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【エッセイ】正論という暴力

正論はいつも正しいとは限らない。

一見矛盾しているようだけど、これはある意味真理であると思う。

正しさには二面性がある。

ここでいう正論とは合理主義に基づいて客観的に物事を俯瞰し、論理的に導き出した結論のことである。そのため、議論の入る余地は残されていないように思えてしまう。

正論を持ち出された瞬間ぐうの音も出なくなる———正論にはそういった暴力性が潜んでいる。

しかし、現代の多くの人々はこうした暴力性に気付かぬままに自己心酔に陥って正論を振りかざしがちである。

そう、自己心酔に陥って。

これが正論の怖いところだ。正論を唱えている本人は、間違った考え方を持った相手を自ら"啓蒙"してあげているつもりで、そうしてどこか優越感を抱いているのだから、タチが悪い。

しかも、さらに良くないことに、完成度の高い正論はあたかも普遍的な真実であるかのように働きかけて周囲の人々をも味方に引き込んでしまう。

同調は拡大して、誤りを犯した相手はどんどん追い詰められて、やがて孤立していく。

それでも、人々は正論の持つ手軽で甘美な優越性に酔いしれて自らを省みることなく、その人を集団でこれでもかというほど追い詰めてゆくのだ。

ここまでくるともう一種の洗脳だとさえ思う。最近の芸能人の不倫を執拗に叩く風潮やYouTuberが社会の闇を暴露することを異様に持ち上げる風潮には、こうした力学が隠されている気がする。

では、本当の意味での正しいとはどういうことなのだろうか。

それは、正論のようにある特定の主義に根ざしたものではない。

道徳であったり、人情であったり、意外に思われるかもしれないが効率性であったり、様々な観点から総合的に判断して最善と思われること———これが正しいということである。

正しいとは、多様性である。

状況に応じて変化し、決まった基準はない。時には合理性に欠けることもある。

そのため、我々はその都度頭を働かせその事柄が真に正しいか否か、自らの知識経験を総動員して柔軟に適応させて判断しなければならない。

こうした作業は決まって大変であって、そういった大変さが正しいことの定義を曖昧かつ複雑にし、結果として正論の蔓延を誘発してしまっているのかもしれない。

確かに正論は正当かもしれない。しかし、最善であるとはかぎらない。

そもそも正論を正当とする根拠は本当に正当なのだろうか。本当に客観的で普遍的なのだろうか。

客観的に判断すると言っても判断するのは主体である自分だ。これは疑いようもない事実である。

そうであるとすれば客観的だという判断自体も、実はどこまでも主観的なものなのであり、正論の正当性を支える絶対的な客観性など存在しない、すなわち正論には普遍性など存在し得ないということになる。

このようにそもそも正論そのものが不確実で頼りのないものなのである。

更に、人間は全て合理的に説明できるのか、という問題も生じてくる。

仮に人間に合理性しかないのならば、我々は機械に堕してしまうだろう。

人間は機械ではない。

機械と人間の最大の違い、人間がロボットではないことの最大の証明は感情を持っていることである。

人間を説明するときに感情を切り離すことはできない。そして、感情を全て合理性に帰すことは不可能である。

現代では、科学が発達した結果どこか合理性が絶対化しているところがあり、それが文系学科の廃止や御近所付き合いの消失を引き起こす遠因であるように思われる。

しかし、我々人間は多様性抜きには語れない。

合理性は多様性を一元化し、少数の個性と呼ぶべき特徴も圧殺しかねない危険を孕んでいる。

この合理性の絶対化が更に進行し人類がすべて合理的な行動しか取らなくなったら、我々はきっとその暴力性に自らを滅ぼされるだろう。

社会が合理化の波に飲み込まれ、その矛盾が可視化してきている今だからこそ我々は、今一度自らを省みて、一元的な正論に頼るのではなく多様性に寛容に何が正しいのかを懸命に模索する必要があるのではなかろうか。

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