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【ショートショート】うつくしいせいかつ

マンションの灯りがそれぞれの扉を照らす時、きっと生活は平穏のもとでゆったりと流れ続けているのだろう。

僕の力の及ばないような幸せがあの部屋で流れていて、少し漏れ出ている甲高い喘ぎ声さえ、すうっと日常の一部に消えていく。

外の道路を歩く僕の小さな雄叫びのような鼻歌は、誰の耳にも届かないまま無邪気に散っていく。

あの夜通し光り続けているレンタルビデオ屋には淫らなビデオがずうっと経営を支えて手に取られるのを待っているのに、そんな健気な映像作品はのれんの奥に隠されて、感謝されるでもなく売りに出される。

男たちは恥ずかしそうに彼女たちをカウンターに出し、店員さんはニンマリともせずにそれを受け取って無機質にレジを打つ。

その一つ一つの音が日常に溶け込んでいく。

僕らの日常なんてそうやってできている。

マンションの灯りはまだ美しく輝いて、人の営みをあたかも清潔なもののように映し出しているけれど、その奥には隠されるべきものが隠されているわけで、なんだか綺麗事のようなサムい心地がじんわり心の奥底を冷やしてやまない気がした。

耳から流れ込む誇張のないまっすぐな比喩に身を委ねて、感性は昂りを見せ、知らず知らずのうちに一世代前のようなセピア色の人生がすっとフラッシュバックするようである。

素直な言葉は耳につき、こびりついて離れない。

つくづく美しさとは人間の本能に訴える正直さであり、素朴な味付けが舌を肥やすかのように純朴な美は感性をペールに彩るのだなと思う。

白いイヤホンに作り出された世界は耳を離れて、現実が耳に流れ込んでくると、サヨナラを言わない僕は、泥まみれのユニフォームで一つ綺麗なロゴが孤独に光るように、つまはじきにされた。

ふとピンクの写真が脳裏に浮かんだ。

僕は黒い民族衣装を身にまとい、あの子は淡々と真っ青なドレスを着て撮った写真だった。

現像された写真はピンク色に染まっていて、眼に映る黒いシミや青いインクなどは僕にはある種の幻想的妄想に思えた。

繋がれた手から紡がれるハートマークは一見真っ二つに割れているようで、ようく見るとあと数ミリほどの繋ぎ目がようく見ないと分からないほどに薄く二人を繋いでいた。

僕はなんだか分からなくなってあの娘のつけたハートマークを赤紫のマーカーで縁取って、中を黄色く塗りつぶしてさつまいものようなどうでもいいものにしたい気持ちに駆られ、ペンを取ったが彼女はもういなかった。

ハッと気づくと街灯に誘われた害虫のようにマンションの灯りに誘われて、僕は彼女の扉の前にいた。

ポケットの中の白いイヤホンは相も変わらず君の好きなヒップホップを垂れ流し続けているが、頭の中には君の好きな、甘ったるくて飲み込めやしないあの物語が流れている。

だらんと手首を床に差し出し、口を開けて耳を澄ます。

君の声が少しずつ、少しずつ近づいてきて、いつのまにか僕の耳元で囁いているようなそんな気がした。

君の甘ったるい舌足らずの声が、くっきりと、はっきりと、この耳を響かせていく。

反響がだんだんと大きくなり、僕の脳も次第に彼女の存在を認めはじめて指令を出す。

耳は解釈の働きを呼び覚まして、感性を下に置いてその音の連続が紡ぎ出す意味をゆっくりと、じっくりと紐解いていく。

それは紛れもなく、くすんだ虹色の快楽であり、住宅街を縦横無尽に駆け巡る彼女のどこか涼しげな悲鳴は、僕にとっての絶望に他ならなかった。

高鳴る鼓動は冷たく血を巡らし、身体は足早に行進を始める。

渇いた口から出る臭い吐息が僕の心を後ろへと引き下げ、足取りは重くなっていく。

もたもたしていると、いずれ君の叫びが僕の胸を貫き、嘘なんて気づきもしないようにそっと施しを加え、凧糸ほどの細さの真空管に僕の心が絞め殺されそうになってしまうような予感がした。

気づいた時には僕の手には一握りの小銭が握られていて、もう片方の手は情けなくポケットをまさぐり、視線は色とりどりに整頓されたゾッとするほど美しく、おぞましいパッケージに向けられていた。

後ろでのれんが小さく揺れた。

僕は逃げるように、曲げられた肘にかかった青い買い物カゴにそり立つ衝動に従って次々と作品を入れ込み、そそくさとのれんをくぐってカウンターに向かった。

店員さんは相変わらずニンマリともせず、機械のように無機質にレジを打ってはレシートを廃棄する。

ポイントカードは今日も出せなかった。

堂々と店を出た僕は、そっとポケットから白いイヤホンを取り出し耳につける。

すると、さっき流れていた世界がまた脳内に広がった。

僕は凝縮された欲望を片手に、深夜の砂浜のように静謐な道端を我が物顔で闊歩した。

耳元で流れる世界は、ついさっきとは様相を変え、純朴に紡がれていたはずの言葉たちは、僕の中で毒々しく変わっていく。

眼から頬につと流れる涙は、忙しい毎日に差し込んだ光明のように僕の心を温めあげると同時に、思わず耳を覆ってしまうほど残酷なまでに冷たく僕の心を凍らせるのであった。

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