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【エッセイ】自己犠牲と書いて何と読む

働くのが好きだ。

なんていうと、星野源の「働く男」かと思ってしまうけども、働くと言っても仕事をするという意味ではない。

僕が好きなのは、例えば、飲み会とかでみんなが呑んだくれている時に、あえて自分はセーブして、ゴミを片付けたり、会計をしたり、酔いつぶれた友人を介抱したり......そういう働き方だ。

自分がやる必要はない。

でも、誰かがやらなければならない。

そんな時に、率先して面倒ごとを引き受けるのが一番気持ちがいい。

気づいてもらわなくたっていい。

誰かが見てくれて、評価してくれているかも知れない。

その事実だけで承認欲求を満たせるし、もし本当に誰かが気づいてくれていたのなら、その時には上がった好感度を大事に胸に抱えて、毎日を楽しい気持ちで過ごせるものだ。

どうやら自己犠牲とは自己満足のことらしい。

みんなが面倒臭がってやらないことをする。

それだけでいい。特別なことはいらない。

みんなが楽しんでいる空間が目の前に広がっている中、あえてそこから一歩身を引いてみる。

同じ集団にいるはずなのに、なんだかすごく孤独な気がする。

仲間が正気を失ってゆくのに逆らって、自分は正気を取り戻す。

そうして、冷静に、周りを見渡す。

床に中身の入った缶チューハイがあるなあ。

あ、あそこのテーブルの角にあるからあげ、もう冷えちゃって誰も食べなさそうだ。

え、なおきとゆりかちゃん、2人で額を合わせながら見つめ合ってるよ......。

実は付き合ってたりして。

......こんな風に、少し冷静になって周りを見渡すだけで、今まで気づかなかったことが沢山浮かび上がってくる。

気づかなくていいことが浮かび上がることも度々だけど。

飲み会なんかは顕著で、というのもやっぱりみんな酒に酔うと素直になるみたいで、結構その人の素の部分が見られることが多い。

無防備になる人が本当に多いのだ。

そういう時に自分まで正気を失うのってなんだかもったいない気がする。

せっかく普段着飾っているような人たちまで、警戒心を解いて、弱みを見せちゃったりなんかしちゃったりしているんだから、ぜひ見届けたい!って思うのは意地が悪いのだろうか。

まあ、僕はそんな感じで、いつも周りの熱狂を遮っては、1人異世界へと迷いんこんでしまった主人公気取りの自分に酔いながら、人間観察なんていう口に出すと小っ恥ずかしい行為を、人知れず行なっているのである。

しかし、考えれば考えるほど、あの孤独感の持つ奇妙な高揚感・清涼感が、とても不思議に、そしてもの悲しく思えてくる。

それは、きっと、所属の矛盾から生まれるものなのだと思う。

肉体は社会的にその集団に属しているのに、精神は集団の外から俯瞰を決め込んでいる。

それはある種達観した行動で、いわゆる「大人」な行動だから、やっている自分はどこか優越感に浸り、快楽を手にする。

でも、それは同時に、自分が所属しなければならない集団に所属しきれていないという、いわゆる「子供」な反抗でもあり、そんな自分の不甲斐なさを痛感させる。

そして、本人は自らを省み、自分は集団という社会に不適合な人間なのではないかという苦悩にさらされるのである。

この両義性が心地よく、エキサイティングで、でも、どこか切なさを感じさせるあの孤独感の正体なんだろう。

......なんてカタいこと書いても仕方ないか。

もう少しやわらくしないと、誰にも伝わんない、ただのオナニーで終わっちまうぜ。

色々くどくど書いては見たけど、結局俺は話すのが苦手だってこと。

つまらないプライドも捨てられずに、「やだ、つまらない男ね」って思われるのが怖くて、ただ黙りこくって、縮こまるだけで何もしない。

そのくせに一丁前に得意な話を振ってもらえるのを待っていやがる。

そんな逃げ腰のチキンに誰かが構ってくれるはずもなく、居場所を失った負け犬は、免罪符としての雑用にしがみつく。

ただ、それだけのことだ。そうだろ?

こうやって、何でもかんでも理屈付けて、臭いものに蓋をしながら、自分を正当化するの、そろそろやめたほうがいいんじゃね?

まあ、それが気持ちいいっていうドMにはお似合いかもな。

自己犠牲なんて、所詮ただのオナニーなんだから。

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