見出し画像

【小説】飛ぶ

 真似してね、ちゃんと、と彼は言って、ウイスキーをあおった。ロックグラスになみなみと注がれた黄金色の液体は、みるみるうちに彼の喉に吸い込まれていった。少し離れてそれを見ていた私の元にも、ピートや磯のものが混ざった香りがやってきた。

 グラスを空にした彼は、眉毛をひん曲げて苦々しい顔をしながら、手元の錠剤を口に放り込んだ。それを見ていた私も、追いかけなければ、とウイスキーを口の中へ流し込んだ。舌がひりひりとする。喉はもっと焼けていた。私はウイスキーよりもジンを飲みたかった。けれど、彼は私にウイスキーを飲むように言った。ウイスキーの味がないと、所謂「いい感じ」になれないらしい。

 私はグラスいっぱいのウイスキーを飲み干した。強いお酒を、こんなにたくさん、いっぺんに飲んだのは初めてだった。グラスから口を離して彼を見ると、いつの間にか床の上にぐったりと倒れていて、目も口も半開き、鼻の穴をひくひくと動かしているところであった。私は急いで錠剤を飲んだ。頭皮がじりじりと焼けるのを感じているうちに、彼の体の上にばたりと倒れた。

 遅かったね、と私を見るなり彼は言った。数秒しか離れていないはずだよ、と私が言うと、ここでは数日待っていたんだよ、と彼が答えた。

 月が真っ赤なせいだろうか。私たちの周りも真っ赤に染められていて、岩や地面からはどくどくと粘性の高い液体が流れ出ていた。彼もここに来たのは初めてらしかった。私と同じように辺りをきょろきょろを見渡していた。大丈夫? と尋ねると、彼は、大丈夫、と言って私の手を握った。彼の手はちゃんと温かかった。

 滑らないようにね、という彼の言葉が響く。私たちはそろそろと岩の間を歩いた。彼ら、岩たちは、暇さえあればよく分からない液体を出すようで、右耳から左耳から、ランダムに、ぷしゅ、と聞こえていた。初めは律儀に反応していたが、それも段々面倒になって、私は少しも驚かなくなった。

 しばらく歩くと、小屋が見えた。
 彼と一緒に入ってみると、中にいた中年のおじさんたちが、ぎょろりと私たちに目を向けた。おじさんたちの間にはサイコロが転がっていた。何だね、とおじさんの一人が言った。ドスの効いた声であったが、彼はあっけらかんと、ここはどこですか、と訊く。おじさんが地名らしきカタカナを言ったけれど、私は少しも分からなかった。そうですか、と彼が言うと、おじさんたちはサイコロをつかんで、振って、私たちがいないかのように振舞った。どうしようか、と彼が私の目を見ながら言ったが、どうしようも何もない。私は何も知らないのだ。顎に手を当てながら、如何にも考えている風でいた彼は、しばらくした後、そうだ、と指を鳴らした。とりあえず飛ぼう、と彼は言った。

 飛ぶのは簡単であった。足の裏が土から離れるのを想像するだけで、私の体はふわりを浮いた。ほんの数センチ地面から離れただけなのに、腕にぞわぞわと電気が流れた。恐怖の中に何故か覚える、心地のよい鳥肌に似たものだった。

 彼と一緒に雲を超えると、地上の色がよく見えた。私たちがさっきまでいたところはやはり真っ赤であったが、すぐ隣の地域は緑色で、その上は真っ青だった。私たちがいたところが赤かったのは、月のせいではないらしい。彼と手をつないで飛びながら、月を探してみたが、機嫌を損ねてしまったのか、月は何処かへ隠れてしまっていた。その代わりに、信じられないほどの数の星がきらめていて、彼らにみとれているうちに月のことはすっかり忘れてしまった。

 緑色、青色の街を越えると、彼はゆっくりと高度を落とし始めた。再び地に足をおろすと、そこは海岸であった。海は波を持たずに、渦巻いていた。あちらこちらで、ぐるぐると白い泡が回っているのが見えた。聞こえる音は、波の作り出す小豆を滑らせたような音ではなく、パイプの中を水が通るようなゴオオオオオというものばかりであった。

 彼はおもむろに私の手を離すと、ゆっくりと歩き始めて、そのまま海の中にじゃぶじゃぶと足から腰、胸を沈めていった。彼はくるりと振り帰ると、今まで見たことのないような笑顔を作りながら、私に手を振った。私もそれを追いかけて、海に足を入れた。海に濡れた部分がひりひりとしたが、あまり気にしなかった。手を動かして、彼にばしゃばしゃと水をかけた。彼も私に水をかけた。じゃれていた私たちをめがけ、海の向こうからホタルイカがぐんぐんとやってきて、私たちの周りを青白く照らした。私と彼はその雰囲気にやられて、余計にはしゃぎながら水をかけあった。

 数分もしないうちに、私は、あれ、と思い始めた。やはり、ひりひりする。初めにそれを感じた足だけでなく、腕や顔にも同じ感覚があった。
 彼に水をかけようと肩を動かしたら、驚いた。腕がきれいに消えていたのだ。ちょっとだけひりひりを感じていただけなのに、気付くと腕がなくなっていた。私は笑おうとした。けれど、笑うための口も既になくなっていた。かろうじて見える目の中で、彼もまた私と同じように溶けていた。

 私たちはどろどろになって、すっかり体を失ったのを確かめると、海の中で落ち合った。ホタルイカは、まだ、いた。液体になった私たちを囲うように、ぐるぐると泳いでいた。私たちは液体のままで混ざった。液体だらけの海の中でも、空気に漂う煙のように、彼の存在は明らかであった。私も同じように見えていたのだろうか。彼は私を包むと、そのまま細胞壁のようになって、私をすっかり囲ってしまった。私は目をつむった。目を開けていると、彼のことを内側から見つめているように思えて、何だか恐ろしかった。

 私たちはしばらく海の中でふわふわと浮いていた。話すべきこともなかった。ほとんど一体となった私たちは言葉のことを忘れていて、溶けたお互いを漠然と感じるだけであった。しかし、それだけで良かった。幸福だった。

 突然、アジに食べられた。アジも私たちを狙っていたわけではなく、たまたま通りすがったから食べたらしかった。どうしよう、と話し合う間もなく、私たちは胃まで落ちた。私をまとう彼がじりじりと焼ける音がした。彼は少しも焦っていなかった。ゆっくりと溶けながら私を見つめ、優しく微笑んでいた。私も彼を見つめながら微笑んでいると、彼はふっと消え去って、私の視界にはアジの胃が広がった。思っていたより、暗かった。数秒もしないうちに、私もじりじりと焼け始めた。痛くはなかった。腕や胸の産毛をゆっくりと撫でられているかのような、程よい刺激を感じた。私もまた彼のように溶けてしまって、見えるものは、黒、だけになった。

 私はむくりと体を起こした。アジの中ではなかった。私の部屋であった。彼は倒れたままだった。先に溶けたはずなのに、彼は優しそうな顔をしたまま少しも動かなかった。彼は液体ではなかった。ウイスキーを一気に飲み干しそうな、とても大きな体をしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?