【エッセイ】おもいやり

朝、電車に乗った。土曜の朝だった。だからか、車内は平日ほど混雑していなかった。それでも、見渡すと立っていない人はいない程度には混んでいるのであった。

私は、電車のつり革につかまっているとき、目の前の席が空いたのに頑なに座ろうとしない人を見ると、イライラしてしまう性質である。

それは自分が座りたいからという小さな嫉妬心よりは、その人が席に座ればもう少し車両に人が入るのに、と効率ばかりを考えてしまう性分が大きい。

その日も一つ席が空いているのを目にした。世間話に花を咲かす二人の婦人の隣の席が空いていたのだった。

私はいつものように、誰か座ればいいのに、誰も座らないのならいっそ自分が座ろうか、などと思っていた。

しかし、別段その一つの空席を埋めなくてはならないほどの混雑ではなかったから、私も座らずにいることにした。

すると、ふと、なぜその席がぽつんと空いているのかが気になり出した。

まあ、特に広い席ではなく、一瞥するだけでは空いてないようにも見える。

自分と同じようにみんな座りにくいだけかもしれない、と納得して席から目を離すと、婦人の目前に一人の年端もいかない少女が立っていることに気がついた。どうやら、二人の婦人のうちの一人がおばあちゃんらしい。

そこで合点がいった。

うら若き少女は今でこそまだ元気を保ち天真爛漫におばあちゃんのそばに立っている。しかし、いつ疲れたと言って座りたくなるか分からない。その場でぐずり出す可能性もある。その時、座ることのできる席が空いていたほうがいいだろう。

そんな配慮を周りの人々はしていたに違いない。

その気遣いが、あの不自然な空席を生んでいたのだ。それは決して周囲の目を憚った自己愛からではなく、一人の少女を慮った他者愛から生まれたおもいやりだった。


電車でおもいやりのある行為は何かと考えると、真っ先に席を譲るということが思いつく。

これには席に座っている前提がある。自分が先に所有した座席の権利を他者に譲歩する、それは近代的な所有権に基づいた配慮である。

しかし、そもそも電車の座席は誰のものでもない。

それをただ先に所有したというだけで、あたかも我が物として扱い、譲ってやったなどと誇るのは、些か傲慢ではないか。

対して、座るか座らないかも分からない一人の少女を思いやり席に座らないという行為は、言い換えれば、自由に使える権利が宙吊りになっていながらも弱者を想い各人が権利の行使を憚っている、という真におもりやりに溢れた行為であるように思われる。

"弱者に席を譲ってやる"のではなく、"弱者のために席を残しておく"のである。

弱者の方もしたり顔で上から施しを受けようものなら反発も覚えよう。

本当のおもいやりは、見えないものでなくてはならない。匿名で多額を幼稚園へ寄贈した伊達直人のように、恩着せがましくてはいけないのである。

人と人との繋がりが薄れている気がする現代において、今朝の不自然な空席のような純粋なおもいやりを目にすることが出来て私はどこか救われたような気がした。

同時に、現代的な効率性に追われおもいやりを欠いていた自らを大きく恥じた。

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