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40.雷水解(らいすいかい)【易経六十四卦】

雷水解(困難が解ける/雪解け)


dissolution:解消

事は解けて、緩む時なり。 力量未だ、もう一歩の努力が実りをもたらさん。


物不可以終難。故受之以解。解者緩也。(序卦伝)

物は以て終にかたかるべからず。故にこれを受くるに解を以てす。解とはかんなり。

解とは難の散ずるなり:艱難の解け散る場合に処する道を説く。
物事は、いつまでも苦しみ悩んでいることはできない。必ずそれを解決する方法があるものである。


解とは、文字どおり、困難が解消されることを指します。厳しい状況が和らぎ、解決へと向かうことです。季節に例えるなら、春分の時期に相当し、固い氷が溶け、すべての生物が目覚める時期です。これまで苦しんでいた難題が解決し、新たなスタートを切るときが訪れたのです。この機会を逃してはいけません。迅速に好機をつかむことが重要です。ぐずぐずしていると好機を逸してしまいます。
卦の形は、春雷(震)と春雨(坎)を表しています。まさに春耕播種の時期であり、怠けて過ごしてしまうと一年の収穫が台無しになってしまいます。厳しい冬を乗り越えた解放感に浸るのは良いですが、ここで気を緩めてはいけません。
卦の象意では、上の卦は震()で動きを意味し、下の卦は坎()で困難を意味します。この卦は、動きによって困難を乗り越えた状態を示しています。解の卦は、屯の卦と対比させるとその意味が明確になります。解の卦は、屯の卦の内卦である震()の若い芽が、外卦の坎()の寒気を突き破って外に飛び出した形です。
自然界では、寒気(坎)が地上を覆い、そのために地下の若い芽(震)が伸び悩んでいます。しかし、盛んに奮起して最終的には寒気を突き破り、成長してきたのです。

永い間の苦労がようやく解消されて一筋の光明が見えてくるとき。 今までに苦労に苦労を重ね、努力してきたことがやっと実を結ぶことになるが、けれども運勢はこれからで今すぐ上々吉というわけには行かない。 ともすれば苦労してきたことが、気の緩みから一瞬にして灰燼に帰したり、折角治りかかった病気が油断して再びぶり返したり、一生懸命貯めた金がつまらぬ事であっというまに消えて終わったりする。 目処が着いて来たといおうか、今が一番大切な時で、こんなときはできる限り事を慎重に運び、決して手抜かりをしないこと。 しかし今から計画したり、やろうとしていることは芳しくなく、恐らくやり始めてもすぐに解消して終わらねばならぬから無駄なことはしない方がよい。

[嶋謙州]

ああだこうだとわかままをいって、都合の良いことばかり主張し、いがみ合ってみたところで、どうにもならない。そういうことをやれば結局解決することはできません。 そこで解の卦の大象をみますと、赦過宥罪~過ちを赦し罪を宥す、ということを説いております。過失をした者は無罪放免し、また罪を犯した者には、できるだけ寛大に扱い、その罪を軽減して人心が伸び伸びとするよう一新することだと説いております。実に頭が下がります。易がここまで丁寧に教えておるのかと思いますと、初めて易を学ぶ人はびっくりしたり、しみじみと反省させられたりするのであります。 赦過宥罪、それで初めて悩みが解けるのであります。

[安岡正篤]

解。利西南。无所往。其來復吉。有攸往。夙吉。

解は、西南に利あり。往く所なければ、其れ来り復って吉なり。往くところあれば、はやくして吉なり。

『解』とは、雪解け、解散、そして困難の解消を意味します。この文字は、刀で牛角を割くという意味があり、『判つ』と同義です。解くことにより、物事を明瞭に理解するという意味が含まれ、解釈や理解といった熟語が生まれました。しかし、この卦名の『解』においては、深く追求せずに、一つであったものを判つという事象に由来する『解放』『解散』『緩懈』といった意味を持たせています。長らく解決策のなかった問題が、ようやく解決に向けて動き出す時期を示しています。
内卦の坎は冬を、外卦の震は春と雷を象徴しています。この卦は春にあって寒気が緩み解ける様子を示しており、『解』と名付けられました。
人事に照らし合わせると、坎の険阻から震の奮動により解散が起こり、坎の難みを震の出動によって脱することができ、天下の坎の邪悪が震の喜びで解消されることを意味します。したがって、この卦は険を前にして艮まることを余儀なくされた蹇の状態が解消されると考えられます。
ただし、険中に留まるうちに自ずと解消の気運が訪れるのを待つのではなく、いかにして困難を脱出しようとする努力が現れたと見るべきです。難みが解け、憂いに閉ざされた状態が和み緩むというのが、この卦の大意です。困難が解消された後の政治方針は、簡易安静であるのが良いでしょう。いつまでも不安定であるべきではありません。
『西南に利あり』というのは、この卦が『升』から来ていることを示しています。『升』の九三が六四と入れ替わると『解』になります。升の上卦は坤、西南の卦であり、西南に九三が入りこんで解になります。よって『西南に利あり』というのです。これは、西南の方角が有利であるという占断ですが、同時に簡易安静であるべきという戒めも含んでいます。西南、すなわち坤は大地であり、平たく静かな性質を持つからです。
『往くところなければ』困難が解けて行動の必要がない時には、本来の場所に帰って安らぐべきです。『往くところあれば』まだ解決すべき困難があるなら、一刻も早く行動し解決して元の状態に復帰するべきです。紛擾を長引かせてはいけません。
占ってこの卦が出れば、難儀は解けます。西南の方角が良いでしょう。行く必要がなければ、じっとしているのが吉です。どうしても行かねばならぬことがあれば、早く行って早く帰るのが吉です。


彖曰。解。險以動。動而免乎。解。解利西南。往得衆也。其來復吉。乃得中也。有攸往夙吉。往有功也。天地解而雷雨作。雷雨作而百果艸木皆甲拆。解之時大矣哉。

彖に曰く、解は、険にして以て動く。動いて険をまぬかるるは、解なり。解は西南に利あり、往きて衆を得るなり。其れ来り復って吉、乃ち中を得ればなり。往くところあればはやくして吉、往きて功あるなり。天地解けて雷雨おこる。雷雨作って百果ひゃっか草木みな甲拆こうせつす。解のとき大いなる哉。

『作』は起こりを意味し、『甲拆』は種子の硬い殻が熟して裂けることを表しています。雷雨が地を潤し、百花草木が芽吹く情景を象徴しています。これは、天と地の気が交わり解け合い、冬から春へと移り変わる様子を表しているのです。春雷や春雨が起こり、雪解けの時期が訪れるのです。
「解」は険と動から成り立ち、動いて険を乗り越えることから「解」と名付けられました。卦辞には「解は西南に利あり」と記されており、西南は坤であり、平易な方針で困難を解決すれば多くの人々の心をつかむことができることを意味しています。
には多数の人々を象徴する意があります。升䷭の九三がの中に入ることで「解」となり、これが衆を得るということなのです。
「往くところあれば夙くして吉」とは、早く行動すれば功績があることを意味し、これは九二に対して言われています。人間の世界においても塞がりがあっても、時が来れば解決するのは、大自然の法則がそのようになっているからです。
天地陰陽の気が秋から冬にかけて閉ざされ凍結していても、その閉塞の極点に達すれば、一斉に解け散り、雷雨が起こります。雷雨が起こるとき、すべての果実や草木は硬い殻を破って芽を吹くのです。これも解けることの一例です。『解』の卦に表現される困難の解決の時期というのは、まさに偉大な瞬間なのです。



象曰。雷雨作解。君子以赦過宥罪。

象に曰く、雷雨作らいうおこるは解なり。君子以て過ちあるを赦し罪あるをなだむ。

『過』とは、意図しない過失を指します。『赦』は、全く罰を与えないことを意味します。『宥』は、罰を軽減することを表します。
塞がっていた天地の気が解けて雷雨が起こるのが「解」の卦の形であり、君子はこの卦に象って過失のある者を釈放し、罪のある者の刑を減じます。これは自然の動きに対応するためです。
実際、中国では、大晦日までに死刑執行が完了しなければ、春を迎えた場合、その年の冬まで命が延びる習わしがありました。



初六。无咎。 象曰。剛柔之際。義无咎也。

初六は、咎なし。 象に曰く、剛柔のまじわり、咎なきなり。

『際』は「接」と同じ意味を持ち、『義』は「宜」を意味します。解卦とは、困難が解消された時を表しています。
初六は柔爻で最も下に位置しています。これは、おとなしく目立たない場所にいることを示しており、安全であることを意味します。さらに、上には九四という応援があるため、何の咎もあるはずがありません。
初六は陰爻であり、本来は咎があるべきところですが、その疑いを前提として「咎なし」としています。解卦は、陰の小人を排除して困難を解くことを爻象としているため、この初六には解消すべき咎があるはずです。しかし、この爻だけが険の外に免れ、九四と応爻となっているため、咎を免れることができるのです。
本来、陰の小人が困難の原因となるのは、媚びへつらって権力者に取り入り、その権力の陰に隠れて私利を図るからです。これは厳しく戒めるべきことです。しかし、陰が陽に従い、陽が陰を率いて交わることは、物事の本来の性向であるため、その点を咎めることはできません。
占ってこの爻を得た場合、大吉ではないが咎はありません。象伝の意味は、初の柔爻と四の剛爻が相応しているため、当然(=義)として咎がないのです。


九二。田獲三狐。得黄矢。貞吉。 象曰。九二貞吉。得中道也。

九二は、かりして三狐さんこ黄矢こうしを得う。貞しければ吉なり。 象に曰く、九二の貞吉ていきつなるは、中道ちゅうどうればなり。

『田』は田猟の意味で、狩猟を指します。内卦と二三四爻の坎離を弓矢と見なし、離は網と解釈され、猟の象徴とされています。坎は穴や隠伏、奸智を意味し、これを狐と見なします。また、六二は三陰の坤の中央に正直な一陽があるため、これを三狐とし、黄矢と呼んでいます。
狐は邪悪で人を惑わす動物であり、小人の象徴です。三匹の狐とは、この卦の四つの陰のうち、六五の君を除いた三陰爻を指します。九二は剛毅で中道にあり、六五の君に信用されています(六五と九二は応じます)。邪悪な小人たちを退治することができるということを「田して三狐を獲」と表現しています。
『黄矢を得』とは、狐を射て逃がすと黄金の矢を失いますが、狐を射留めれば刺さっていた黄金の矢も手に入れるように、そこから喜びが生まれるという意味です。黄は地の色であり、地は五行(木火土金水)の中央に位置します。矢は真っ直ぐなものであり、黄矢を得るとは、小人を追い払うことで中庸で真っ直ぐな道を進むことを指します。これは矢が真っ直ぐ飛んで目的の中心を射抜くように、解の道に正確に当たっているからです。占いでこの爻を得た場合、悪人を退治して正義を行うことができ、貞しい道を堅持すれば吉です。


六三。負且乘。致冦至。貞吝。 象曰。負且乘。亦可醜也。自我致戎。又誰咎也。

六三は、る、こうの至るをいたす。貞しくとも吝。 象に曰く、負い且つ乗る、ずべきなり。我よりじゅうを致す、また誰をか咎めん。

『負う』とは、荷物などを背負う行為を指し、卑しい仕事を象徴しています。一方で、『乗る』は輿に乗ることを意味し、尊い地位を示しています。これは、六三が九四の陽を上に背負い、さらに九二の陽の上に乗っていることを、身分の低い者が高貴な地位にいることに例えたものです。
繋辞伝では、この爻辞について「荷物を背負うのは卑しい者の仕事であり、車は貴人の乗り物である。もし卑しい者が貴人の乗り物に乗れば、強盗がその車を奪おうとする」と説明しています。これは、実力のない者が分不相応な高位に就くことを表しており、その結果、世間から注目され、その地位を奪われるということです。自分の分を超えた地位にいることは、自ら災難を招くようなものです。
中国の詩文で分不相応な地位に就くことを『負乗』と表現するのは、この辞から来ています。六三は陰爻でありながら、下卦の最上位に位置しています。しかもその位は「不正」(陰爻陽位)です。六三は、解の時に除かれるべき小人であるだけでなく、内卦の極まる場所に位置し、奸侫の者が高位についていることを示しています。徳がないのにその位にいるため、たとえ正しい順序を踏んで上位に就いたとしても、吝窮を免れません。その地位に執着するならば、後に悔いることも及ばないような凶禍を招く、これが『貞吝』です。
能力もないのに分不相応の高位にいれば、その位を奪おうとする者が必ず現れます。このことを「負い且つ乗る、寇の至るを致す」と言います。『寇』は強盗を意味し、『致す』はそのような事態を自分から招き寄せることを意味します。
象伝の『醜』は愧と同じ意味を持ち、『戎』は兵、寇を言い換えたもので、強盗の集団を指しています。


九四。解而拇。朋至斯孚。 象曰。解而拇。未當位也。

九四は、なんじおやゆびを解く。とも至りてここに孚あり。 象に曰く、而の拇を解く、いまだ位に当らざればなり。

『而』は爾に通じ、なんじを意味します。『拇』は足の親指を指し、『解』は元々、牛の角を刀で切り離すことを意味します。『孚』は信ずることを表します。而は九四を指し、而の拇は初六を指します。初六は九四の「応」なので、而のといい、一番下なので拇というのです。九四と初六は共に「不正」であり、不正を以て互いに応じています。しかし、九四は陽で君子であり、初六は陰で小人です。今は応じているとはいえ、決して同志にはなり得ません。
この九四は奮起して君位の六五を助け、天下の難題を解決する立場にあります。たとえ足とその親指のように切り離せない関係であり、またやましいところのない『義咎なし』の交わりであったとしても、相手が陰の小人であれば苦痛を忍んで解き離さねばなりません。そうすれば、陽をもって陰位にある不正から生じる疑いも晴れ、初六との応対にも影響を受けず、『田して三狐を獲』九二もやって来て、互いに信じ合い、力を合わせて解の功を遂げることができます。
九四が自身の足の親指を切る、すなわち初六との腐れ縁を断ち切るならば、君子の朋友が寄って来て、自分を信じてくれるようになるでしょう。占ってこの爻を得た人は、悪い相手との交わりを断ち切れば、良き朋友の信用を得ることができるでしょう。象伝において、位に当たらずとは「不正」と同じ意味です。不当位とは言わずに未当位と言うのは、「正」であるべきが「不正」であることを惜しむ感覚を表しているのです。


六五。君子維有解。吉。有孚于小人。 象曰。君子有解。小人退也。

六五は、君子れ解とくことあれば吉なり。小人にしるすことあり。 象に曰く、君子解くことあれば、小人退くなり。

この卦には陰爻が四つ存在します。陰は小人を象徴しますが、その中で六五だけが君位に位置しており、これは君子を表します。しかし、他の三つの陰爻と同じ性質を持っているため、小人と見分けがつきにくいです。
君子は君子とだけ交わるべきですから、もし六五が他の三陰から離れることができれば、その結果は吉となります。
全体的に見て、君子が人々との関係を断つとき、退くのは小人であるべきです。六五がここで、本当に悪しき関係を断ち切ったかどうかを確かめるには、小人が退いたかどうかを確認すればよいでしょう。
『孚』は信頼を意味し、さらに証拠を意味します。『有孚于小人』は、小人に対して証拠があり、小人が退くことをもって何よりの証拠とするという意味です。この爻を得た人は、小人との交際を断ち切れば吉となるでしょう。


上六。公用射隼于高墉之上。獲之。无不利。 象曰。公用射隼。以解悖也。

上六は、公用こうもっはやぶさ高墉こうようの上に射る。これを獲て、利あらざるなし。 象に曰く、公用て隼を射るは、以てはいを解くなり。

『小人は利に喩る』とあるように、小人の行動は利欲に基づいています。九二ではこれを狐に喩えましたが、ここでは肉食鳥の隼に喩えています。九二は坎の主爻であり、穴にいる獲物を示していますが、上六は卦の最も高い位置にあり、高い墉の上にいる獲物を示しています。
孔子は繋辞伝でこの爻辞を引用し、次のように説明しています。
「隼は禽なり。弓矢は器なり。これを射るは人なり。君子は器を身に蔵め、時を待って動く。何の不利かこれ有らん」
上六は卦の最高位にありますが、五の君位ほどの良さはありません。ここでの「公」とは公爵や諸侯を意味し、隼は悪い鳥で小人を象徴しています。六三を指しており、『墉』は土塀を意味します。高い墉は、上六が卦の最も高い場所に位置することから名付けられました。
この爻は解の卦の終わりを示しており、すべての混乱が解決されるべき時です。この段階に至り、内外の清掃がなされ、今度は高い城壁の上で内部の隙を狙っている隼を射落とすことが重要です。六三にいる不相応な高位を狙う小人が上六によって撃ち落とされる様子が、隼を高い墉の上で射止めるという象徴です。
上六は柔爻で、一見柔弱に見えますが、その裏には弓矢を隠し持ち、時を待って悪人を一挙に射殺します。こうして平和を乱し、正義に逆らう道を外れた小人を排除することで、初めて解の困難から脱却することができるのです。この爻を占った場合、敵を退治するのが良く、何の不利もないでしょう(=无不利)。
象伝にある悖を解くとは、叛乱を解決することを意味します。


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