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【小説】ジョン・ラナーに会いたい

「僕、ジョン・ラナーに会いたいんです」
 スタジオは静まり返った。無理もなかった。小さな男の子の口から、よく分からない名前が突然出てきたのだ。
 観覧客は誰一人として反応できなかった。場の空気を整えるはずの司会者も、事前にちゃんと台本を読んでいなかったため、ジョンって誰だっけ、と何も言わずに首を傾げている。ジョン・ラナーという人名は、ふわふわとしていたスタジオの雰囲気を一気にぶち壊した。
 ウイスキーを頻繁に飲んでいるようなほんの一部の客は、ジョン・ラナーを知っていた。ウイスキー好きならば、必ず一度は口にする定番スコッチの名であった。観覧客の中には、ジョン・ラナーの熱狂的なファンもいた。しかしそんなファンですら、ジョン・ラナーに会いたい、という言葉の意味をよく理解できなかった。ジョン・ラナーに会いたいだって? お酒も飲んだことのない子どもが? 少年の言葉を信じきれなかった彼らは結局、聞き間違いだろう、と各々が自身の耳のせいにした。
 
 司会者は男の子に尋ねた。
「ジョン・ラナーって誰なのかな?」
 男の子は答えた。
「ウイスキーのおじさんだよ」
 タリスか? ウイスキーのおじさん、という言葉で観覧客のほとんどが、国産のウイスキーのラベルに描かれているおじさんを思い浮かべた。ジョン・ラナーを知っている客たちも、これには納得した。なあんだ、タリスか、と。スコッチのマスコットキャラクターに会いたいと願う男の子が、一体どこにいるだろうか。
 タリスのおじさんは、優しいタッチと薄い色使いで描かれたキャラクターで、彼の出演するテレビCMも、ここ最近よく流れていた。お酒の味を全く知らない子どもであっても、あの丸っこくて可愛らしい彼を好きになることは十分あり得るだろう。スタジオの空気は徐々に温かさを取り戻していった。客の肩から力がふっと抜けた。
 客の一部は、スタジオの壁に取り付けられたカーテンに、ちらちらと目を向けていた。果たして、あの奥にいるのはタリスの着ぐるみだろうか。それとも、誰もいないのだろうか。
「ああ」
 と司会者が納得した顔で何度も頷く。
「あのタリスのおじさんのことだね」
「違うよ」
 男の子は答えた。
「ジョン・ラナーは、ジョン・ラナーだよ」
 
 田口はパイプ椅子に座っていた。ジョン・ラナーに会いたいんです、という男の子の言葉の後、スタジオが静まり返ったのをはっきりと感じた。彼は頭を抱えた。こんな仕事、断るべきであった。誰が男の子と俺なんかの対面を望んでいるだろうか。
 田口は鮮やかな緑色をしたジャケットを着て、嫌味なほど真っ白なズボンをはいた姿で、スタジオの裏で座っていた。おまけに右手には木製の杖まで握られている。
 彼はジョン・ラナーに扮していた。見る人が見れば、彼の姿はもう滑稽なほどジョン・ラナーであった。もうじき、田口の視線の先にあるカーテンが開く。彼はその真後ろに立っていなければならない。少年の願い通り、彼はジョン・ラナーとしてスタジオに登場しなければならなかった。しかし、彼は座ったままでいたかった。明らかに白けているスタジオから出来るだけ遠ざかっていたかった。
 彼の側にはマネージャーだけがいた。番組のスタッフはじっとスタジオ内の様子を覗いていたり、忙しそうにあちらこちらへ歩き回っていたりと、派手なジャケットを着て明らかに目立っている田口には、誰も目もくれなかった。
「どうしたもんかねえ」
 田口は空に向かって呟くように言ったが、その声色にはマネージャーを非難するようなものが含まれていた。それを察知したマネージャーは、一瞬肩を震わせた。申し訳なさそうな表情こそ浮かべたが、口を開いて謝ることはなかった。

 マネージャーにとっては飛んだ災難であった。マネージャーは何も悪くなかった。というのも、こんな仕事を取ってきたのは田口の要望をかなえただけに過ぎなかった。
 田口は30ちょっとの俳優である。若い頃は人気のある俳優であったが、最近は映画やドラマへの出演依頼がめっきり減り、テレビに彼の顔が映ることは大変稀であった。演劇の方で食ってはいるが、日本では演劇への理解がどうも薄い。演劇は、映画やドラマに出られなくなった俳優がやるもの、という誤った偏見が広まっているのを、彼はひしひしと感じていた。
 彼は演技が下手なわけでは決してなかった。演劇の方でも十分活躍していた。だから、世間の目など一切気にしなければ、演劇だけで生きる分には何も困らないはずであった。しかし、彼には記憶があった。ほんの十年前まで、映画やドラマに出つつ、宣伝のためにバラエティに出てはちやほやされていた記憶があった。テレビ番組で浴びる声援は、所詮作り物のようなもので、番組を作るための一部でしかなかった。彼自身もそれは分かっていたが、それでもあの感覚は、彼の中の何かを満たしてくれていた。自分に向かって誰かが声を張り上げてくれる感覚は、忘れようとしてもなかなか消えてくれないものであった。
 演劇で生きる傍ら、テレビの仕事があれば入れてくれるよう、彼はマネージャーにしつこく言い続けた。
 そして仕事がやってきた。
 こんな仕事とは。ただのコスプレじゃないか。

 ウイスキーのおじさんだよ、という男の子の声に、スタジオの空気が和んだ。田口はますます胸の内が苦しくなった。違うのだ。誰もが思い浮かべる、丸くて可愛らしいあのウイスキーのおじさんではない。カーテンが開いた瞬間、観覧客の予想をぶち壊す彼の姿に、スタジオが沸くとはとても思えなかった。さらに悪いことに、誰も田口の顔を認めてくれないだろう。数年前に流行った俳優の顔なんて、もうみんな忘れてしまっている。田口はただの、ジョン・ラナーの再現として、これからスタジオの中に入っていくのである。
「そろそろ出番です」
 早足で何処かへ向かっていたスタッフが、ふと思い出したように首を曲げて、田口に告げた。スタッフはそのまま立ち去った。田口がため息をつくと、マネージャーは再び肩を震わせた。田口はゆっくりと立ち上がって、カーテンの前まで歩いた。

 司会者も観覧客のほとんども、ジョン・ラナーの姿を思い描けなかった。ウイスキーのマスコットと言えば、タリスのおじさんの他は知らなかったし、そもそもタリス以外のウイスキーのマスコットについて考えたことがなかった。
「そうですか」
 司会者は何も言葉が出てこなかった。カンペを見た。”呼び込め”という指示が書かれている。助かった。
「それでは、登場して頂きましょう」
 司会者が一息吸った。
「ジョン・ラナーです」
 カーテンが開いた。天井の照明が白くて強い光を田口に向けた。彼は光の眩しさに目をやられて、何も見えなかった。客席は真っ暗で、そこには誰もいないかのように思えた。一歩、二歩踏み出した後、首を左に回した。スーツを着た司会者と、その近くに小さな男の子が見えた。誰も何も言葉を発しなかった。スタッフの指示に従って、拍手をした観覧客が数人いただけであった。パラパラと小さな拍手が響く。何もない方がよかった。
 変なジャケットを着て、ジョン・ラナーに扮しているのが田口であると、気付いた客は一人もいなかった。田口は、光で目がやられたまま、少年の元へゆっくりと歩いた。苦笑いをしている司会者の顔とは対照的に、少年は緊張した面持ちで、真っすぐ田口に目を向けたまま、少しも視線を逸らさなかった。田口は自身の頬がゆっくりと上がるのを感じた。力強い目をしている少年にとって、田口は田口ではなく、ジョン・ラナーそのものであるのだ。田口はジャケットを着た貴人らしく、余裕の感じられるような振る舞いをしようと努めた。杖の使い方はよく分からなかったが、威勢のよさを出そうと、杖を握る右手を腕ごと大きく振った。拍手でお出迎えください、ジョン・ラナーさんです、と司会者が遅れて紹介をした。観覧客の拍手はやはり小さかった。
 田口は、にこにことした表情のまま少年の前までたどり着くと、杖をさっと左手に持ち替え、右手を伸ばした。少年は田口の顔から目を離さずに、田口の手を握り返した。
「ジョン・ラナーです」
 と少年にだけ聞こえるくらいの声で挨拶をしたものの、どうしてもわざとらしさが目立ってしまう。握手を終えると、田口は少年の近くに置かれた椅子に座った。少しでも雰囲気を出そうと、彼はひょいと足を組んだ。少し濃い茶色の革靴が目に入る。履いている自分も呆れるほど、ぴかぴかと照明を反射していた。
「ついに憧れのジョンさんが来たねー」
 司会者が、少年に向かって猫なで声で言った。少年は何も喋らずに、田口を見つめたまま、力強く何度もうなづいた。
「ジョンさんはお酒のキャラクターなんですよね」
 と司会者が田口に尋ねた。ええ、そうなんです、と田口は微笑みながら答えた。そして事前に頭に入れておいた、ジョン・ラナーに関する知識を披露した。私はスコットランドで作られるウイスキー、つまりスコッチのマスコットキャラクターで……。
 田口が言い終えたとき、へぇ~、というわざとらしい観覧客の声がスタジオに響いた。田口は満足そうに微笑みながら、何度か深々と頷いた。心の中では、くだらないという思いがより一層強くなった。
「そんなスコッチウイスキーのキャラクターに」
 司会者が少年の方を向く。
「どうして君は会いたかったの? まさか毎晩飲んでいるとか?」
 観覧客が笑った。田口もつられて小さく笑った。少年は首を振った。
「僕は飲んでいません」
 田口は初めて少年の声を直接聞いた。十歳くらいの見た目をした少年にしては、とても落ち着いていた。田口はカメラに映る自身の姿を意識しながら、少年を優しく見守っていた。
「僕は、ってことは、親戚の方とか、おじいちゃんとかが飲んでいたのかな?」
 司会者の言葉に少年が首を振った。
「お母さんです」
 へぇ、と田口は思った。スコッチを飲む女性の姿を上手く想像することができなかった。少なくとも、田口の知り合いにはそんな女性はいなかった。映画やドラマ、演劇の中で女優が飲むのは、決まって赤い色をした妖艶なカクテルであった。ピートや磯の香りを漂わせながら、スコッチのグラスを揺らす、母親。この少年は田口の知らない景色を持っていた。お母さんねぇ、と言葉をつなぎながら、司会者がカンペを確認した。
「さあ、そんな彼ですが、今日はジョン・ラナーさんにお手紙を書いてきたんだよね」
 司会者の言葉に、観覧客がわざとらしくざわめいた。手紙だって? 田口もあまりよく台本を読んでいなかった。少年の思いを聞く準備なんて全くできていなかった。コスプレをして適当に会話をするだけで終わる仕事だと思っていた。
 司会者の言葉に、少年は田口からやっと目を離して、ズボンのポケットをまさぐった。その中から四つ折りのルーズリーフを取り出して、ゆっくりと開いていった。田口は彼の字が少しだけ見えた。小さかった。びっしりと書かれた文字が見えた。ルーズリーフは何枚もあった。少年は紙を開いた後、すうと音を立てて息を吸った。彼がそれを吐くのを確認して、司会者が言った。
「それでは、読んで頂きましょう。ジョン・ラナーさんへの思いです」
 スタジオが暗くなった。少年と田口にだけ、白くてぼんやりとしたライトが当てられていた。

 ジョン・ラナーさんへ。
 まず、ごめんなさい。
 ごめんなさい、と言っても、僕が悪いことをしたのではありません。僕のお母さんの分です。お母さんが大変迷惑をかけました。きっと、お母さんの言葉はジョン・ラナーさんに届いていたと思います。本当にごめんなさい。

 僕のお母さんは、38歳でした。
 僕が学校から帰ってくると、お母さんはいつもお酒を飲んでいました。お母さんはウイスキーに目がなくて、特にジョン・ラナーさんのボトルを、僕は何本も見てきました。お酒をどれだけ飲んでもお母さんはあんまり酔わなくて、暴れたり寝ちゃったりすることもありませんでした。とにかく目をとろんとさせながら、僕の学校の話を聞いて、だらだらと笑うだけでした。そして、夕方の18時頃、僕に晩ご飯を作ってくれた後、お母さんはお仕事に行きました。寂しかったけれど、机の上に置かれたままのジョン・ラナーさんを見ていると、少しだけほっとしました。

 お母さんはたまに、お酒を飲みながら悲しんでいました。机に突っ伏して寝たふりをして、僕の目をごまかしながら、泣いていたことが何度かありました。お酒を飲みながら泣く人は、映画やドラマの中にもたまにいますが、お母さんの姿はまさにそれと一緒でした。何も言わずに、しくしくと泣いていました。僕も何だかよく分からないまま、何度か泣きそうになったけれど、頑張ってこらえました。何のためにこらえたのかは分からないけれど、それでもこらえました。きっとお母さんは、僕の知らない何かを抱えていたんだと思います。僕の家にはお父さんがいませんが、そのことが関係しているのかもしれません。分かりません。もしかしたら、僕のことで泣いていたのかもしれません。
 とにかく、お母さんは泣いていました。でも、ジョン・ラナーさんのせいではないと思います。
 
 お母さんがお酒を飲みながら僕の帰りを待っていて、たまに泣いていたけれど、そんな日々が本当に幸せでした。少しの不満もありませんでした。学校も楽しかったし、お母さんと会話をするのも楽しかったです。

 けれど、お母さんは倒れてしまいました。突然のことでした。お母さんがお仕事に行った後、僕はいつも通り一人で寝ていましたが、夜中、急におばあちゃんに起こされました。おばあちゃんは近所に住んでいて、お母さんが倒れたという知らせを聞いて、僕の家まで飛んできました。僕はおばあちゃんと一緒にタクシーに乗って病院に向かいました。街は本当に静かで、僕たちのタクシーの音しか聞こえませんでした。街灯はあまり役に立っていなくて、僕たちの進む道路の先が真っ暗だったことを憶えています。
 お母さんはベッドの上にいました。起きていました。僕たちの街は本当に小さいので、病室には他に誰もいませんでした。病室の光は寂しくて、その中にぽつんと一人でいたお母さんはとても寂しく見えました。
 お母さんは弱々しく微笑むと、僕の頭を撫でました。何度か撫でた後、お母さんは言いました。ジョン・ラナーのせいだね、って。
 
 僕はおばあちゃんの家に住むことになりました。おばあちゃんの家が近かったおかげで、学校にもちゃんと通えました。それでも僕は何となく学校がつまらなくなりました。学校の方は何も変わっていないはずなのに、全く違うもののように見えました。僕は授業にも集中できなくなりました。何もノートに書けずに、ぼうっと過ごしているだけの時間が多かったです。遠足もありましたが、僕はとても参加する気になれなくて、その日はおばあちゃんと家にずっといました。
 学校の後は、ほとんど毎日病院に行って、お母さんに会いました。お母さんはいつものように僕の話を聞いてくれました。お母さんはもう、お仕事に行く必要もなかったので、僕はいつまでもお母さんとお話することが出来ました。学校にいるよりずっと楽しかったです。
 けれど、お母さんは泣くようになりました。僕の前でもわんわんと泣くようになりました。ベッドに拳を何度も叩きつけながら、泣いていました。その姿をよく憶えています。お母さんが泣いている間、たまに看護師さんが僕たちの部屋にやってきましたが、泣いているお母さんを見つけた途端、何も見なかったように、そして何か用事を思い出したかのようにくるりと体の向きを変えて、すぐに別の場所に行ってくれました。おかげで、お母さんは何も気にせず、声を上げて泣くことができました。
 僕は前より、お母さんの泣く理由が分かるような気がしました。それでも僕は泣きませんでした。

 お母さんはよく、ジョン・ラナーさんの名前を出すようになりました。楽しく笑っている最中、ふと思い出したように寂しい顔になって、僕の頭を撫でながら、ジョン・ラナーのせいだね、と言いました。わんわんと泣いた後も、急に恥ずかしくなったのか、とりつくろうように笑いながら、ジョン・ラナーのせいだね、と僕に言いました。その言葉を聞く度、僕は、お母さんがお仕事に行った後、ジョン・ラナーさんと二人きりで家にいたことを思い出しました。お母さんがいなくても、ジョン・ラナーさんが僕を見ていました。そんなことを思い出して、僕はお母さんの言葉にいつも首を振っていました。ジョン・ラナーさんはそんなに酷い人じゃないよ、って。
 
 本当は止めさせたかったけれど、お母さんは事あるごとにジョン・ラナーさんの名前を出し続けました。僕への冗談のつもりで言っていたと思いますが、あんまり面白いとは感じませんでした。

 お母さんが入院して、半年が経とうとしていた頃のことです。
 学校帰りに病院に寄った僕は、病室でお母さんとお話をしていました。何の会話だったかは憶えていません。しかし、さっき言ったように、僕はもう学校のことを楽しいと思えなくなっていたので、楽しそうな学校生活を頭の中でつくって、お母さんに嘘を話していたと思います。外にすっかり出られなくなったお母さんは、僕の嘘も見抜けませんでした。いや、分かりません。本当は僕の嘘を見抜いていたのかもしれません。けれどもお母さんは、僕の話をいつもにこにことしながら聞いてくれました。
 僕の話がひと段落すると、お母さんは笑いながら、いつものように僕の頭を撫でてくれました。そして、お母さんは言いました。ジョン・ラナーのせいで、ごめんね、と。
 僕はその瞬間のことはよく憶えています。今まで胸の中で溜め込んでいた何かが遂に弾けてしまって、頭がカッとしました。ジョン・ラナーさんは僕にとって、決して悪人ではありませんでした。一人ぼっちの僕と一緒にいてくれた、僕のお友達のような存在でした。そんなジョン・ラナーさんのことを、母はずっと悪人であるかのように、口にしていました。僕は、頭の上のお母さんの手を払って言いました。
「ジョン・ラナーさんのせいじゃない!」
 お母さんはびっくりした顔で、僕のことを見ました。お母さんの目はかっと開いていましたが、口にはあまり力が入っておらず、まさにぽかんと言った表情でした。僕はその顔を強烈に憶えています。僕たちはどちらも、動けませんでした。
 少し経った後、ふっとお母さんの顔から力が抜けて、今まで見たどの顔よりも、疲れ切った顔をしました。お母さんは、何かを諦めたような顔をしていました。僕は何を言えばいいのか分からなくなって、お母さんに背を向けると、そのまま病室を飛び出してしまいました。廊下で待っていたおばあちゃんが、僕の足音に驚いていました。僕はそんなおばあちゃんも見えていないかのように、一人で階段を必死にかけ降りました。
 お母さんは、それから3日後に亡くなりました。僕が学校にいた間のことでした。

 ジョン・ラナーさんのことで、あんなに怒ってしまったのが、僕とお母さんの最後の会話でした。会話とはとても言えないのかもしれません。けれど、とにかく、お母さんに会ったのは、あれが最後でした。
 僕は今、おばあちゃんと一緒に暮らしています。おばあちゃんはお酒を飲まないので、ジョン・ラナーさんに会う機会もめっきり減ってしまいました。
 けれど、僕は時折あなたに会っています。おばあちゃんがスーパーに行くとき、僕も一緒についていき、お菓子コーナーへ向かう途中、必ず、こっそりとお酒コーナーへ寄って、ジョン・ラナーさんを見るようにしています。十秒も見つめていると、僕の胸は冷たくなって、心臓がばくばくと内側から肋骨を押すのが分かります。
 けれど、ジョン・ラナーさんに、今でも、少しでも会えるのが僕の救いなのです。

 今日、ジョン・ラナーさん本人にお会いできることが本当に楽しみでした。僕にとって、あなたの存在は、お母さんとつながる何かなのです。
 そして、本当にごめんなさい。お母さんは最後の最後まで、冗談とは言えど、自身の病気の原因をあなたのせいにしていました。
 けれど、事実ではありません。あなたのせいでは決してありません。お母さんは、不規則な生活のせいで病気になったのです。それだけなのです。
 そして、僕はあなたの姿にずっと支えられてきました。僕は、あなたが、大好きです。

 スタジオがゆっくりと明るくなっていく。少年は手紙から顔を上げて、田口の瞳を見つめていた。
 田口は組んでいた足をほどき、ゆっくりと立ち上がると、少年の方へと歩いて行った。少年は椅子から立ち上がった。田口は彼を抱きしめた。誰も何も言わなかった。拍手の音もなかった。少年は田口の胸に顔を埋めた。少年は声を上げなかった。田口の胸が静かに濡れた。
 少年は田口の胸から顔を離した。涙は流れ続けていた。少年は手の甲で何度もそれを拭った。
 そして、しっかりとした声で言った。ジョン・ラナーのせいだね、と言った。

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