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したため #8 『擬娩』の感想|他者の経験を想像し模倣してみること、あるいは演技についての演劇

 したため#8『擬娩』を見た。せりふにはユーモアと笑いがふんだんに含まれていたものの、緊張感のある演技と展開が常に、最後まで持続していて(それを象徴していたのが、ステージに張りめぐらされたテグスだろう)、笑っていいのやら、いけないのやら……と混乱しながら見ていた。中盤からは、めちゃくちゃ笑ってしまったけれど。

 擬娩。妻の出産を夫が模倣する習俗のこと、らしい。
 この変わった風習は、作品の主題であり、『擬娩』の上演や公演そのものが擬娩にもなっている。俳優たちの演技は、擬娩という模倣のふるまいでもある。擬娩とは、それそのものが演技、演じることなのだ。

 妊婦ではない者が妊娠と出産を演じてみること。擬娩を上演する演劇だということは、演じることについての演劇、つまり、かなり自己言及的な演劇だということに、必然的になる。
 そんな不思議なかまえの演劇だからこそ、演じることの本質をえぐりだしているように感じた。自分のものではない、自分の外にある他者の経験を想像して、それを模倣し、再現してみること。「演技、演じるってなに?」みたいな、ピュアで根源的な問いに対する答え――「演技」というものの辞書的な、根本的な原義を、出演した4人の俳優たちと和田ながらは考えぬいたんじゃないだろうかと思った。

 なんだか、4人が、本当に妊婦に見えてくるのだ。それぞれの身体に様々な人格が次々に憑依していくかのように、彼らは妊娠して出産するまでの過程を、個別具体的な経験を語るせりふや動きで演じていく。
 4人が妊娠し出産するプロセスを通じて、見ている私も妊婦や、時に胎児になったかのように感じた。それほどまでに、体験型の演劇だった。まるで、遊園地のアトラクションのように。
 自分は、生まれた時に割り当てられた男性という性にほとんど違和感を覚えることなく、今まで生きてきた。だから、女性が子どもを孕み、産む過程を体験することは、おそらくできないまま死んでいくだろう。そんな本来は不可能なことを、ぎりぎりと苦しみながら、時にのたうちまわりながら擬娩の行為を続ける舞台上の4人を見ていただけで、自分が擬娩という行為に参加することなく、体験できた気になれた。それが、とても不思議だった。
 そこには、もちろん、他者をわかった気になってしまう、というおごりや欺瞞、錯覚も潜んでいる。けれども、私はその体験を演技や演劇の純粋な力として受け取った。

 4人は、劇の冒頭で、林葵衣による独特の舞台美術と小道具で顔を隠した状態から、妊娠や出産についてのかなり個別具体的な経験や意見を口にしていった。それは、自身が「生まれた」という事実についてのコメントだったり、あるいは自身が産むことについてだったり、遺伝についてだったり、妊婦の状態での労働だったり、さらには多種多様なつわりについてだったり。
 俳優たちが様々な妊婦を演じていくなかで、テグスをぐるぐると巻きつけられた杉の木枠の小道具も、役割を変幻させていく。木枠は、俳優の身体の一部を覆い隠す擬似的なモザイクや、胎児の状態を確認するエコー検査の画面、果ては胎児が出てくる膣のメタファーにもなっていた。木枠も、ステージの上でたくさんの役を演じていたのだ。
 もうひとつの舞台美術であるステージの左右に張りめぐらされたテグスは、俳優たちの演技を拘束したり、身体を支えたり、ガイドラインになったりする。とはいえ、テグスの存在から強く感じたのは、やっぱり「緊張」だった。妊娠と出産の苦しみ、痛み、拘束性を、ぴんと張った糸が語っていたように思えたのだ。それは、まさにタイトロープそのものだった。

 緊張を象徴するタイトロープの上を綱渡りするかのように、動いたり、這いずりまわったり、寝転がったりする俳優たちは、ダンスしているようにも見えた。実際の擬娩を見たことはないけれど、それはきっと演技であると同時に、ダンスのようでもあるのだろう。

 とにかくおもしろくておかしかったのは、胎児とのエコーを通じた対話のシークエンスで、現実の世界や社会の規律がなにも刻印されていない純粋なタブララサであるところの胎児は、母親を質問攻めにする。「そこ、どこですか?」とか、「日本って、いい国なの?」とか、「生まれるメリットって、ありますか?」とか、「オスとメス、どっちがいいですか?」とか。そういう所与の、あたりまえの現実を揺さぶる質問が、私たちがいま抱えている問題を、諧謔とともに炙りだしていく。

 妊婦の叫びから胎児の質問、終劇の呪いじみたマントラ(ここのせりふや演出には若干、疑問が残った)まで、『擬娩』は多彩なせりふの本流だった。
 その中で、忘れがたかったものがひとつある。子宮腔が開ききっていないのに陣痛がきて、いきみ逃しをして苦しんでいる妊婦が、半ギレしながらものすごい勢いで叫んだ言葉だ。「哺乳類のこのやりかたって、なんかおかしくない!? まちがってない⁉︎」。

 それと、俳優たちの関西弁も、なんだか心地よかった。プロフィールを見ると、4人のうち石原菜々子だけが東京出身で、あとの3人は関西の役者だった。
 豊かでスポンテイニアスなニュアンスを含んだせりふが多かったから、それらの言葉どこまで脚本に書かれているのかは、よくわからない。だからこそ、俳優たちの口から自然に発せられる関西弁の語りが、とても生々しかった。

 『擬娩』は、「自分の命も女性の身体の中で育てられ、産まれたんだな」と、見るひとにあらためて強く感じさせる。そんなあたりまえの前提をすぐに忘れて、時には動物であることすら忘却してしまうのだから、私たち人間というのは難儀な生き物だ。
 「哺乳類のやりかた」への叫びが思い出させるように、『擬娩』は、人間の動物性、人間が生き物であることを、ストレートに問いなおす演劇でもあった。

 ただ、コンセプチュアルな作品であるだけに、衣装を匿名的なものにするとか、もうすこしひねりがあるとよかった、とは思った。4人とも、ジェンダーは感じさせないものの、かなり普段着に見える格好だったから。

2023年2月9日、こまばアゴラ劇場
帰りの京王井の頭線、西武バスの車内で

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