょうか?

動かざること山の如し 武田信玄像 (山梨県甲州市)

信玄さんの居城(館)は躑躅ヶ崎館でしたが、武田氏館で検索してみるとほぼ躑躅ヶ崎館が表示されます。今回は甲斐ではなく常陸の武田氏館を。


源義光:武田氏&佐竹氏のご先祖

常陸介ひたちのすけに任じられた義光よしみつ(1045-1127)は常陸へ下向し、地元の実力者大掾だいじょうと縁戚関係を結びます。長男義業よしなり(1067-1133)は久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男義清よしきよ(1075-1149)を那珂郡武田郷(ひたちなか市)に土着させています。
義光さんは、頼義よりよし(988-1075)の子で、兄義家よしいえ(1039-1106)らと河内源氏の基礎を築いた人たちです。
そして久保田城・如斯亭:秋田編で記事にした佐竹氏や、今回の主役・武田氏のご先祖さまなのです。

武田氏館 展示パネル

ひたちなか市は水戸市の東隣にあり、人口は153,000人。規模は水戸、つくば、日立に次ぐ4番目で、旧勝田市と那珂湊市が合併して成立。
勝田は日立の企業城下町、かつ水戸のベッドタウン。武田氏館から水戸市中心部までは直線距離で5km以内。


武田氏館

茨城県ひたちなか市武田584

武田氏館は那珂川を見下ろす台地の先っぽにあります。
地図で見ると分かりやすいのですが、一段低くなった台地の南側は田畑が広がっています。けっこうな高低差があるので、那珂川プラス高低差のある地形で南側の備えは万全でしょう。高低差は20mほど。
また常磐線をはさんで自衛隊の勝田駐屯地があって、ある意味現在も砦としての機能が維持されています。

台地の先端にある湫尾ぬまお神社(全く読めない)は、武田郷の鎮守だそうです。きれいに維持管理されていて、地元の方々には大切な存在なのでしょう。

武田氏館の北側には戸建住宅の団地が形成されています(武田団地?)。ちょっと迷路的な構造になっていて、幹線道路に出るためには地図をよく確認しないと苦戦します(ナビはあまり使わない派)。
少し迷っていると、カッコいい標識が何度か目に留まります。
デザイナーのセンスがあふれ、を構成する武田菱が泣かせます。そして兜や騎馬をモチーフにしたこのデザイン。
調べてみると観光促進のためのようです。ヤリ過ぎて読めないモノも(笑)

そしてお目当ての武田氏館。
館は昔の絵巻物等を参考に再現。主屋に納屋(受付事務所)とうまやが配され門、板塀、堀で囲まれています。

解説パネルによると、当時の館は現在地よりもっと南で常磐線の向こう側にあり、台地の先っぽの北東側には湿地帯が広がっていたようです。現在は自衛隊の敷地のようですが、湿地帯は沼として残っています。

パンフ 2022年版
馬もいます

主屋は主殿と玄関をつなぐ中門が特徴の主殿造り。玄関部分は半独立。屋根は本来わら葺きらしいのですが、防火のため銅板葺きで再現。
当時の主屋内部は柱だけで間仕切りはなかったそうです。必要に応じて衝立等で仕切って部屋化。

御旗、楯無、ご照覧あれ! 的なカンジ

義清は武田氏を名乗り、その子清光きよみつ(1110-1168)と共に武田郷周辺の豪族と勢力争いを繰り広げましたが、親子の暴れん坊ぶりが朝廷に訴えられて、甲斐の国へと配流になります。甲斐武田氏の起源はけっこうダーク。ただし甲斐は頼信、頼義、義光の源氏三代が甲斐守に任じられたゆかりの地です。

困ったものです 武田氏館展示パネル

お公家さんの日記には「清光はテキトーな上に暴れん坊過ぎで迷惑してますと国司に訴えられた」と義清親子の配流理由が書き留められていました。
子細な目録があったようですが、現存していない模様。
もともと那珂川以南には平氏の地元勢力がいて、義清親子は勢力拡大に焦っていたようです。実力主義(自力救済)の世界の厳しさと、長い目で見ると何が転機になるのか分からないというコトを歴史は教えてくれます。
武田家の場合、かなり気の長いおハナシになりますが。

武田さんは地域に馴染めませんでしたが、佐竹さんは地元の方々とうまくやりつつ、徳川家康に移封されるまで400年常陸の国に君臨しています。

配流の旅 展示パネル

推定された配流ルート。筑波山北側が当時のメインルートだったようです。

配流された義清の子孫は甲斐の国で勢力を蓄え、甲斐源氏と呼ばれる一派を形成します。武田氏を中心に、信濃の小笠原氏、陸奥の南部氏もその流れを汲んでいます。

奥には湫尾神社

戦国期の武田氏は甲斐・信濃を勢力下に置きますが、織田信長によって滅ぼされてしまいます(鎌倉・室町時代に分流した安芸武田氏や若狭武田氏も大名家としては存続できず)。
徳川家康は佐竹氏を秋田へ移封後に、5男の信吉のぶよし(1583-1603)に水戸25万石を与え、偶然なのか武田氏発祥の地で武田氏を再興します(信吉の母や信吉の周囲には武田信玄ゆかりの人)。
ところが信吉は跡継ぎがいないまま若くして亡くなり、断絶。(最終的に信吉の末弟頼房よりふさ(1603-1661)が水戸を領有し、徳川御三家の一員に)。

常陸の国には縁がなかったとしか言いようがない河内源氏の名門・武田氏。



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