徳川将軍家も新政府も支えた高須四兄弟 海津市歴史民俗資料館 岐阜県海津市
江戸幕府を開いた徳川家康(1543-1616)は、徳川将軍家が絶えないよう御三家のシステムを整えています。御三家は将軍職を継ぐコトができ、徳川の名乗りが許された別格の大名家。
その筆頭が家康の9男徳川義直(1601-1650)を祖とする尾張徳川家63万石。義直の思想により勤王をモットーとした藩。その尾張家にも保険となる支藩がありました。今回は彼らを紹介するミュージアムの記録です。
尾張徳川家の分家が陣屋(城?)を置いたのは現在の海津市。岐阜県の西南端にあり人口は31,800人(県内では2番目に人口の少ない市)。
揖斐川と長良川に囲まれた海抜ゼロメートル地帯が広がり、輪中と呼ばれる堤防に囲まれた土地が多くを占めています。そして木曽三川(揖斐川、長良川、木曽川)の集合部分。
海津市歴史民俗資料館
岐阜県海津市海津町萱野205-1
一見、御殿もしくは陣屋のような外観を持つのは市立ミュージアム(はじめは町立)。輪中や高須藩関係の資料を展示。館内には御殿の一部が再現され、能舞台も設けられています(有料で利用可らしい)。
掘田は低湿地での土地利用のためのこの地域で特徴的だった農作地。
現在は残っていないそうですが、江戸後期から明治期にかけては、耕作地を増やすために堀った泥を積み上げこの形状に。当時は小舟による水上交通が中心。
輪中の地主の住居に見られた水屋建築。屋敷地全体を石積みで嵩上げ(2m)していますが、左側の土蔵は右側の住居よりさらに一段高く(1.5m)。
西の揖斐川、東の長良川に囲まれた海津。現在は明治期の改修で長良川と木曽川を背割堤(長さ11km)で分岐させたままにして、河口はそれぞれ伊勢湾に。
蛇籠は治水工事用に古くから伝わる工事道具。
天下普請の治水工事で薩摩藩の責任者だった平田靱負。薩摩藩の力を削るために幕府が命じた工事とされています。平田さんは工事後に亡くなり現地で葬られていますが、莫大な工事費の責任を取っての自刃という説もあります。現地では、鹿児島人は感謝の対象。
開館当時は町立でした。気合の入ったミュージアムです。
高須藩
高須藩は1700年に尾張徳川家2代光友の2男松平義行(1656-1715)により立藩されています。母は家光の娘・千代姫(1637-1699)。父は家康の孫、母は家康の曾孫と徳川濃度のかなり高い松平さん。
高須藩は尾張藩の分家なので、尾張徳川家の御三家的な役割を持っています。実際に尾張家の当主を輩出。そして参勤交代のない定府(江戸在住)。
美濃国高須に1.5万石、信濃国に1.5万石の領地を持ち合計3万石。
江戸では四谷(新宿区四谷)に屋敷があったので四谷家とよばれます。ちなみに本家尾張家の屋敷は市ヶ谷にあって、跡地は現在の防衛省。
高須藩9代松平義和(1776-1832)は水戸徳川家からの養子。幕末期に彼の孫たちは、それぞれドラマのような人生を歩むコトになります。高須四兄弟と呼ばれた面々です。
輪中内は全域支配ではなく幕府領・旗本領が混在しています。
御書院の間には入れませんが、展示の目玉でしょうか。
床の間の「大心海」は義建筆のもの(レプリカ)。
こちらは私的・日常空間の山吹の間。棚は藤棚。
今上天皇&皇后さんが皇太子時代(1995年)に、こちらで休憩されたそうです。やっぱり上段?
高須4兄弟は高須藩10代松平義建(1800-1862)の子ら。義建の祖父は水戸徳川家6代藩主徳川治保(1751-1805)。義建は9代水戸藩主徳川斉昭(1800-1860)とは従兄弟同士で、かつ正室は斉昭の姉。
寺社へ揮毫を多く奉納していて書に秀でた殿様。
多くの子供に恵まれた義建の子たちには、
徳川慶勝(1824-1883)は2男、尾張徳川家14代を継ぎ、後には17代でも再登板。母は正室で徳川斉昭の姉。安政の大獄では斉昭らと共に失脚。
多趣味で当時最先端の写真愛好家の一面も。
松平武成(1825-1847)は3男、越智松平家7代を継ぎ、石見浜田藩主。越智松平家は6代将軍家宣(1662-1712)の弟から始まった家。武成は若くして亡くなりますが、跡を継いだのは15代将軍慶喜(1837-1913)の弟。
徳川茂栄(義比→茂徳:1831-1884)は5男。高須藩11代から尾張徳川家15代となり、さらに慶喜の後継として一橋家を継承。14代将軍家茂からの信頼が厚かった人。
一橋家は8代将軍吉宗(1684-1751)の子や孫から始まった御三卿の1つで、将軍の家族という立ち位置。
兄弟で最も知名度が高いと思われるのは、6男の松平容保(1836-1893)。会津松平家9代を継ぎ、京都守護職となって火中の栗を拾います。孝明天皇(1846-1867)からの信頼が厚かった人(本人は御宸翰を肌身離さず)。
会津松平家は3代将軍家光(1604-1651)の異母弟保科正之(1611-1673)から始まった家。
松平定敬(1847-1908)は8男、久松松平家13代を継ぎ、桑名4代藩主。京都の幕府要職・京都所司代に。
久松松平家の祖は、徳川家康の異父弟松平定勝(1560-1624)。9代目には松平定信(8代将軍吉宗の孫)が。
こうしてみると将軍家に近い家ばかり継承しています。それだけ高須藩が将軍家から重要視されていた証拠でしょう。
養子は概して実子よりもその家の伝統や個性を強く受け継ぐ傾向が強いそうです。それだけの教養も備え、いち早く家に馴染むためとも。
そして末弟の10男は松平義勇(1859-1891)。高須藩13代で最後の藩主。
高須四兄弟
高須四兄弟と呼ばれるのは、徳川慶勝、徳川茂栄、松平容保、松平定敬。
慶勝さんは安政の大獄で失脚しますが、禁門の変を起こした長州藩に対して派遣された第一次長州征討では総督を務めています。
幕府の大政奉還後の王政復古の大号令では、新政府の幹部(議定)に。
慶勝は旧幕府派を処分し尾張藩を勤皇にまとめ、周辺の各諸藩も説得しています。藩祖の教え恐るべし。
茂栄さんは、兄弟や当時将軍後見職だった慶喜らと将軍家茂を支え、江戸留守居役も務めています。家茂没後には、将軍となった慶喜の跡を継ぎ一橋家当主に。慶喜らが朝敵にされると新政府に対し助命嘆願に奔走します。
容保さんと定敬さんは兄弟で京都守護職と京都所司代を務めます。結果的に新政府(薩摩&長州)から目のカタキにされ追討対象に。容保さんは会津に籠城。定敬さんは新潟から会津、そして函館へと転戦し新政府軍に抵抗。
本人たちの意思というよりも、継いだ家の立場を貫いたという印象。
二人は歴史では敗者側になりましたが、生き方には清々しさを感じます。
歴史民俗資料館発行のすごろく。資料類を読み込めば、これほど簡単にはまとめられません(笑)
「スタートにもどる」がエグい(史実でも局面の大転換が)。
高須四兄弟については、新宿歴史博物館(彼らの生まれた四谷屋敷のあった地域)発行の図録に詳しい。
図録はもう10年も前のモノですが、最終章は「再会」。
新政府方と旧幕府方に分かれた兄弟は、西南戦争も終わり世の中が落ち着いてきた頃に4人で再会しています。それは父・義建の17回忌。
そして銀座の写真館で記念撮影をしています(下のチラシ内)。
撮影代は4等分して支払い、そのあとに慶勝邸で会食したそうです。
右端に立つ慶勝は、最後の将軍慶喜の老年期にソックリです(曽祖父は同じ水戸家の血筋で、かつ慶勝の母は慶喜の叔母)。
新政府側にいた慶勝・茂栄が、旧幕府側の容保・定敬の釈免に奔走し、ようやく掴み取った再会でした。なんともドラマティック。
ちなみに松平容保の曾孫恒孝さん(1940- )は徳川宗家に養子に入り18代を継承。長子家広さん(1965- )が2023年に19代を継いでいます。兄弟が守りたかった徳川家は、21世紀には彼らの血筋に。