見出し画像

【ショートショート】静止画の街

小さな頃からひとりぼっちだった私の唯一の友達は雑誌だった。きっかけは兄である。兄は毎週有名な少年誌を買ってきて人気の三作品くらいをぱらっと読むだけで、飽きたと言わんばかりにソファに放り投げてしまうので、私は兄が二階の自室に行ったのを見計らってそそくさとリビングに忍び込み、その少年誌をかっぱらって読み明かしていた。

はじめは漫画雑誌からだったが、中学に上がるころにはもう一冊十分くらいで読み終えるくらいになってしまい、有名誌を三、四冊買うくらいじゃ物足りなくなってしまい、それから色んな雑誌を買うようになった。

女性誌、週刊誌、スポーツ誌、文芸誌、インテリア誌、アウトドア誌......。私の興味は尽きなかった。限りある小遣いをどうにかやりくりし、私は毎月出来る限りの雑誌を買いまくった。

雑誌は様々な世界を教えてくれた。女性誌のようにすっきりとおしゃれに整理されたものもあれば、週刊誌のようにごちゃごちゃとしていて、それがまたエネルギーを発しているようなものもあったし、文芸誌みたいにとことんシンプルにその世界を作り上げているものもある。

そのどれもが私にとっては新鮮で、雑誌を読んでいると、自分では気のつかなかった心の穴がすっと埋められていくようで心地よかった。私の人生に占める雑誌の割合は大きく、もはや雑誌が私を作り上げたと言ってもおかしくはないくらいだった。

そして、私は大学卒業と同時に出版社に就職した。もちろん雑誌と深く関わるためだった。だから、今、私は記者として働いている。

今日の仕事は地方のとある街への取材だった。本当は先輩の奥井さんと行くはずだったのだが、奥井さんが急遽別のアーティストの取材を受け持つことになってしまったため、私は一人でその街へ向かう運びとなった。

その知らせを聞いた時、そして自分で車を運転しながら目的地に向かっている今でも、一人で心細いというような気持ちとは裏腹に、どこかほっとしたような安堵を感じている。奥井さんは気さくで優しい人だが、少し楽観的過ぎるきらいがあって、二人で取材に行くということが決まった時、私は少し不安だった。

というのも、今日の取材先は私にとって特別な場所だったからである。

私はどの雑誌も大好きだったが、その中でも特に旅行誌が好きだった。カラフルな旅行誌をパラパラとめくり、色んな写真を眺めて、あらゆる思いをはせる、あの時間は私にとって何よりも格別な時間だった。

ページを開くごとに目に飛び込んでくる景色はどれもまさに生きている世界で、きっと今も誰かがこの中にいるのだと思うと、私は何かその写真を通して世界と繋がっている気がした。いつも一人だった私にとって、その感覚は何にも替えがたい喜びだった。

写真というものが持つ性質もまた、その感覚を強またように思う。

一枚の写真にギューっと収められた風景を見ていると、かえって目に見えない部分への想像が掻き立てられた。

私は地図を見比べながら、「このお店の裏には学校があるんだ。パンを買ってるこの若い男の子は、もしかするとその学校の子なのかな。授業をサボってたりして」とか「この遺跡は一見、自然の中にポツンとあるみたいだけど、近くにはこの遺跡より高い高層ビルが立ってるんだ。現地の人たちにとっては別に珍しくもないのかな。遺跡で鬼ごっことかしてたりして。」とか、ひとり勝手な想像を働かせて、その世界に浸ることが多かった。

それはあくまで写真だからできたことだろう。限られているからこそ、ロマンがあるのだ。本当に見えてしまっては、趣も何もあったもんじゃない。夢は現実から距離を取った時、はじめて掴めるものなんじゃないだろうか。私はその写真の持つ非現実的な性質とそれ故にその中に潜んでいる無限の可能性が大好きだった。寧ろ写真の良さはそこにこそあるのだと思っていた。

でも、あの写真を見た時、その考えはガラッと変わってしまった。写真だけでは、決して分からないものがあるんだと、そう思ったのだった。

その写真は、いつ買ったかもよく分からない、多分どこかの古書店で購入したのであろう、やけに古い旅行誌の中にあった。

それは、ある中世風の街の入り口を撮ったものだった。ヨーロッパの方では、中世、街の周りに城壁が巡らされたことがあるという。その目的は防壁としてだったか、それとも他の理由だったかよく覚えてはいないが、目的はともかく、きっとその写真に写っている街はその時代に作られたものなのだろう。

写真は入り口にあたるゲートを写したもので、ゲートの両側にはレンガ造りの壁が、画面いっぱいに見切れてそびえ立っていた。肝心のゲートは写真の丁度半分くらいの高さしかなく、その中からは街が辛うじて少し写っていた。こんなに歴史めいた景観を外側に持っておきながら、その内側かはちらっと見える建築物は軒並み現代風のモダンな造りであり、中には青果店やレストランまで見える。そのミスマッチさは、歴史の重厚性を思わせ、異質ながら奇妙な調和を実現していた。

これだけでは私も、確かに素晴らしい景観だなと思うだけで、自分の信念を曲げるまでして、どうしてもこの目で見たいなどとは思わなかったと思う。ただ、あの時、私は何としてもこの目で見たい、いや、見なければいけないとさえ思ったのだ。

私はそのいつのまにか私の手元にあった旅行誌に妙に惹かれていた。そして、何かうまくいかないことや落ち込むことがある時は、別に意識するでもなくひとりでにそれを眺めていた。

五回ほど眺めた頃であろうか。私は異変を感じた。どこか、前見たのと違う気がする。そんなはずはないと自分の馬鹿な考えを笑いながらも、私はそれまでの記憶を頼りに、丁寧に写真を見た。そして、私はその異変に気がついた。

最初に見た時には確かにこの目で確認したはずの、あの青果店がなくなっている。どこをどう探してもない。代わりに、その青果店があったはずの場所にはコンビニエンスストアが入っていた。

そんな馬鹿なと思いつつ、私は定期的にその旅行誌を確認することにした。そして、ある重大な事実を知った。

そこに写っている街は、日々姿を変えていたのである。その変化は、コンビニの電気がついているかどうかというような些細なことから、店自体が変わっていると言ったような大きなことまで、様々だった。その様子は、まるで本当に「生きている」かのようだった。

一体、これはどういうことなのだろう。私の目の錯覚に過ぎないのだろうか。にしては、あまりに変化がはっきりし過ぎている気がする。しかし、俄かには信じられない。

私はその時はじめて写真の限界を感じたのだ。そして、必ずこの謎を解き明かそうと決意した。私はこの謎を解き明かすために生まれてきたのだとさえ思った。

そして、遂にその場所を訪れる絶好の機会が訪れたのだった。だから、私は何としても取材を失敗する訳にはいかないのだ。

はやる気持ちを抑えながら、人気のない一本道を行く。街はもうすぐだった。

やがて車は森の中に入り、舗装すらされていない道を跳ねながら進んだ。途中道を迷いそうになりながらも、私はなんとか車を正しく走らせた。

そして、遂にあの写真の場所にたどり着いた。

その外装は写真で見たまんまだった。意外だったのは、写真に写されているところ以外は木が異常なまでに生い茂っていてよく見えなかったことだった。

ただ、今はそこに注目している場合じゃない。私は、帰りに街の周りを調べるということを忘れないようにスマホのメモに残して、車を後にした。

近づいてみると、中には人気は一切ない。しかし、そこに見えるのは手元にある旅行誌の中の写真と全く同じ景色だった。

いざ門の前に立つと、流石に興奮を抑え切れなかった。あんなに恋焦がれた景色が、今眼前に展開されているという事実が、信じられない。

中はどうなっているんだろう。人は住んでいるのだろうか。どうして写真は動くんだろう。

長年の疑問が絶え間なく湧き出てくる。その答えが、もう目の前にあるのだ。さあ、行こう。

私は覚悟を決めて、門の中に一歩を踏み出した。

その時だった。一瞬、辺りがぐにゃりと歪み、身体が押し潰されるような気がした。私はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。

「パーパラッパパーパラッパパパパパパッ」

突然街中に響き渡るファンファーレに驚いて、顔を上げる。すると、さっきまでどこにもいなかったはずの人がいた。それも、目視では数え切れないほど大勢の人だった。そして、彼らは全員何故か花飾りを頭につけていた。

それほどの夥しい数の人たちが、みんな口を揃えて「おめでとう!おめでとう!」と言って拍手をしている。私には何が起きているかさっぱり分からなかった。

困惑する私の前に、その中のリーダー格と思われる四十代くらいの若めの男性が歩み出てきて言った。

「ようこそ!君は選ばれたんだよ。誇りに思っていい。今日から君もここの仲間だ!」

「バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ!」

周りの人々はみんな一寸の狂いもなく両手を上げて唱和する。それはあまりにも揃い過ぎていて、何だか君が悪かった。

私は男の言った意味が飲み込めなかった。しかし、私は記者である。こうした状況こそ、自分を強く持って対峙しなければならない。私は勢いに気圧されながらも、必死に取材をしようとした。

「あの、すみません。私、夕月出版のものです。こちらの街を取材させていただきたいのですが」

すると、男はにっこりと笑った。

「取材?そんなの必要ないさ。君はもう解放されたんだよ」

「『解放』?どういうことですか?さっきも、『選ばれた』だの『仲間』だのおっしゃってましたが、ここは一体何なんですか?」

さっきからあまり要領を得ない発言を繰り返す男への苛立ちが抑えきれず、私は思わず強い口調で聞いてしまった。けれども、男は余裕そうに笑って言った。

「はっはっは、威勢がいいね。分かった、説明しよう。君は選ばれたんだ。この写真にね。」

「写真に?」

「そう。君は写真を愛しているだろう。だから、この写真がそんな君を引き入れたんだよ。ここにいる人たちはみんな君と同じように、写真を愛して魅入られたやつらさ」

私はいまいち男の言うことが飲み込めなかった。一体何の話をしているんだろう。きょとんとする私を気にかけることなく、男は説明を続けた。

「さっき、君はここが一体何なのか聞いたね。教えてあげよう。ここは写真だ。写真の中の世界。君は今、写真の中に入ったんだよ。」

何を言っているんだろう。今までと違って、男の言葉は最も理解できるものだった。しかし、その内容は私の頭で理解できる範囲を、軽く超えていた。

「写真の中って。そんなことあるはずありません。いい加減なことを言ってからかわないでください。私は、この素敵な地を後世に残すため、取材に来ました。どうか、取材を続けさせていただけないでしょうか。」

男は耐えきれないかのように大きく笑った。つられて、周りの連中も大口開けて笑い出した。

「はっはっは、だからさっきも言ったじゃないか。君はもう取材する必要なんかないんだよ。解放されたんだから。さあ、認めなさい。この写真の世界にいるということを。どうしても信じられないというのなら、後ろを振り返るといい。」

私はその言葉通り、後ろを振り返った。そこに、車はなかった。いや、それどころじゃない。私の見える範囲に、私のいた世界はなかった。その代わりに、真っ暗な宇宙のような空間が彼方まで広がっていて、そこには色んな映像が浮かんでいた。

「あれって、もしかして」

私がそう呟くと、男はそれに続くように言った。

「この写真を見ているすべての人々だ。君のこともここからずっと見ていたよ。ここを見つけてくれて本当によかった。写真を変えたかいがあったよ」

私は男の最後の言葉に耳を疑った。写真が変化していたのは、彼らの仕業だったのだ。私は、一つの大きな疑問の答えを男に見出し、質問した。

「写真を変えた?何故ですか?」

「その変化に気がつく、写真を愛するものを呼びよせるためだよ。君のように。」

男はそう言って近づいてくる。男に合わせて、周りの人々も狂気じみた笑顔を浮かべて、じりじりとこっちにやってきた。

私はあとずさりを余儀なくされた。一歩、また一歩、後ろに下がる。けれど、それもすぐに限界を迎えた。門が背中に当たる。

私は踵を返し、門を開けようとした。しかし、いくら揺すっても門は開かなかった。そんな私をせせら笑うように男は言った。

「無駄だよ。言っただろ。君はもう写真の中なんだ。身体はぺちゃんこ。もう二度と3次元には帰れない。門は何をしようとも開かないよ。さあ、おいで。」

男が手招きをする。その周りには先の見えない人壁が出来ていた。もう逃げ場はなかった。

ならばせめて、書き残さねば。私は自分の中のジャーナリズムにしたがって、バッグの中を探り、スマホを取り出そうとした。しかし、どこにも見当たらない。車の中に置いてきたのだろうか。仕方ないので、旅行誌を取り出し、メモをとろうとあのページを開くと、そこに写真はなかった。まるで最初からそんなものなかったかのように、そのスペースだけぽっかりと空いていた。

なす術のない私に、男が両手を伸ばす。男は花飾りを持ち、天に掲げ、そっと私の頭の上に置いた。その瞬間、私の身体に電撃が走り、落ちたカバンから雑誌が散乱した音だけが聞こえた。

(*)

あれから私は幸せな毎日を過ごしている。

気の合う友達がたくさんできて、私は一人じゃなくなった。写真が本当に私を世界に繋げてくれたのだ。写真は何と素晴らしいものだろう。

私はきっと写真のために生まれたんだと思う。何よりも写真は美しい。寄り添ってくれるのは結局写真だけなんだ。

今日もまた門が開く。新入りがおどおどしている。そんなにビクビクする必要なんてないのに。彼は今から幸せになるのだから。私はその幸福を願って、何度も「おめでとう!おめでとう!」と拍手をした。

拍手をしながら、自然と涙がこぼれた。涙は自分のものとは思えないくらい冷たく頬を流れていく。その時、ふっと何か忘れているような感覚が頭をよぎった。大事なものがごっそりと心から抜け落ちているような気がした。でも、一瞬頭がピリッとすると、幸せな気分が身体を満たし、そんなことどうでもよくなった。

私は満ち足りた興奮状態のまま、新たな仲間の参入を両手を上げて喜び、自分もまたこの写真でみんなを幸せにしようと固く誓った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?